「外」とは何か?分析哲学入門(パトナム、ブランダム、入不二基義)

※2024年度新歓発表原稿

序.「外」とは何か?

何かに閉じ込められている、という直感はごくありふれたものだろう。言葉に出来ない窒息感に苛まれた際、当然に、何をすれば私たちを閉じ込めているものから出ることが出来るのか、私たちはいかにして「外」に到達できるのかが問われることになる。「外」に触れたという決定的な体験をしたとしても後から振り返ればそれが本当に外であったのかは分からなくなってしまうから、私たちはいつでも自己確証出来るような仕方でその方法を求めることになる。

分析哲学においてこの問題は心と世界とのつながり、言い換えれば言語による指示の関係として繰り返し問われ続けてきた。私たちの使う言葉が私たちの外にある世界の事物を指示することが出来ているのなら、私たちは単に心の中に囚われているのではなく、世界という外と確かにつながっていることになる。また、指示が成功していれば指示対象は心と独立の世界の側にあるはずなので客観的であることになり、そこから他者とのコミュニケーションの可能性も開かれることになる。指示は他者という外とのつながりも確保してくれる。

しかし、本当にそうだろうか?『マトリックス』のようなケースを想定してみよう。私たちの普段の言葉の使い方もマトリックス内での言葉の使い方も同じはずだが、マトリックス内には本当は客観的世界はなく映像を見せられているに過ぎない。そのため、指示は成功していないことになる。そして、指示対象も世界の側で同一性を有するものではないから各人が各人の見ている映像をのみ指示していることになり、他者との共通の基盤は壊滅してしまう。更に、私たちの普段の言葉の使い方もマトリックス内の言葉の使い方も同じだとすれば、私たちが住んでいる世界とマトリックスの世界とを区別する手段など実はなく、この世界こそマトリックスの内にあるのではないか…?ゾクゾクするような想定ではあるが、これは不可能だとするヒラリー・パトナム(1926-2016)の議論がある。「水槽の中の脳」として知られるこの議論を追っていこう。

 

第一部 パトナムの議論と注釈

1.「水槽の中の脳」[1]レジュメ

◇何かが何かを指示しているとはどういうことか?[2]

・蟻が砂地を這った跡が、チャーチルの顔のように見えたとしよう。蟻はチャーチルの顔を描いたのか?

→そうではないだろう。蟻はチャーチルの絵に見える線を引いただけだ。

・つまり、類似性だけでは何かが何かを指示する(表現する)ことは出来ない。

・逆に、まったく類似していないのに指示が出来ている場合もある。「ウィンストン・チャーチル」という語は実際の人物としてのチャーチルと全く似ていないが、指示できている。

・問題「いったいどのようにして、あるものが別のものを表現する(または「表す」等々)ことができるのか。」

・よくある答えは「意図」(intention)の有無である。表現することを意図していれば、表現は成功する。

・しかし、意図することが出来るためには、私たちは表現しようとしている何か「について考え」ねばならない。

→すると同型の問題がまたもや生じる。いったいどのようにして、思考が別のものを表現できるのか?思考はどのようにして外在的なもの(思考の外)へと届くのか?

・これに対してブレンターノからはじまりフッサールに代表されるような現象学派を中心とする哲学者たちは、「志向性」(Intentionality)という概念を持ち出して応答した。

→思考(心)は物理的対象と異なり志向性を持つ。つまり、他のものを指示するという能力を持つのだ。

・しかし、これは単に心に神秘的な能力を付与しただけであって問題の解決にはなっていない。

→明らかにすべきなのは志向性、あるいは指示がいかにして可能か、ということである。

 

□指示の魔術説

・物理的な表現(例えば絵)がそれが表現するものとの必然的な関係を持ちえないことは既に確認した。同じことは心的イメージについても言える。

→人類が他の惑星に樹木の絵を落としていった。その惑星の住民は樹木を知らない。私たちがその絵を見て抱くイメージと他の惑星の住人がその絵を見て抱くイメージは同じだが、それが樹木の絵であるのは私たちにとってだけである。

