見出し画像

“がんばりたい人が、がんばれる世界”へ。東大を落ちれなかった僕と、父の呪縛。

初めまして!浅井伸一と申します。1993年生まれの26歳です。

僕は『文部科学省』でインターンをし、新卒で『リクルートホールディングス』に入社して「スタディサプリ」を担当し、教育ベンチャー企業『探究学舎』で働き、そして『博泉学舎』を起業する今日まで、向き合ってきたモノがあります。

それは、『教育』です。

僕は教育の在り方を変えたくて、ずっともがいてきました。

今日は、そんな僕の昔話をちょっとだけさせてください。(ちょっとだけと言いながら、超長くなってしまったので、目次だけでも読んでやってください)

「東大に入らなければ、俺の息子ではない」~父にかけられた呪い~

画像1

「東大に入らなければ、俺の息子ではない」
「官僚にならなければ、俺の息子ではない」

これは、僕が物心ついたころからずっと父に言われてきた言葉です。

当時、父は勤めていた証券会社を退職し、独立。自動車を販売する事業を立ち上げて成功しており、僕の家庭はいわゆる「成金」でした。1億円で建てた家にはエレベーターがあって、でも一往復50円かかるから「乗るな!」と言われていました(笑)。
(どゆこと?お高いお肉買ってすき焼きしたときも2コ目の卵を使おうとすると怒られたことあるけど、それと同じ感じ?)

父はいわゆる一流大学出身ではなく、学歴に対してコンプレックスを抱いていました。「学歴」は、父にとって『落とし物』だったんだと思います。彼は、「学歴」、それも国内最高ブランドである『東大』という夢を我が子に託したのです。

母は「え?『やさしさ』と『水』で出来ているの?」と思うくらい優しい人で、僕にたくさんの愛を注いでくれました。とっても穏やかな人でした。しかし、だからこそ家庭は父の絶対君主制。当時の僕には、浅井家が「父という『王』と、父以外の『奴隷』で出来ている国」のように思えました。母は、父のことを「浅井さん」と名字で呼んでいました。(あなたも「浅井さん」だよ)

そんなフラットではない家庭のなかで、違和感を覚えながら育ちました。

父はとにかく教育にうるさく、当時流行っていた「右脳教育」の教室に僕を通わせていました。紙に貼った40~50枚ほどの赤いシールをパッと見せてかずを当てる、というようなトレーニングや、100マス計算など、いろいろやらされていました。

今となれば、父の愛だったのだと理解しつつも、当時の僕には嫌がらせにしか思えず、「右脳教育」教室までの行き帰りの車の中で、送り迎え担当の母が「辛かったら、やめてもいいんだよ。ママがパパに言ってあげるからね」と悲しげな表情で僕に言ったことは、なぜか鮮明に覚えています。

家では、「美穂子(母の仮名)!アイスコーヒー!」「美穂子!焼酎!」「美穂子!つまみ!」という言葉を、王様か何かのように発していた父の姿も鮮明に覚えています。

僕は本当に父が大嫌いでした。

中学2年生のころ、僕と父は今にでも取っ組み合いになりそうなほどの喧嘩をしました。その仲裁に母が入ったとき、「パチーン!」とすごい音がして、気付いたら母が吹っ飛んでいました

またある日には、家の階段付近の踊り場で妹と父が揉めて、父の平手打ちの衝撃で妹が階段のカドに頭を強打。遅れて駆けつけ、幸か不幸かその光景を見た僕の瞳には、妹の頭が「バスケットボールのようにバウンドした」ように見えました。妹は額がパックリ割れて、血だらけになりました。救急車の中で「お父さん、何があったんですか?」という救急隊員さんからの質問に、「いやー、階段で転んだらしくて」と言い放った時の父の作り笑いに寒気を覚えたことを鮮明に覚えています。

