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死にたいんじゃない生きたくないんだ



死にたいって思ったことはありますか?

私は何度もあります。今は思わないけど、高校生くらいまではよく思っていました。死にたいし、私が死んでも誰も困らないし悲しまないよな、と思っていました。後者は今でもたまに思います。

学校では友達や先生に気を遣い、家では家族に気を遣い。友好関係は良好だったし、先生からの評判もよかった。家族も不仲なわけではない。テストの点数が低くて怒られたり、姉に理不尽に怒られることはあったが、普段はくだらないことで笑い合える仲睦まじい家族だったように思う。けれども、閉塞感や窮屈さがありました。自分を出せていない、好きなことができないもどかしさ。いつも誰かに見られている気がして、何をやっても誰かに何か言われる恐怖がありました。なんとなく嫌になって、ひとりになりたくて、でもひとりになれる場所がなくて。悪いこともないけど、良いこともなくて。そんなとき、逃げ道が死ぬことしかなかったんです。

死ぬ勇気なんてない。死に方もわからない。その辺にいる何の変哲もない中学生には、世界を変えるどころか自分の環境を変えることもままならない。 何もできないまま、何もしないまま、高校生になりました。そういえば、死にたいピークは中学生のときでした。立派な厨二病ですね。

高校生になったら、死にたいと思うことが減りました。考えられる要因は3つあります。①姉が実家を出てひとり暮らしを始めた。②高校の友達との距離感がちょうどよかった。③通学時間という名のひとりになれる時間が生まれた。

①姉とは一緒にディズニーに行ったりするほど仲がよかったが、根本的な考え方は全く違います。喧嘩も多いです。と言っても、一方的に私が泣かされるだけですが。冷凍庫にあったラスト1個の今川焼きを食べたら「食べようと思ってたのに!なんで食べちゃったの!」とキレられたことが数え切れないくらいあります。そんな姉がいなくなった。このとき兄も既にひとり暮らしをしていたので、実質ひとりっ子になりました。生まれて初めてのひとりっ子待遇。今までは塾で帰りが遅くなっても自力で帰っていたのに、急に父が車で迎えに来てくれるようになりました。

②友達との距離感。これ、とても大事ですね。中学生のときは移動教室もお手洗いも、四六時中誰か一緒にいました。ここで「誰か」と書いてしまうということは、友達と思えていなかったのでしょう。実際中学の同級生とは卒業してから1度もあっていません。話は逸れましたが、そう、距離感ですね。高校に入ってからは、休み時間に机で寝ていても、ひとりでお手洗いに行っても、放課後さっさと帰っても、誰にも何も言われませんでした。自由にさせてくれたし、グループワークのときは仲間に入れてくれました。今でも遊びに誘ってくれます。高校の友達には心から感謝しています。堂々と「友達」と呼べます。

③通学時間。地元を出たくて、家から学校まで片道1.5時間かけて通っていました。往復3時間。生まれて初めての、ひとりの時間。イヤホンをつけて世界をシャットアウト。思考は捗るし、電車は寝心地いいし。ラッシュは押しつぶされて辛いけれど、嫌いではないです。窓の外の景色を見ることも、一緒に乗り合わせている人たちを見ることも楽しいと思います。電車に乗りたくないから学校や仕事に行きたくない、と思ったことがありません。

歳を重ねて、この3つを学んで、自分に必要なことは「ひとりの時間を確保すること」だと気がつきました。今ではひとり暮らしをして、とても穏やかな気持ちで生活しています。死にたいと思う暇がありません。やりたいこと、気になることが多すぎます。過去の自分に伝えたいです。生きてれば自分の機嫌の取り方がわかってくるよ。生きやすい世界がみつかるよ。家と学校だけがあなたの世界じゃない。視野を、世界を広げたら景色が鮮やかになるよ。だから、死なないで。生きていてくれてありがとう。これからもよろしくね、私。

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