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【ネタバレ注意】シン・エヴァのメッセージは、20年前の庵野監督の「〇〇」という発言を知れば理解できる

※編集集団WawW! Publishing 乙丸益伸が記す。

✴︎アイコンが紀里谷和明監督の写真になってしまっていますが、この記事に紀里谷監督は関係ありません。

※この投稿はネタバレでしかないというか、ネタバラシそのものなので、、シン・エヴァをまだ見られていない方は、はてぶにでも保存いただき、、映画を観てからこの記事を読まれることをおすすめします。

「シン・エヴァ」、冒頭のほうからずっとむせび泣くほど感動のなか観てきました。

最初に涙が出たのは、そっくりさん(綾波)に向けられた「綾波さんとは違うから。自分がやりたいようにやればいい」というセリフに対し、綾波が「違くていいの?」というセリフから、庵野さんに

「自分がやりたいように生きていい。人と違ってもかまわない」

と言っていただけているように感じ、思わず涙が溢れました(同じようなことを「アスカはアスカだ、それだけで十分だ」という終盤のケンスケの言葉からも強く感じました)。

また、「おはようは、今日も一緒に生きていくためのおまじない」「さよならは、また会うためのおまじない」「握手は、なかよくなるためのおまじない」のおまじないシリーズには、庵野さんから

「そうやって考えて生きていけば、日々心穏やかな幸福感につつまれながら生きていけるよ」

と言っていただいているような温かみを感じ、また涙がこぼれました。

またレイの「照れる。恥ずかしい……これが……」「涙。これがさみしい」というセリフには、レイちゃんが色々な感情を味わえて本当によかったという思いから、冒頭のほうでは一番涙が溢れてきてしまって困ってしまったシーンでした(いまこうして書いていても、また涙がこぼれてきてしまうほどです……)。

僕がそんな感動を覚えながらシン・エヴァを観ていたのは、アニメ版のエヴァが始まる前の『GX Anime Express』上の新作アニメ発表の回で、「いわいる、テーマは?」との質問に対し、庵野さん自身が

「テーマなんてものは、現在、自分が考えていることでせうね。アニメファン(自分自身)の持つコンプレックスを考えて、何が「幸せ」なんだろうか?どうしたら「幸せ」になれるんだろうか?」と、まぁこの辺りでせうか」(「せうね」「せうか」は原文ママ)

とお答えになっていたのを知っていたからです。

僕はこの庵野さんの発言から、エヴァとはそもそも、

「庵野さんが幸せとは何か? と向き合われながら、その時々で考えられた答えを反映させながらお作りになった作品だ」

と捉えながら観ていました(そして終劇までに25年もの時間がかかったのは、ご自身が納得なさるクオリティのものを生み出そうとされたためであると同時に、庵野さん自身が「幸せとは何か?」「どうしたら幸せになれるのか?」という問いに、長らく答えを出せずにいらっしゃったからだと考えていました)。

ゆえに、シン・エヴァが発表になった時、ついに庵野さんは、ご自身なりの「幸せ」というものに辿り着かれたのだという確信に至り、

「衆人環視の中で、人生をかけて『幸せ』というものに向き合われた、庵野さんのエヴァでの最後のお仕事を見届けなければならない」

という一心で観に行ってきました。

***

そういった視点でシン・エヴァを観ていたので、劇中で、

「人生は今が一番若い時。人生はつらいことと楽しいことの繰り返し。毎日同じでいい。今を精いっぱい生きていきたい」

というセリフが出てきた時には、その辺りが、現在庵野さんが人生に精一杯向き合われるための態度なのだと思いました。

また、シンジ君が絶望の果てに家出をし、ふさぎ込んでいる時に、アスカの「このレーション持って行って。そろそろ限界」というセリフや、レイが拒絶されても何度もシンジ君の元を訪れる姿や、アスカが建物の陰からそっと見守っていた描写、あるいはマリの「君がどこにいても絶対に迎えに行く」という言葉は、