これが、僕の父です。

母は父の言いなりだったので、僕と妹はお互いに支えあって生きてきました。共通の敵・父の下で「いつか絶対こんな家出てやる!!」と思いながら。

運命を変える「出会い」

当時、僕が通っていた中学校は荒れていて、生徒が火災報知器を何回も鳴らすので、「狼少年の原理」が働いたのか、いつしか放置機を鳴らしても消防車が来なくなりました。先生方には『最悪の世代』と言われるほどでした。キャッチコピーだけは、ワンピースの世界観ですね。

そんななか、ある出会いがありました。

バカな俺でも東大行けるかも?~ 『ドラゴン桜』のメッセージ~

父から「東大に行け」と言われて育つくらいですから、「しんちゃんは、さぞかし賢い子だったんだろう」と思われる方もいらっしゃると思います。そうなんです。と言いたいところですが、お勉強はさっぱりでした笑

僕は、中学1年生の定期テストでアルファベットの"b"と"d"の書き分けができず、荒れすぎて不良マンガ「クローズ」の世界観になっている中学校の生徒の中でも、英語の成績が香ばしい生徒でした。(父よ。なぜ、そんな僕に「東大に行け」などと言えたのだ。。。)

そんな香ばしい僕が、中学1年生の冬休みに家で、コタツに入り寝っ転がりダラダラとテレビを見ていた時のこと。『ドラゴン桜』のドラマの再放送が流れてきました。

『バカ』と『ブス』は東大に行け!!

生徒側の主人公は矢島くん。ドラマではやまぴーが演じていました。矢島くんの家は母子家庭で、借金をたくさん作って蒸発した親父のせいで毎日のように家にヤクザが怒鳴り込んでくる。そんなヤクザから母親を守るやまぴー。泣ける。。。

親父の借金を返すため、やまぴーは通っていた高校を休んで工事現場のアルバイトに励みます。しかし、どんなに働いても働いても多額の借金を返せるほどのお金はたまりません。文字通り汗水垂らして稼いだお金も、毎月借金の利子で消えていく生活。

工事現場で深夜懸命に働くやまぴー。休憩の時間、道路の縁石に座り、お茶を飲んでいるやまぴーの元に桜木(阿部寛さん)がやって来ます。

そして、こんな言葉を投げかけます。

「買う時に搾取され、売る時に搾取され、働く時に搾取され、、、常に弱者は搾取される。」

役所の規定では、公共事業の工事において、人件費は一人当たり14,000円だ。しかしお前の日給は8,300円。じゃあ、この差額の5,700円はどこに消えたんだ?

これが『搾取』ってやつだよ

人は誰かに使われている限り、この搾取の迷宮から逃れられないんだ。

じゃあどうやったらお前の人生が浮上するかっ。
答えは単純かつ明快だ。

東大、東大、東大、東大、東大!!!

矢島、受験っていうのはな、今の日本に残されたただ一つの「平等」なんだぞ

家が貧乏でも、グレて不良やっている時があっても、父親がクソでも、受験で点数さえ取れればな、一流大学に入れるんだ。こんなクソみたいな現状を変えられるんだ!

当時このシーンを見た僕の瞳から、なぜかボロボロ涙が流れました。それはもうとめどなく流れました。(ちなみに今も、「あれ、おかしいな。PCモニターが霞んで見えないぞ」ってなってる)

このドラマの影響をモロに受け、「東大」に強烈に憧れ、そこからまるで魔法がかかったかのように、勉強にのめり込み始めました。

一部の心ない先生方には「お前が頑張ったところで(笑)」なんてバカにされながらも、毎日死ぬほど勉強して、埼玉県の模試ではトップ100に入れるようになるほどになりました。毎回の模試で偏差値70~75を取れるようになりました。

今思うと、この時の僕をバカにして来た先生に感謝です。
言葉は汚いですが、

「お前に俺の何がわかんだよ。教師が、頑張ろうとするやつの足を引っ張んなよ。ぜってえ、見返してやるからな。ポンコツ教師が。」
って思っていました。
マイナス感情かもしれないけれど、当時の僕をブーストさせたのはこれでした。

