『戦後的思考』加藤典洋著 講談社文芸文庫版の、 東浩紀氏の解説「政治のなかの文学の場所」について。


私のFacebook上の友人には、左派リベラルの政治的立ち位置の人が多い。加藤氏の生前からそうだったのだが、亡くなられた後、私が加藤氏の著書の感想を投稿しても「左派リベラル系友人知人」からの反応が薄い。そういう人から見ると、どうも加藤典洋氏は、反動的保守的知識人ということになっているらしい。そういう評価になってしまった事情、それがいかに誤った、残念な、的外れな評価であるか、そして、加藤氏の論の核にあるものがどういうことかを、東浩紀氏が、このうえなく分かりやすく書いてくれています。

kindle版『戦後的思想』には、東氏の解説が収録されていなかったので、中古でしか手に入らなくなっている講談社文芸文庫版を購入して、東氏の解説だけをさきほど読んだのですが、これが、予想を超えて素晴らしい文章でした。涙が出てきました。まさに、こういうことを僕は言いたかったのだ、ということを、東氏がもののみごとな文章にしてくれています。

要約しようと思ったのだが、東氏のような超秀才の文章は、省く場所がほぼない。
ところどころ略すけれど、ほぼ全文引用紹介してしまいます。

「(冒頭一段落略)
一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、日本の論壇では、政治学者、歴史学者から文学者まで、多様なプレイヤーを巻き込み、第二次大戦の評価や戦後日本の主体性をめぐって大きな論争が起きた。加藤の『敗戦後論』はその幕を開いた書物であり、一連の論争はときに「歴史主体論争」と総称される。本書はその『敗戦後論』の続編にあたる書物であり、論争を振り返るうえで欠かせない文献のひとつだ。

 そもそもはじめに断っておけば、ぼくはその論争に関して、必ずしも加藤典洋のよい読者ではない。それどころか、むしろぼくは本来なら、加藤の「敵」側の陣営に分類されるはずの書き手である。(中略)つまりはぼくは当時,奇しくも、加藤ともっとも敵対する二人の人物のもとで仕事をしていた。実際に柄谷と高橋(哲哉)はともに『批評空間』で加藤を批判する座談会を行ってもいて、まだ二〇代だったぼくには、その磁場から抜け出すのはむずかしかった。恥ずかしながら告白すれば、当時のぼくには『敗戦後論』を、反動的な文芸評論家が記したよくわからない本ぐらいにしか認識していなかったのである。
 

その認識が変わったのは、つい最近、ようやく昨年(二〇一五年)になってのことである。(中略)十八年ぶりに同書を手に取ってみたのだが、一読して大きな衝撃を受けた。かつてのぼくは、この本をいっさい読めていなかった。今回ぼくが解説を書かせていただいているのは、ぼくがその衝撃を『ゲンロン』誌上で語り、その発言が加藤の目にとまっていたからだ。

 ではぼくはなにを新たに発見したのか。だれもが知るように、戦後日本は分裂を抱えている。戦前の日本を肯定する立場と否定する立場の分裂である。一般にはそれは、保守と革新、改憲と護憲、愛国とリベラルといった政治的主張の対立とみなされている。けれども加藤はそれはイデオロギーの対立というより、むしろアイデンティティの分裂と捉えたほうが正確だと考えた。加藤によれば、戦後日本は,敗戦という外傷のため「人格分裂」を病んでおり、そのせいで言論空間の全体が歪んでいる。したがってぼくたちはまず分裂した人格を統合しなければならない。ひらたく言えば、それが『敗戦後論』の中核にある主張である。


 この主張は当時、時代遅れのナショナリズム(国民国家の統合)を説く右派の思想と理解され、おもに左派の言論人によって厳しい批判を受けた。前出の柄谷や高橋もそこに含まれる。いまのぼくには、その批判自体がすでに的外れに思われるが、ここではそちらには立ち入らない。


 むしろ昨年、十八年ぶりの再読でぼくが気づきあらためて驚いたのは、この本が、いまはおもに社会学や政治思想の文脈で読まれる書物であるにもかかわらず、実際には半分近くが文学の話題に割かれており、また加藤もその重要性を繰り返し強調しているという事実に対してである。(中略)
日本人の自己意識は敗戦という外傷のため分裂している。分裂のため近隣諸国との関係もねじれている。そのねじれは、もはや単純な謝罪や事実確認では解きほぐせるものではない。日本と近隣諸国の関係は、いまや、こじれた夫婦や友人関係のように、あるひとに謝罪することが別のひとを激怒させ、新たな事実の確認が別の疑惑を生み出す、そのような無限の悪循環に囚われている。このような事態は論理の言葉では解きほぐせない。被害者の心は論理では癒えないし、加害者の猜疑心も論理では解体できない。ではどうするか。
 加藤によれば、文学の言葉が必要とされるのはまさにそこである。論理は共同体しか構築することができない。あるひとを共同体に入れ、そのかわりに別のひとを排除する。そういった境界で世界を整理することしかできない。したがってそこでは、どうしても、あるひとには謝罪して別のひとには謝罪しないといった、序列や不公平の問題が生まれることになる。戦死者の追悼が厄介なのは、まさにその序列が問題になるからだ。けれども、文学の言葉は、共同体の手前にある「私性」と共同体の彼方にある「公共性」とを排除の論理の媒介なしに直結させてしまう、まったく別種の力をもっている。たとえばそこでは、あるひとに謝罪したことが、その特定のひとりのひとへの謝罪であるままに全人類への謝罪となるような、逆説と普遍の回路が出現しうる。キリストの問題がまさにそれである。だから彼は太宰の話をし、アーレントの「語り口」の話をするのである。
 この点で『敗戦後論』は、一種の文学擁護論として読める。けれども、それはけっして文学者の自己弁護のために書かれたものではない。加藤が『敗戦後論』で指摘したねじれや分裂は、出版から十九年を経たいまも、ほぼ変わらず残り続けているからである。日本社会はいまも敗戦を克服していない。愛国とリベラル、改憲と護憲、右派と左派はいまだに罵詈雑言を浴びせあっているし、アジア諸国との関係はますますこじれている。人格の分裂はより先鋭になり、言説の歪みはより深刻になっている。その状況は、加藤の論を敷衍すれば、ぼくたちの社会がいまこそ文学の言葉を必要とし、にもかかわらずそれをあたえられていないことを意味している。
 いまの日本には娯楽小説はたくさん存在するが、文学はほぼ存在しない。みな文学の必要すら忘れ始めている。けれども、日本社会にいま足りないのは、愛国とリベラル、改憲と護憲、そのどちらが正しいかを決める論理ではなく、ましてや「エビデンス」などでもなく、対立そのものを止揚する和解の言葉なのだ。宗教がほぼ機能しないこの国では、それはおそらく文学からしか出てこない。ぼくたちは、文学の力を借りなければ、けっして過去の亡霊から身を引きはがすことができない。加藤の指摘は、いまなお、この国に重い課題を投げかけ続けている。