「今は自分は一人だとふさぎ込んでいる人にも、実際には永遠にそんなことはなくて、いつか必ずあなたのことを思ってくれている人があらわれるよ」

という、色々な経験を経て、今、ここに生きていらっしゃる庵野さんからの心温かいメッセージだと感じました(また、自分は一人ぼっちだと思っていたアスカにとっては結局、ケンスケがそういう人になったという描写を見た時にも、また結局シンジ君のそういう人に、成人後?にはマリがなったといった描写からも強く同じ思いを抱きました)。

そしてシンジ君の家出のシーンには、当初は「自分の悲運を?呪って、『生きていたくもないし、死にたくもない』と思い、自分のためだけにふさぎ込んでいただけだったシンジ君」だったところから、

1.レイの優しさに触れ、レーションにむしゃぶりついたことから、「自分は思いもかけず生きていきたいんだ」という自分の思いにまず気づき……、

2.口では、「放っておいてほしいのに、なんでこんなにみんな優しいんだよ!」と言いながらも、周りの人の優しさに気づき……、

3.さらには、レイの「好きな人とずっと一緒に生きたかった。稲刈りしたかった……」というセリフと自爆を受け……(ああ、やっぱり書きながら涙が溢れてしょうがありません……)、

4.さらには第3村の人々の生活にも思いを馳せたことでついには、

シンジ君は、「そんな人たちのいるこの世界を守りたくなり」、同時に

「自分のためだけに生きるのではなく、人(レイや第3村の人たち)のために生きるという幸せもあるのだ」

という気づきに至った結果、再び立ち上がれたのだと思いました。

その時同時に考えていたのは、恐らく庵野さんも、ふさぎ込みたいほどのつらい体験をなさって、そこからまた立ち上がることのできた経験をなさって、その実体験から、あの描写をお描きになったのだろうという風に感じながら観ていました。

またアスカの、「レイのお陰? 泣けるだけ泣いたらすっきりした?」というセリフや、すでに取り上げた「人生は今が一番若い時。人生はつらいことと~」という言葉は、壮絶な体験を経られて、「今」庵野さん自身が実感なさっていることから生じた言葉であると感じると同時に、

そこまでの答えに25年もかけて辿り着かれた庵野さんのこれまでの真摯な生き方に、敬服する思いで観ていました。

※そして観劇後に、『スキゾ エヴァンゲリオン』という、アニメ版終了後に庵野さんがインタビューにお答えになっている本を読んで、、

アニメ版の放映後に、庵野さんがガイナックスの屋上に立たれた経験があることを知り、またそれ以外にも数々の絶望を乗り越えられてた結果「生きる」という決断をなさった壮絶な庵野さんご自身の物語に思いを馳せると、また大きな感慨の波が僕のもとに訪れる思いでした。

***

そういった視点からシン・エヴァを観ていた僕が最も感銘を受けたのは、

シン・エヴァ三本目の槍、ガイウスの槍が登場する場面で、ミサトさんの「知恵と意思を持つ人間は、神の助けなしにここまできてる」というセリフを聞いた瞬間でした。

そのセリフを聞いた瞬間、カシウスの槍は希望の象徴であり、ロンギヌスの槍は絶望の象徴であったため(また、ゲンドウの「人は希望という病に溺れるものだ」というセリフもあったため)、庵野さんは、

「人は、絶望と希望という名の『運命』(=神による定め)を、『知恵と意思』(=ガイウスの槍)によって変えることができる存在である」

という確信に、これまでの人生を通してついに到達されたのだ」と思い、万感迫る思いに駆られました。

それはなぜなら、

「運・不運(=希望と絶望)に象徴される「運命」(=神による定め)というものを、人は、知恵と意思によって乗り越えることができ、幸せになれる存在なんだよ」
「だから、生きよう」
「君が生きてくれていてうれしいよ」

