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いちから、ということ。

『カレーライスをいちから作る』という映画を見た。これはグレートジャーニーの関野吉晴さんが1年かけて自分のゼミ生たちに「食べる」ということを教える内容となっている。私の住む街には岡山映画祭というものがあるからありがたい。気になっていた映画を見事にピックアップしてくれるのだから。

いちから作る、ということは私の両親が私に教えてくれたほぼ唯一のことではないかと思う。とにかくうちの家族は、あらゆることをいちからやった。トイレの汲み取りは自分たちで肥溜めの畑まで運んでたたことは当時恥ずかしくて言えなかったし、井戸水を吸い上げるモーターが止まって夜な夜な調子をみたり詰まりをとったりするのは日常茶飯事だった。つまり、生活をいちから作るということはとーーーっても骨が折れることだった。

植林から伐採した杉の木で小屋を作り、鶏を育てて卵を食べて、そして最後に鶏も食べる。放棄された畑を三つ子で耕して、クワを使って畝を作って種をまく。そんな生活をしておりながら、社会のテストで「あなたはスーパーで虫くいキャベツとピカピカキャベツのどちらを選びますか?」という問題にて私は平気でピカピカキャベツを選んで両親に絶大なるショックを与えた。

映画の中で、いちから作ることは世界の成り立ちを知ることだと関野さんが話していたけど、それを知るには私の想像力は乏しかったらしい。

私は最近、猟師さんに連れられて箱罠にかかった鹿をナイフで仕留めるところに同行した。二つの罠に3匹、そのうちの2匹は母娘、どれもまだ小さな鹿だった。お尻が震え上がって、息遣いが遠くにいても聞こえるくらいに荒い。檻に追突して逃げ出そうとするから、鼻と口は血で真っ赤になっている。こんな気迫、体験したことがなかった。死を観念しない生き物を目の当たりにして、じりじりと心臓が握りつぶされる気分だった。ただ見てるだけなのに、その場から逃げ出したくなった。

ピカピカキャベツを選んだ私はいつの間にか、余ったモノを平気で捨てるようになった。想像なんてしているようで全然できていない。なんとなくわかったつもりの感覚なんてアテにならないのね。それがわかっただけでも今年一番の儲けものだったかも。


「サウダーヂな夜」という変わったカフェバーで創刊された「週刊私自身」がいつの間にか私の代名詞。岡山でひっそりといつも自分のことばかり書いてます。