通っていた地元の塾の先生には、「もっといけるよ!」と応援されながら、少しずつ勉強が楽しくなっていきました。
今だからこそわかることですが、その当時から父の会社の経営はかなり傾いていたので、塾も特待生として授業料が全て無料になるところに通っていました。

そんな僕を見て父は「お前は全然トップじゃねぇ、もっと揉まれろ」と
おそらく、当時日本で一番レベルの高い、『早稲田アカデミー』。
そこの「御三家」と呼ばれる西日暮里校の最上位クラス入塾テストを受けさせに、僕を連れて行きました。(駿台全国模試というかなり難しい模試で、全国1位の子がいました。ホントにすごい子だった。)

「超難関チャレンジテスト」という名前がイカつい入塾テストを受けた僕は、顔面蒼白。

「何これ全然わかんない。ニホンゴ?」

成績通知を渡され見てみると、目に入って来た数字は「32」。
「32点なんて、久しぶりにとった。。。」と思っていたら、
左に書いている文字は点数ではなく「偏差値」。
いや、偏差値!?偏差値に32なんてあるの?

埼玉県では70だった僕の偏差値は、『早稲田アカデミー』ではたったの32。

悔しくて、三者面談でボロボロ泣きました。
校舎長には「1年間で俺が開成入れてやる」と言われ、当時、「開成高校ってどこ?」って感じの僕でしたが、なんか知らないけど「はい!」と言っていました。(ここの高い授業料をどうしたかは、長くなるので、またいつか。。。)

死ぬほど頑張りましたが、結果、開成高校どころの話ではなく、「こんなに死ぬほど頑張って来たんだから、受かるだろう」とタカを括っていた、浦和高校にも落ちて、確約をいただいていた開智高校に通うことになりました。

画像2

ひとつだけ良いことがあったとしたら、目指していたところより偏差値がワンランク低い高校に入れたことで、最初の定期テストで学年トップ3に入れたこと。

ダサいですが、上位にいるからこそ、みんなが勉強を聞きに来てくれたり、先生に頑張れと言ってもらえたり、やる気にガソリンを注いでもらえました。
とにかくトップ3を死守するために、平日は、18時半まで特別講座(みんな受ける無料講座)を受けてから、家に帰って20時から夜中2時まで毎日勉強を続けました。テスト期間に関係なく、毎日です。

そして高3になったとき、あの「東大」が見えてきました。この学力ならなんとか滑り込めるんじゃないか。そんなとき、風向きが変わりました。

父の会社が、倒産したんです。

画像3

当時、食卓が質素になってきたことにはうっすら気付いていました。
成金時代は『ホテルブレッド』、経営が傾き始めた中学時代からは『フジパン本仕込』になり、その後『1袋68円』の食パンになりました。
倒産してからは『無料でもらえるパンの耳』になっていました。

父もプライドを持って会社を経営していたので、落ち込んで「鬱病」診断が出てしまい、母は生活のために1日8時間以上、工場でパート勤務するようになりました。

受験直前は対策として予備校に行きたかったけれど、経済的にも行けない状態。東大もA判定ならまだしもC〜D判定をうろちょろ。
浪人覚悟なら突っ込むけど怪しいところ。
そもそも、受験料すらどうやって捻り出そうか。
悩みのタネは勉強だけではありませんでした。

もう、現役で国立に行って奨学金を申請するしかない。
私立に行ったら授業料は国立の2倍。奨学金の余剰分を作り、家庭のために入れないといけない僕には、受かるかわからない東大に挑戦する権利はなく、できるだけ合格確率が高くなりそうな、学費の安い国立大学を探しました。

最終的に僕は筑波大学を受験し、拾ってもらいました。

筑波大学って、東京ドーム35個分の広さなんでしょ?