→これに対して、樹木を写した絵であることによる樹木と絵との因果連鎖に基づいて、絵は他の惑星の住人にとっても本当は樹木の絵なのだと論じる人もいる。しかし、もし絵が単に絵の具が飛び散って樹木のようになったもの(樹木との因果連関のないもの)だったとしても、私たちにとっては樹木の絵であり、他の惑星の住人はそうは見ないという事態は同じままなので、その論は成り立たない。

・同じことは語についても言える。猿がタイプライターを叩いて書いた語、語を理解せずに暗唱する人の言葉、は何も指示しない。

・催眠術によって「理解した感じ」がする場合でも、その語を正しい文脈で使えなかったり、自分が何かを「思考」しているのか問われて答えられないのなら、その人はその語を理解していない。

・このような想定は例え実際に蓋然性は低いにせよ論理的にも物理的にも起こりうる。

→従って、語や心的イメージを抱いていても、それだけでは指示は成功しない!

 

□水槽の中の脳の場合

・ある人が邪悪な科学者によって手術を受け、脳だけを取り出されて培養液の入った水槽に入れられる。神経の末端には超科学的コンピュータが接続され、その人はあたかも実際にそうであるように物事を見たり感じたりする。

→認識論の講義であればこれは外部世界への懐疑論を提起する(「あなたがこのような苦境にないことをどのようにして知りうるのか?」)ものだろう。そして、これは心と世界の関係を知るためにも役立つ。

・この例はさみしくないように、全人類がそうされているという風に拡張できる。

※マトリックスのようなケース

・われわれは、われわれがこうした脳なのだと言ったり考えたりできるだろうか?

→パトナムは「できない」と論じようとする。この想定は物理法則に抵触するわけでもないし、私たちの経験と整合的だし、そうした可能世界を考えることも出来るのだが、しかし、自己論駁的であるが故に不可能なのだ。

 

□テューリングのテスト(※予備的考察)

・テューリングテストとはそのコンピュータが意識を持つかどうかを調べるためのものとして考案された試験である。

→コンピュータと人間がテキストメッセージを通じて会話する。その会話を見た第三者がどちらが人間でどちらがコンピュータかを判断することが出来なかったら、そのコンピュータは意識を持つ!

・このテストは当然様々に批判されてきたが、この着想を指示の観念の探究のために援用してみよう。

→対話者2人が同じ対象を指示しているのかをテキストメッセージから判断するのである。これは適切なテストになるだろうか?

・パトナム曰くならない。例えば、私たちの語の使用をプログラムしたが、外部センサーの類をいっさい持たないコンピュータを想定してみよう。このコンピュータに指示を帰属することはどう考えても不可能だが、しかし、指示についてのチューリングテストには合格してしまうだろう。

・このような機械を2つつなげて、会話させてみよう。2人は外的世界が滅んで指示対象が全く無くなった後でも同じように会話を続けるだろう。

→従って、彼らは何も指示できてはいないのだ。

 

□水槽の中の脳(再論)

・水槽の中の脳には先の例のコンピュータと異なり、感覚器官の備えや知性がある。

→しかし、それらは指示の役に立たない。水槽の中の脳を支配する超科学的コンピュータが、どのような感覚与件を感覚器官に与えたとしても、そこにあるのは、指示しようとしている対象と質的に類似したイメージでしかない。そして、イメージの類似性が指示の役に立たないことを考え合わせると水槽の中の脳は外在的なものを支持できないことが帰結する。

 

□この議論の諸前提

・では、水槽の中の脳にとって、「私は水槽の中の脳かもしれない」という懐疑は何を意味しているのか?