 さて冒頭にも記したように、本書『戦後的思考』は、『敗戦後論』のいわば続編として編まれた評論集である。それゆえ本書には、ここまで見てきたような文学の機能をめぐる思考を、より豊かに肉付けし、より遠くまで引き延ばすための文章がいくつも収められている。読者にはぜひ、本書を右や左といった政治的な立場に押し込めるのでなく、以上の複雑なパースペクティブを理解した上で、加藤の思考をていねいに追っていってほしいと思う。歴史主体論争以降、一部アカデミズム、とりわけ北米の日本研究者のあいだでは、加藤といえば保守派の批評家であり、「歴史修正主義者」であるという評価が定着していると聞く。すでにおわかりのとおり、それはあまりに貧しい理解である。
 本書ではさまざまな固有名が扱われており、それぞれで固有の問題が分析されている。しかし、その前提のうえであえて言うとすれば、本書の軸をなすのは、第四章のヘーゲル論および第五章のルソー論である。
 ぼくはさきほど、文学の言葉は、共同体の手前にある「私性」と共同体の彼方にある「公共性」とを、論理の言葉とは違う回路で直結させるものなのだと記した。けれども加藤はここで、まさにその直結のメカニズムを、ヘーゲルとルソーの再読を通じて論理の言葉で記述しようと試みている。
 アーレントは公と私を分けた。言い換えれば政治と文学を分けた。そして公=政治から私=文学を排除しようとした。(実際にはこれはアーレントにかぎらず多くの社会思想家に共通する傾向である)。けれども本当の公=政治は、私=文学のなかからしか、すなわち私利私欲の徹底からしか出てこない。それがヘーゲルとルソーの発見であり、また近代の発見だったというのが、この二章で加藤が言おうとしていることである。哲学研究の文脈でその再読がどこまで説得力をもつものなのか、それは専門家の判断に委ねるほかない。しかし、本書の構成においては、この議論こそが一種の基礎理論として機能している。第一章のヤスパース論、第二章の吉本隆明論、第五章のドストエフスキー論、第六章の三島由紀夫論などは、すべて、私=文学こそが、公=政治につながる逆説の回路を前提としたうえで、私利私欲の徹底が公共的なるものにぱたりと変質する、その「転向」の瞬間を捉えようとした応用論文である。加藤の文章は、文芸評論に慣れない読者からは、しばしば論旨が追いにくいと評価を受けることがある。そのような読者には、ぼくはまず第四章と第五章から読むことをお勧めする。


 私利私欲の徹底が公に通じる。それは、別の言い方をすれば、ひとは悪いことをしたからといってすべてを告白できるわけではないし、またすべての告白が必ずしも正義につながるわけでもないということである。ひとは、秘密をもつことで、あるいは罪を抱えることで、むしろ公共的になれることがある。それが『敗戦後論』と『戦後的思考』の二冊を貫く加藤の人間観である。
 それは真理である。けれどもそれは、おそらくは、読者の側にあるていどの成熟を要求するタイプの真理でもあるだろう。悪いことをしたら謝ればいいじゃないか、事実の認定に齟齬があるならしっかり調べればいいじゃないか、それで和解できないのならばとことん話し合えばいいし、たとえそれが苦痛だったとしてもそれが加害者の責務であり倫理というものじゃないか。若いころはそんなふうに考えがちだし、またそれが必ずしも過ちというわけでもない。ただ、年齢を重ね、経験を重ねれば、人間がそのようにまっすぐにはできていないこともまた認識できてくる。加藤の議論はその経験を前提にしている。だからぼくは、さきほどは柄谷や高橋の磁場について記したが、本当はそんな磁場がなかったとしても、二〇代の大学院生のぼくには『敗戦後論』は理解できなかったのではないかと思う。
 加藤の評論は若い読者には向かないかもしれない。むろん論理は追うことができる。けれどもどこかで決定的に経験の蓄積を必要とするところがある。そんな文章は批評の名に値しないと退けるのもいい。それもまた読者の権利だ。
 けれどもそうでなければ、ぼくは本書を、むしろ若い、頭でっかちの、かつてのぼくのような理屈っぽい読者にこそ読んでもらいたいと思う。理解しなくてもいいので、読んだことを覚えておいてほしいと思う。なぜならば、きみたちが本書を読み躓くであろう場所、そここそがいつかきみたちが現実でも躓く場所だからである。」

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