受験の結果が出終わる、3月。

「筑波大学の敷地面積って、東京ドーム35個分あるんでしょ?」

開智の同級生は、そうやって悪気なくいじってきましたし、僕も否定しませんでした。

本当は、併願受験して合格をいただいていた、そして東大の次に行きたいと思っていた「早稲田大学」にも行きたかったけれど、「お金がないから」という理由で行けないのが悔しくて、自ら筑波を選んだ体にしていました。
「早稲田を蹴ってまで行くなんて相当筑波が好きなんだね」と言われたこともありました。「筑波はとっても素敵な大学なのに、なんでそんなこと言われなあかんねん」と思っていました。

こうして長かった僕の受験は、「不戦敗」のような形でおわりました。

画像4

※55個分でした。

『ホームレス』状態でスタートしたキャンパスライフ

筑波大学の入学式には、父も渋々来ました。

大広場で他の家族が和気藹々と写真を撮っているなか、父と揉めに揉めることになりました。「それ、入学式に言うことなの!?」というようなことを言われて僕も激昂し、最終的に父は、茨城のどこに自分がいるかもわかっていない僕を置いて、車で走り去って行きました。

マジか。

まさか置いて行かれるとは思いませんでした。僕はスーツ姿で、カバンのなかは筆箱だけ。所持金は3000円だし、今日は入学式で頼る友だちもいない。

とりあえず妹に連絡して、隙を見て家に帰り、必要最低限のものをトランクに詰め、またつくばエクスプレスに乗って筑波のネカフェに泊まりました。授業も本格的に始まり出したのに、コインランドリーもケチってネカフェに行ったり、野宿をしたりして生きる毎日。高校生の時に想像していた、キラキラしたキャンパスライフとは程遠い生活でした。

画像5

そんな生活をしばらく続けていると「伸一くん、家がないらしいよ」と学部で噂になってきました。

すると、同じ学部のりくくん(仮名)が、手を差し伸べてくれたんです。

寮には他にも2人の友達が集まってくれていて、話を聞いてくれました(今も連絡を取り合うかけがえのない親友です。あれ?みんな、そうだよね?)。会ってから間もない、そこまで深い関係にもなれていない僕を。

「せっかく頑張って入学したんだから、一緒に卒業しよう」と言ってくれて、1年間はりくくんの家に居候を、そして2年生からは、みんなでシェアハウスをしようと提案してくれました。

涙が出そうでした。

りくくんは、堅い床で眠る僕を心配して、「交代でベッドで寝よう」と提案してくれ、「申し訳なさすぎるからそれはできひん」と断ったら

「床で寝るなら追い出すぞ」

と言われました。(イケメンか)

居候させてもらっておいて、こんななことを言うのアレですが、当時住んでいた寮は、2チャンネルでノルウェーの独房の写真と並べられて、「完全に一致」と言われてバカにされるほど狭かったです。

画像6

でも帰ったらりくの部屋にみんながいて、「おかえり」って言ってくれて、晩ご飯がある。
生きるためのお金と授業料を稼ぐため(奨学金の口座は父に抑えられていた)、週6日バイトで授業が受けられない僕のためにいろんな友だちを呼んでくれて、交流の場を設けてくれる。

ああ、僕は授業は余り受けられていないけど筑波大生なんだなぁ、としみじみ感じながら家族のように過ごしていました。

学部長にもらった宝物のような言葉

画像7

授業に全然出席できていなかったこともあり

「あれ?なんかこいつ単位足りなすぎない?」

ということで、大学の事務さんに呼び出しを喰らい、経済学部の学部長の部屋に連れて行かれました。

学部長「話は結構聞いてるよ。詳しい話を聞かせてくれない?」

筑波大学、すぐ噂になりますね。

それから、毎週のように状況を報告するために学部長室に行きました。毎週親身に心配してくれて、話をたくさん聞いてくれた。ありがとう学部長。
いや、パパ。。。

頑張って、お金を貯めようとしてはいたのですが、衣食住の住む場所はあるとして、衣食やその他のお金を全て自分で賄っている状態。(授業料を親に全額出してもらいながら、仕送りまでしてもらっている同級生たちが羨ましくてしょうがなかった。)