→水槽の中の脳が因果的に関係しているのは超科学的コンピュータによって与えられたイメージのみだから、この言明が意味するのは、私たちがコンピュータによって与えられたイメージのさらにその中での水槽の中の脳かもしれない、ということである。そして、当然にそれは誤りであるからこの懐疑は自己論駁的なのである。

※曖昧なところがあるので補っておこう。私たちの言葉における指示はイメージにおける類似性ではなかった。それ故、感覚与件が似通っていたとしても水槽の中の脳とそうでない脳とでは、同じものを指示しているとは言えない。そこで、指示の基準としてひとまず因果関係を置くなら、上のような結論が生じるのである。しかし、最初の段で因果関係のみによっては指示は成り立たないとされている以上、これは指示の十分条件ではないだろう。

・「私たちは水槽の中の脳かもしれない」という懐疑は二つの誤謬の結びつきから生じている。

①物理的な可能性をあまりに真面目に受け取ってしまうこと。

②無意識に指示の魔術説、つまり、心的なイメージは必ず何かを指示するという説を用いてしまうこと。

・物理的に可能であるように見えても実は不可能なことがある、というのがこの議論の結論である。従って、何かが可能であるか不可能であるかは物理学だけからは決定できない。それを決定するものこそが哲学なのである。

・「われわれがやってきたことは、何かについて考えること、何かを表現すること、何かを指示すること、等の前提条件を考察することである。これらの前提条件を、これらの語や句の意味を(例えば言語学者がするように)研究することによってではなく、ア・プリオリに推理することによって研究してきたのである。〔中略〕〔ここでア・プリオリというのは古い意味ではなく〕むしろ、ある種の一般的な前提を仮定した上で、あるいは、あるたいへん大まかな理論的仮定をもうけた上で、何が不合理に陥らずに(reasonably)可能であるかを探究するという意味でである。〔中略〕この手続きが、「経験的」なものと記述されうる諸仮定(例えば、心は、感官によって与えられるものから離れて、外在的なものや属性に到達することはないという仮定)に依存しているにもかかわらず、私の手続きは、カントが「超越論的」研究と呼んだものと密接な関係をもつ。なぜなら、繰り返しになるが、私の手続きは指示の前提条件についての研究であり、それゆえ、思考の前提条件についての研究だからである」(p.23)。

・以上の議論は指示の魔術説が間違っているという前提と、指示のためには因果的結び付きが必要だという前提が含まれていた。これらをより厳密に考察してみよう。

 

□表現とその指示対象との必然的な結びつきを否定する理由

・心に指示のための能力である「志向性」を帰属させるブレンターノのような哲学者も心的イメージがそれだけで指示を可能にするとは考えていなかったかもしれない。彼らは指示を可能にする心的表現があるとすれば、それはイメージではなく、概念という本性をもたなければならないと考えただろう。

→では、概念とは何か?

・催眠術にかかった状態で「理解した感じ」あるいは、特定の概念と関係しているかのようなイメージや感覚を持っていたにせよ、それでは概念を持っているとは言えない。従って、概念は心的な表現ではない。

・心的表現など概念を表す記号は私的でありうる。しかしながら、概念そのものは必ず公的である。

→例えば、私はニレとブナの区別がつけられないとしよう。すると、私の心的な表現においてはニレとブナは同じであるが、そこからニレとブナの概念が同じであるとは言えまい。概念の区分は私的にではなく、社会的に行われるのである。これは双子地球における「水」においても同じ(後述)。

→意味は頭の中にはない!

