『世界をわからないものに育てること――文学・思想論集』加藤 典洋 (著) 読んで。中身濃すぎる、読んでよかった。


いやまあ、ものすごく中身の濃い、いくつか異なるテーマの評論集です。

第一部は、この前、柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』を紹介したときに触れた、震災後の文学状況についての評論で、百田尚樹の『永遠の0』や、赤坂真理さんの『東京プリズン』についての論も収められています。

第二部 前半は海外文学について二編
ひとつめはミハイル・ブルガーゴフという、スターリン圧政下ソ連の作家の『巨匠とマルガリータ』についての評論で、この小説を読んでいないのですが、大変に面白い。今、同時に加藤氏の、中野重治と吉本隆明の転向をめぐる評論を読んでいるのですが、本当に暴力的な圧政下での文学者の取りうる態度について関連性が深く、かつ、それを作品の細部に「書かれたこと、書かれなかったこと」と、作者の状況を往復しながら分析していく論の鋭さ、面白さは、すごい。

次はカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』論。ここ数年、カズオ・イシグロについては集中的に考えてきたので、いろいろ言いたいことはあるが。なるほど、と思うこと多数あり。

第二部後半は、ここがいちばん、読んでよかった、というところなのだが、
「理論」と「授業」-文学理論と「可能空間」 と題された、2012年日本文学協会年次大会での講演記録。
 ポストモダン理論が1980年代の文学研究を「テクスト論」=相対主義の「ナンデモアリ」状態にしてしまったことに対し、国語教育、文学研究界隈では「八十年代問題」として問題視し、それを乗り越えるべく「〈第三項〉の理論」というのを、この大会に出ている人たちが提唱していて、それについて加藤典洋氏、その理論をどう思うかを講演せよ、というお題に対する講演なわけです。
 私が大学で文学部に在籍していたのが1983-85年で、まさにポストモダンのテクスト論全盛期で、私のような「作家論と作品論をいったりきたりするのが大好き」「テクストをどんなふうに読むの自由、ナンテモアリとはいっても、とはいえ、ある種の妥当性ある読みというのは存在するよなあ」と思って、全くポストモダン視点でのテクスト論に基づく文学研究に共感もできなかったし価値も見いだせなかった僕にとっては、「そうでしょー、まったくそうでしよー」という話を、加藤氏がしてくれています。
 
 作家が正解をしっていて、それを読み当てる、というような意味での「作家論視点での作品論」というのは正しくなく、それからテクスト論は文学を解放したのはたしかですが、文学を読むという体験は、小説そのものと同時に、それを書いた「作者の像」を想定しながら、「小説そのもの」「作者像」「読者」の三者関係の中に読書体験というのは存在するのだ、というのが、ざっくり加藤氏の言うことです。
 精神分析領域での、「養育中の母と赤ん坊」と「カウンセラー」という三者の相互主観的な関係性が現れる場所のことを「可能空間」という、それを参照しながら、そのような形で、テクストと「作者像(これは現実の作者ではなく、読者が作品を読むうちに想定し形成する作者像)と、読者の間の相互作用によって、読書体験は成り立つということを語っています。

 なぜ「作者と切り離したテクストだけを論じる、ポストモダン・文学論」が正しくないかの論拠として、書かれたことだけでなく、「なぜ、意図的に書かれていないのか」という問いが、読書体験では重要であり、その場合、読者は「作者像」を想定して、テクストを介して、作者と対話しているのである、ということを加藤氏は言うわけです。

 第一部の災後小説をめぐる論において、柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』を、震災について全く書かれてないのに、なぜ最も優れた震災後小説と評価するか。まさに「書かれなかったこと」を論じようとすれば、現実の作者ではなく、読書を通じて現れる「作者像」との交流が、読書においては大事なのだ、テクスト論ではこれが成立しない、と加藤氏は言うんです。

 氏の膨大な村上春樹の作品分析も、常に作品を読むことによって現れる「作者像」としての村上春樹、その連続性と変化を見ながら、作品を読み解いていく、という、まさにこの手法によって生み出されているわけです。

 ということで、今まで私が、自分の文学を読むスタンスは「作品論と作家論の間を行ったり来たり」というあいまい漠然とした言い方で説明していたことが、ものすごくクリアに解説されているんですね。

 それから、文学は「なんでもあり、正解がない」のだが、しかし「ナンデモアリ」と、ポストモダンのように言ってしまっては、そこに文学の価値は成立しない。引用します。
「私は、文学の本質は「正解なし」ということだと思っています。もう少しいうと「正解」の複数性にあると思っています。そして、先に申し上げたように、文学批評とは、そこから、そのつど「正解」を浮かびあがらせ、互いに意見をぶつけあい、到達不能のまま、これを次世代に引き継ぐ作業だと考えています。そうしてそうしたことが文学の歓びであることが、また文学を生かしている力の源泉だと思っています。」

ということです、拍手。

第三部は、最近の具体作品に関する短い評論を集めたものですか、どれも切れ味鋭く味わい深い。沢木耕太郎『無名』論を通じた現代の父子関係論、山田太一『昭和を生きてきた』論、大江健三郎の『晩年様式集』論、どれも、短いけれど、それについて別の長文感想をそれぞれ書かねばならないほど、深い内容のものです。

ね、内容、ものすごく濃いでしょう。

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