お金が貯まるはずもなく、とっても頑張って節約したけど、1年生終わりの3月15日時点で、貯金は40万円。
3月31日までに授業料を振り込まないと、筑波大学は「退学」ではなく「除籍」扱い。すなわち、入学した事実を抹消されます。

とりあえず単位は2年生以降なんとかするとして、あと15日で18万円を捻出しないといけない。
奨学金の口座を父から奪い返す作戦も実行したのですが、失敗。
「こいつはいよいよチェックメイトか。。。」なんて諦めに入っていたころ。

学部長から呼び出されました。

部屋に行ってみると、いつもは同席していた事務さんたちがいない。
「どうしたんだろう?」。頭の中で「?」を抱えながら、ソファーに座りました。

学部長は、長い沈黙の後、胃を決したように一言。

「足りない分のお金は、俺が貸す」

しかし、僕としては、学部長がイチ生徒にとった行動が変な噂となって出回るかもしれないという可能性から、すぐに首を縦には振れませんでした。

すると、そんな僕の様子を見た学部長が、「奨学金を取り返すには父との縁を切って、父親変更するしかない」と、言ったんです。(手続き上の話がややこしいので詳しくは割愛しますが、未成年が奨学金申請する場合「死亡していない限り第一親等を連帯保証人にしないと申請ができない」という縛りがありました)

篠原先生は続けました。

君がよければ

「苗字が篠原でよければ、俺の息子になるか?」

赤の他人の僕に、ここまで言ってくれたこと。
本当に、感謝してもしきれません。

でも、さすがにやっぱり申し訳なくて、結局親族にあたりまくってお金を貸してもらい、何とか学費を入金しました。

篠原教授(仮名)は、その授業の難易度の高さから、単位取得難易度もとても高く、生徒からの評判はお世辞にも高いと言えませんでしたが
そのエピソードが知らぬ間に一部界隈で広まり、あだ名が「篠パパ」になり、生徒からの好感度が急上昇していました。

「がんばりたくてもがんばれない人」だった

画像8

教えることが好きだったので、バイトは塾講師を選び、中3を受け持っていました。基本的に週6で働いて、夏期講習期間は朝の8時から夜の22時まで働いていました。

そこでも、大西さん(仮名)という兄貴みたいな人が、夏期講習期間中に部屋に泊めてくれて(りくくんの家からバイト先の塾はとても遠かった)、
ご飯も毎日奢ってくれて
「バスで布団持ってたら変な人に見られちゃったよー!」と笑いながらドンキで布団を買ってきてくれました。

りくくん、篠原さん、そして大西さん。絶望的な状況でスタートしたキャンパスライフは、本当にたくさんの人に支えながら成り立っていたと思います。(もっともっとたくさん、ご紹介したい僕の人生を救ってくれた方々がいるのですが、止まらなくなってしまうので、別の機会に紹介したいなあ)

死ぬほど働き、勉強しました。

気付けば大学3年生になっていました。

「将来はここに就職して、塾講師になるのもいいなぁ」と思っていたのですが、ある日中学3年生のお子さんを持つお母さんと面談をすることになりました。

面談が始まってすぐ、異変が起こりました。
お母さんがボロボロと泣きはじめたのです。

ゆっくりお話を聞いていくと、お母さんが涙の理由を話してくれました。

「実はお金が大変で、夏期講習を受けさせてあげたくてもできないんです」

高3のときの自分が重なりました。

画像9

本当は東大に行きたかった。

ドラゴン桜と出会って、頑張ってチャレンジしようとしていたのに、受験の権利すら与えられなかった。

どうしてこんな状況になってしまうんだろう、日本の頭のいい奴とか何をやっているんだろう。何か、変えることはできないんだろうか。

頑張りたくても、頑張れない、全ての挑戦者たちの一助になりたい。
過去の自分のような悔し涙を、下の世代に流させない。

これが、今の自分を突き動かす原動力となっています。

「楽しく勉強していたら、東大に受かっていた」を実現するために

画像10

大学3年生のとき、文科省にインターンに行きました。
奨学金の拡充をして、家庭の経済状況に関係なく皆にチャンスが巡る世界を作りたかったんです

僕は、2年生になってからは無事に父から奨学金を取り戻し、人としての生き方を確立してからは、勉強に打ち込めるようになっていました。(勉強大好き人間です)