・私たちはここまでの議論で暗に、ある文を使用する能力が、十分成熟した概念を所有しているための規準であると見なしてきた。ある概念と当時的に何らかの心的イメージ等が起こるとしても、それを利用する能力、つまり、正しい状況で正しい現象(心的イメージ)を産出する能力こそが理解を構成するのだ。

※つまり、概念の理解とはその概念を概念同士のネットワークに位置づけ、それらの関係を正しく把握して運用することである。この見解は先程までの因果連関を重視する見解と分裂しているように見える。因果連関そのものの身分があまりよく分からないので、こちらの見解の方が筋が良さそう。

・これは『哲学探究』のウィトゲンシュタインの見解を簡略化したものである。

・議論をまとめよう。①心的イメージのいかなる集合も理解を構成しない。②理解にはいかなる心的イメージも必要ない。

 

2.パトナムの議論への注釈

今回パトナムの議論を扱ったのには二つの理由がある。一つはそれが典型的に哲学に固有の議論であるから。もう一つは19世紀末~20世紀の哲学が何を問うてきて、それが現代の哲学の中でどのような隠された前提を形成しているかを端的に示しているからである。

まずは第一の点について。哲学が他の自然科学、人文科学と異なるのは可能性の条件を扱う学問であるという点においてである。しばしば哲学は自然科学の発達によって用済みの代物と見なされたり、はたまた、思想史研究の別名として理解されたりもするわけだが、それらの科学は事実か、あるいはせいぜい現実に起こる可能性しか扱わない。しかし、パトナムの議論が、物理的に可能にみえることであっても実は可能でないことを論証したように哲学は反事実的な仮定を様々に置いてどのような帰結が生じるか調べる、つまり、思考実験を用いることで、何かが可能であるためにはどのような条件が揃っていなければならないかを問う。科学は何かが現実に可能であったことを所与の前提として、その上で事実、あるいはそれらの事実を産出する規則を探究するのだが、哲学は現実にそうしたことが可能であるのはいかにしてかを問う。そのようにして可能性の条件を探究することは現実に私たちが使っている概念を整理するのみならず、実際にはこの一つしかない現実を他でもありえたかもしれない可能性の中の一つとして位置付けることで、別の仕方で生きることへの想定を可能にする。要するに哲学がやっていることは、可能性の条件に遡行してその仕組みを最大限に活用しようとする世界のリバースエンジニアリングなのだ。

続いて第二の点について。前世紀の哲学のモチーフの一つに、意味を客観的なものとして理論化することがある。パトナムが何度も概念は心的イメージではないことを強調し、意味は頭の中にはないと結論付けていたのはこのような背景がある。一般に「意味」という言葉には、「辞書的意味」のような誰にでもアクセス出来て正誤が客観的に問える側面と、「今、この文章の意味が分かりました」と言う時のような私秘的な側面があるが、前者の側面を独立して理論化することが出来なければ、コミュニケーション(共時的伝達)やアーカイブ(通時的伝達)は不可能となってしまう。そこで、典型的な戦略として、客観的なものとしての意味と、私秘的なものとしての心的イメージの分離が行われた。こうした戦略はフレーゲが「我々が数について表象や直観を何も持ちえないのだとすれば、一体どのようにして数は我々に与えられるのか?」[3]と問うたことではじまった、いわゆる「言語への転回(linguistic turn)」の流れのうちにある。ダメットは言語への転回を分析哲学の際立った特徴として位置づけ、①「思想についての哲学的な説明は言語についての哲学的な説明を通して獲得され得る」、②「包括的な説明はそのようにしてのみ得られる」という二つの公理としてまとめている[4][5]。ダメットに反して言語論的転回という言葉は歴史学等を中心に他の学問分野でも人口に膾炙し20世紀の哲学、思想史を特徴づける潮流の一つとなった[6]。そして、中でも意味は心の外にあるのだとする立場は意味論的外在主義(semantic externalism)と呼ばれる。