そんな「奨学金という長期的にたくさんの人が救われる制度を、もっと多くの人が使えるようにできないか?」と考えました。

しかし、インターンを通して分かったことは

厚労省が、目の前の死にかけている人を救う機関であれば
文科省は、20〜30年後の未来に投資をする機関

厚労省が、「マイナス」を「0」にする機関なら
文科省は、「0」を「1」にする機関

当然、緊急度としては厚労省のほうが高く、文科省の予算の拡張は難しいという現状でした。
ある職員の方からは「社会を変えるのは官僚じゃないよ、俺も入ってから気付いたけど」とも言われました。

文科省に入っても、「僕」が作りたい世界は作れない

文科省を目指すことをやめ、行政ではなく、民間から教育格差をなくす道を模索しました。

それから本当にたくさんの素敵な方との出会いがあり(とっても書きたいのですが、長くなり過ぎてしまうので、また別の機会に)リクルートの「スタディサプリ」に出会い、「教育格差をなくせるやん!」と、惹かれて新卒で入りました。

Webマーケティング職採用のクセして、ITスキルはゼロ。
めちゃくちゃ怒られながら
ときには、「浅井が成長しない」と議題に挙げられ
ときには、仕事ができなすぎて、やれる仕事もなくなり、駅前でチラシを配り
ときには、父が僕の名義で消費者金融カードをたくさん作っていたことが発覚し、借金返済でボーナス4回分が全部パーになり、涙を流しながらも、がむしゃらに働きました。

気づけば新卒入社から、2年半が経ちました。
同期の多くは起業か転職でリクルートを去っていました。
僕もその頃「自分でスタディサプリのような、教育格差を是正するサービスを作りたい!」という欲が湧き、他にもいろんなことがあり、その頃大好きになっていたリクルートを退職しました。
(色々あったし、先輩方には迷惑と心配をかけてばかりだったけど、振り返ってみると、あんなに最高の会社はないなと思います。日本で一番素敵な会社だと思う。)

そして、情熱大陸で見た『探究学舎』で生徒が楽しそうに授業を受けている姿に感銘を受けて、1年間働かせてもらい、そこでヒントをもらって今に至ります。(探究学舎とリクルートは、どちらも日本で一番素敵なメンバーがいる会社だと心から思っているし、死ぬほどお勧めできるので、是非ご興味ある方は、就職・転職先候補に入れてください)

「僕」が作りたい未来

これから僕がやることは、「オンラインLIVE配信塾」を立ち上げ、最高の先生と授業コンテンツを日本、ゆくゆくは世界の子供たちに届けること。

最高の授業をまずは日本の果てまで届けきり
子供たちに「勉強って楽しい!」と思って欲しい。

「ディズニーランドに行く感覚で『楽しい!』と思いながら勉強していたら、気付いたら結果的に難関中学・高校・大学に入れる学力がついていた」

こんなな世界を作りたい。ゆくゆくは、各地方拠点に校舎も建てる。

そして、学校法人化する。

「ディズニーランドみたいな学校」を創る。3年以内に。

画像11

まずはオンラインで、日本全国の子ども達に、一般的な予備校が年間100万円なのに対し、年間10~30万円で授業を届けます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。
26才の若造の僕ですが、これからもよろしくお願いいたします🙇‍♂️

20代のうちに、必ず
「ディズニーランドのような学校を作る」。

頑張りたい人が、頑張れる。そんな世界を目指して。

世界の果てまで、最高の授業を届けよう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?