加えて、パトナムの議論には現代哲学のイデオロギーとでも呼ぶべき二つの要素、つまり、社会主義(?)と自然主義、が一見矛盾した形で含まれている。「表現とその指示対象との必然的な結びつきを否定する理由」で提示されているブナの例と水の例を対比してみよう。ブナの例は概念的な区別は社会の側で決まっているとしているので社会的外在主義と呼べる。水の例は「「意味」の意味」[7]という論文の中で詳しく議論されているが、ごく簡潔に述べるなら何かが水という概念を帰属されるかどうかはそれがH2Oであるかによって決まる、つまり、概念的な区別は物理的特性の側で決まっているとするものである。この地球と何から何までそっくりな双子地球を想定してみよう。そこで水と呼ばれている液体は見た目には私たちが水と呼んでいる液体と全く違いがないが、実は非常に長い化学式(便宜的にXYZとする)を持っている。果たして双子地球の液体は「水」であろうか?例え同じ語で呼ばれていたとしてもそれは水ではないだろう。自然語は外延、それも物理的な特性によって意味が決まるというのがパトナムの主張である。この論証の際、クリプキがアプリオリ、アポステリオリという認識論的な区別と、偶然的、必然的という形而上学的区別を分離したところからはじまる(哲学での)可能世界意味論をパトナムは利用しているが、この言い方で言えば「水はH2Oである」はアプリオリには知られないが、必然的な性質である。パトナムのこの見解はいわば物理的外在主義である。しかし、社会的外在主義と物理的外在主義とでは外の内容が異なるので、ここには矛盾がある。

ここで、私たちの問題である「外とは何か?」に立ち返ってみよう。「水槽の中の脳」の不可能性から私たちは心の中に囚われているのではなく、世界という外と指示によって結び付いており、指示は概念の意味なのであった。すると、暫定的には「外とは、意味によって指されるものである」ということになる。しかし、意味によって指されるものは社会的外在主義では社会的なもの、物理的外在主義では自然的なものになる。社会主義か自然主義かという対立は表立って問題になることは少ないが、例えば近年刊行された分析哲学や言語哲学に関連する書籍を見ると、コミュニケーションといった社会的次元を中心に研究したものと、科学と共同しつつ実在のあり方を研究したものが目につく(個人の見解)。これは、私たちが意味を預けるものとして頼れるのが、この社会か自然かであることを反映しているからではないか。しかし、社会に預けるにせよ、自然に預けるにせよ、それは意味をある領域の中に閉じ込めることではないか?社会主義をとれば私たちは社会で流通している意味の外に出ることが出来ないし、自然主義をとれば世界のあり方によって決まる意味の外へは出ることが出来ない。

 

第二部 もっと外へ!

3.社会主義と自然主義の相克:最強の認識論

「科学的仮説(現象)を否定(反証)するのは、物ではない。物は語らない。未来の他者が語るのだ。しかし、この他者は、反証するためには必ず感性的なデータ(物)が伴っていなければならない。したがって、物自体が他者であるということは、物自体が物であるということと背反しない。肝心なのは、物であれ、他者であれ、その「他者性」である。」[8]

柄谷行人の著作からの引用である。カントについて論じた箇所だが読んだ際には彼のカント解釈の適当さも相まってあまりピンと来なかったのだが、これは社会主義と自然主義の相克について述べていたのではないか。自然主義において意味は世界の側で決まっているとされる。例えば人類が十分に科学を発達させずに滅んだ場合、人類はずっと意味を間違えて使い続けていたことになる。だが、これは奇妙な帰結である。私たちの側では正誤の基準が確立されることがなかったのに、私たちが誤っていることになるからだ。世界の側で決まっている区別を意味に関して適用するためには結局、私たちがその区別を認識することが必要なのではないか?そして、それを理論的に保証するのは「未来の他者」、つまり、文明を発展させた未来の人類であろう。

こうした見解を洗練させたのはブランダム(1950-)である。彼は私たちは世界の側にあるものを概念によって写し取っているとする表象主義ではなく、実質推論(material inference)が分節化されることで概念が取り出されるとする推論主義、を意味論的戦略としてとる哲学者として有名である。推論主義はセラーズ(1912-1989)の二つの議論を主要な源泉としている。一つ目の議論は、私たちの言語的な営みを「理由の空間」として特徴づけ、オウムのような概念的でない応答と人間の概念的な応答を区別する基準は「それが主張を行い、理由を与え求める推論的なゲームにおいて役割を持つということ」[9]だという見解、つまり、概念的であることを推論と結びつけるものである。二つ目の議論は、実質推論は形式推論(論理的な形だけによって結果が決まる推論)に還元されないとするものである。実質推論とは「東京は大阪の東にある」から「大阪は東京の西にある」を導くように意味を介した推論のことで、形式推論とは「PならばQ、P、したがってQ 」のような意味内容と無関係に結果が導かれる推論のことである。セラーズは例えば、「これはリンゴだ」、「リンゴは果物だ」という二つの前提から「これは果物だ」という帰結を導く形式推論も実は「リンゴは果物だ」という前提の中に実質推論を密輸入しているため、実質推論が形式推論に先立つという議論を展開した[10]。これら二つの議論から言えば、概念を持つとは概念を要素として含むような推論を使いこなせるということであり、そこで言う推論とは第一義的には実質推論である。そして、ブランダムはむしろ適切な実質推論のネットワークが意味論において最初に前提とされるべきものであり、実質推論の典型的なパターンとして論理的語彙(形式推論や論理定項など)を抽出し[11]、実質推論の置換可能な部分として単称名辞(個物を表す名詞)を導出する[12]。

ブランダムの推論主義は推論から単称名辞の意味を導出するものであるから、その単称名辞と世界との結び付きがなくなってしまうかに見える。そこでブランダムはSpirit of Trustにおいてヘーゲルを論じながらヘーゲル的歴史的観点を持ち出すことでこれに応答している。いわく、私たちが現在使用している推論が実は間違っているかもしれないことを保証するのは未来の他者によって改訂(「想起」(recollection)、「赦し」)を受ける可能性の存在、つまり、未来の他者への「信頼」(trust)である[13]。未来の人類の科学的発展が信頼されていればこそ、私たちは世界のあり方に意味の区別を担わせることが出来るのである。この見方ではもはや社会主義と自然主義は対立しない。社会が進歩していくことは自然が解明されていくことによって支えられ、自然がその本来のあり方を現す可能性は未来の社会の存在に支えられている。両者は相補的な関係になる。そして、相補的な関係を成り立たせているのは、無限に認識能力を高めていく未来の他者(ヘーゲル的に言えば絶対知)への信頼である。言い換えれば、自然や意味といった存在者は、認識論的に最強の存在によって可能となっている。このような認識者を信頼すれば、私たちはいつか今の社会によって支えられた意味の外に出ることが出来るし、今現れている自然の外に出ることが出来る。外とは、絶対知によって担われるものとなる。

 

4.認識を待たない意味:最強の存在論

ブランダムはヘーゲル主義を取り最強の認識者を措定することで人類が歴史を通じて次々と外に出続けていることを論証した。ここには今の自然の外に出る=科学の発展、今の社会の外に出る=道徳的発展、の二つが含意されており、進歩主義的である。そして、今の私たちの見解は間違っていることが有り得るという仕方で判断と判断される世界との間に亀裂を入れる、即ち、判断が間違いうる根拠として私たちの判断そのものからは超越した外を導入することが出来ている。しかしながら、その時、外はあくまで私たちの認識の進歩や改訂と相関する形でのみ、存在することになる。では、私たちの認識と無関係なものとして世界を概念化することは出来ないのだろうか?

そうした理路を採るものとして入不二基義のマイナス内包がある。パトナムの議論の最後で少し触れたようにクリプキの活躍以降、可能世界意味論が哲学の中で積極的に用いられるようになり、またパトナムがその中に科学的探求によって明らかになる「アプリオリには知られえないが必然的な性質」といったあり方を導入した。こうした議論はチャーマーズ(1966-)によって二次元意味論(Two-dimensional Semantics)として整理され、そこで、第一次内包と第二次内包が区別されるようになった。日本ではこれを拡張する形で永井が第0次内包を、入不二がマイナス内包を追加している。チャーマーズの議論を筆者はあまり理解していないので以下では永井均によって簡潔にまとめられたものをマイナス内包の理解に役立つ範囲で紹介する[14]。第一次内包とはこの世界でその物がどのようになっているか(水は透明で、飲めるとか)を表す認識論的な内包、第二次内包とは指示を可能世界に結びつける内包のことで、現実世界で決まった可能世界にも拡張できる指示(水はH2Oである)のことである。もっと簡単に言えば第一次内包は現実世界で成り立っているその物の特徴、第二次内包は反事実的にも成り立たなければならない(他の可能世界でも成り立たなければならない)その物の特徴のことである。すると、認識論的な順序としてはまず第一次内包が固定され、それに対する科学的探求の結果第二次内包が判明することになる。するとパトナムに反して、水という第一次内包を持つものが実はXYZであったことはありうることになり、水がXYZだった世界から見れば他の可能世界でも水はXYZでなければならなくなるというように、現実世界と可能世界との関係そのものを可能的に考えることが出来るようになる。パトナムの議論は現実世界をこの現実世界のみに限っていたから、この現実世界で水がH2Oだと判明したら他の可能世界でもそうなると考えたのであった[15]。

永井均は以上の区別に加えて私たちが感じる私秘的な性質(リンゴを食べると甘い感じがする)を第0次内包とし、その上で第二次内包から第一次内包への逆襲(一旦水がH2Oだと判明したら、第一次内包が同じでもH2Oでないものは水でなくなる)だけでなく、第0次内包から第一次内包への逆襲、つまり、一旦第一次内包と第0次内包の結び付き(リンゴは甘いとか、すりむいたら痛いとか)、即ち、概念適用の正しい仕方が学ばれると第0次内包が独立して、急に甘い感じや痛い感じがするということもありうるということを論証した[16]。これはいわゆるクオリアの変化が可能であることを論証するための議論である。クオリアの変化とは第0次内包が他の人の第一次内包と第0次内包の結び付き方と異なった仕方で生じてしまうこととして理解できる。例えば、皆はリンゴが甘いと言っているのに、それを辛く感じたり、赤い消防車が緑に見えたり。しかし、こうした変化は一旦第一次内包と第0次内包の結び付きが確立されなければ可能にならない。結び付きを学ぶ以前の子供が、消防車は緑色だと言ったなら、それは感覚(第0次内包)の側のズレではなく、概念適用の側のズレと見なされ、「違う、消防車のその色は赤色と呼ばれるのだ」と教えられるだろう。

入不二は、第0次内包から第一次内包への逆襲を因果的結合や文脈から感覚を独立させる議論であるとし、更に第0次内包から進んで痛みや甘さといった「概念」からすらも独立したマイナス内包を想定することが出来るとする。第0次内包の逆襲は、一旦第一次内包と第0次内包の結び付きが学ばれた段階、即ち、概念を適切な仕方で扱えるようになった時に始めて可能になるものであったが、後からそうした逆襲が生じうるのだとすれば、最初からそうした逆転が生じていたのかもしれない、と考えるのである。結び付きを学ぶ以前の、つまり、第0次内包独立以前の感覚とは、概念化されざる意味化不可能なものであり、それがマイナス内包として名指される。それは認識=概念化されてしまえば単なる第0次内包になってしまうため、決して概念化されず、しかし、私たちの概念的な認識から独立してそのものとして自存する何か、意味と呼ぶことの出来ない内包である。従って、マイナス内包は常に私たちの認識の外にあり、もはや私たちを待ってすらいない存在そのものである。

 

結びに代えて:内へ…?

第二部では外とは何かを、認識論の存在論に対する優位、存在論の認識論に対する優位から考察した。最後に方向を変えて、意味と内との関係に瞥見を加えたい。意味がどのような仕方で外を示すとしても、それは常に読む人、即ちこの私にとって意味を持つのだからあらゆる外は私という内へと繰り込まれているのではないか?概念に関する歴史的に改訂される基準ですら、私にとって理解されるものであり、意味化されざる感覚そのものは当然私において生じる。特に前者に関して公共的な基準そのものですら、常に私にとって理解される基準でしかないという自明な前提に立ち返るなら、私たちは皆常に私的言語の中にあり、世界全体を内に含む存在として生きているのではないか?これは意味の二義性の後者を徹底化する議論としてまた独立に論じられるだろう。



[1] H.パトナム『理性・真理・歴史』(野本和幸他訳、法政大学出版局、1994)第一章より。

[2] ここのみ本文にサブタイトルが付いていないので勝手に付けた。

[3] G.フレーゲ『フレーゲ著作集2 算術の基礎』(野本和幸他編、勁草書房、2001)p.121

[4] M.ダメット『分析哲学の起源』(野本和幸他訳、勁草書房、1998)p.5

[5] 現在では、①哲学の目的は思想の構造の分析、②思想の研究は思考という心理学的プロセスの研究と明確に区別されねばならない、③思想の分析にふさわしい唯一の方法は言語の分析、の三つに区分され①、②のみを受け入れるのは概念論的転回と呼ばれるそう。ダメットが『真理という謎』の中で言及しているそうだが、筆者は読んでいない。T.ウィリアムソン『哲学がわかる 哲学の方法』(廣瀬覚訳、岩波書店、2023)p.178訳者あとがきより。(※ちなみに本文はクソつまらないので読まない方がいいです。)

[6] 例えば、パトナムが批判していた「志向性」を概念との関係で理解しようとする試みもある。野家啓一は現象学に言語論的転回を導入しようと試み、フッサールをフェレスダールの研究を参考にしながら、概念の客観性と結び付けて解釈しようとしていた。「志向性の目的論的構造」(科学哲学,1985,18巻,p.33-47)、新田義弘編『フッサールを学ぶ人のために』(世界思想社、2000)所収の「〔座談会〕現象学の現在と未来 ― 現象学の可能性」など。

[7] H.パットナム『精神と世界に関する方法』(大出晃監修、藤川吉美編・訳、紀伊国屋書店、1975)第四章

[8] 柄谷行人『トランスクリティーク』(岩波現代文庫、2010)p.78

[9] R.ブランダム『推論主義序説』(斎藤浩文訳、春秋社、2016)p.65

[10] 例は白川晋太郎『ブランダム 推論主義の哲学』(青土社、2021)pp.75-76による。

[11] 「まとめると、この〔推論主義の〕描像は次のようなものとなる。まず第一に、推論の形式的妥当性が、実質的に正しい推論といくつかの特権的な語彙によって定義される。そして第二に、その特権的な語彙が論理的な語彙と同一視される。第三に、あるものが論理的語彙のうちにあるということがいかなることであるのかが、その意味論的な表現的役割によって説明されるのである。」(ブランダム、前掲書、p.82)

[12] 「「単称名辞とは何か?」という問いに対する一つの答えは、次の通りである。置換対象である表現であり、その現れが対称的な推論的意義を持つ。」(同書、p.194)

[13] 詳しくは白川、前掲書のpp.261-290

[14] 日本語で読める文献としては永井の他に「二次元可能世界意味論の展開」(1)(2)(3)(それぞれ、小草泰、佐金武、藤川直也が執筆)(京都大学哲学論叢刊行会、哲学論叢,34,73-83(1),84-90(2),91-101(3),2007)、D.チャーマーズ『意識する心』(林一訳、白揚社、2001)、英語でしかも長くても良ければChalmers, David, J. The foundations of two-dimensional semantics, Oxford University Press, 2006

[15] 以上の議論は永井均『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(岩波現代文庫、2016)pp.64-69を参照した。

[16] 以下の議論は、入不二基義『現実性の問題』(筑摩書房、2020)pp.252-264より。

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