と、庵野さんのこれまでの人生のすべてをかけて、言っていただけているような気がしたからです。

とここまでの話は、「人がこれから生きていくための態度」の話でしたが、そこから振り返ると、

「我々の決着の基準は暴力にはない」
「力で対抗することじゃない。父さんと話がしたい」

というセリフからは、庵野さんが、

「人は、知恵と意思の力(≒話し合い)によって、争いごとを乗り越える力を持っている存在でもある」

という確信に、これまでの全人生を通して至られたのだと考えると、これからの人類の未来のことを考えると、感極まる思いで観て、そして大いなる勇気をいただいた気持ちでした。

そして25年をかけて「幸せ」と真摯に向き合われた庵野さんにぜひ、

このエヴァを製作なさっていた25の間に、「何を経験され」、「何を考え」、「何を感じられた」結果、現在、庵野さんがたどり着けれている「幸せ」というものに辿り着かれたのか? 

のそのすべての記録を、一冊の本におまとめいただくことで、広く後世に向けて残していただきたい、また残していただかなければならない、という思いを抱きました。

劇中では、マリの「本は人の英知の集合体」というセリフがありましたが、いまを生きる編集者として私もまったく同じように本のことを捉えながら、日々編集業務に取り組んでいるからです。

いずれにしても、こういった視点でシン・エヴァを改めてご覧になると、シン・エヴァに込められた庵野さんのメッセージが、より鮮明にわかりやすくなるように思いますのでおすすめです。

***

2回目を観て気づいた話としては、マリがゲンドウを「ゲンドウ君」と呼んでいて、冬月を「冬月せんせ」と呼び、同世代?っぽい雰囲気を醸し出していて、

学生時代のゲンドウがシンジ君のお母さんのユイにはじめて会う場面がありましたが、

あの場面でユイをゲンドウに紹介しているのはマリっぽい風貌のメガネをかけた少女であるという描写を2回目に観た時に確認しました。

そのことから、マリは元々ユイとゲンドウの知り合いで、ゲンドウにユイを紹介したのは、マリだったという設定になっているようです(その後劇中でなぜマリがシンジ君と近い年齢になっているのかは僕にはわかりませんが。。)

また、劇中でマリが「イスカリオテのマリア」と呼ばれたのを、これも2回目に観た時にはっきり確認しましたが、、

エヴァは度々キリスト教をモチーフとした話が出てくることを考えると、ユイが(聖母)マリアで、シンジがその子(キリスト)だと考えると、聖書の物語には、2人目のマリア――マグダラのマリア――が出てくるので、、マリは、マグダラのマリアだという位置づけのキャラクターなのだと思いました。

P.S.
プロフェッショナル~仕事の流儀~を観て、

「庵野さんのお父様が事故で片足を失われていて、社会をうらむようなところがあって、庵野さんにもそういうものをぶつけている時があった」という表現があって、

庵野さん自身の「欠けているからこそ愛おしいと思う」というセリフがありました。

そのセリフから、庵野さんは、「お父様を肯定してあげたい」と思っていると同時に、(ご自身も何かが欠けた存在だと思われていたと思うので)「欠けている自分も肯定したい」「肯定してほしい」という思いで、エヴァ製作の25年を生きられていたのだと思いました。

そして、エヴァの製作を通して、安野モヨコさんとのご生活を通して、ついに「欠けている自分」を肯定でき、「自分の幸せ」に辿り着かれたのだと思いました。

だから、シン・エヴァというのは、庵野さんからの、「自分は欠けた存在だ」と思っている人への、心温かすぎるメッセージなのだと思います。

P.S.のP.S.

実は僕は庵野監督に会ったことがあるのですが、、それは代官山蔦屋のとある無料の展示会の席ででした。

席というか、僕は代官山蔦屋の無料で座れる席でいつものようにパソコンを広げて仕事をしていたのですが(その時、その周辺の椅子に座っているのは僕だけでした)、、そこにお付きの方と二人でいらっしゃったのが庵野監督でした。

僕はすぐに気づいて、むちゃくちゃテンションが上がっていたのですが、、監督はといえば、無料の展示を歩いて見て回りながら、、にこやかにお付きの方?に感想を述べられ、、10分ほどで帰られました(僕は話しかけたりはしていません)。

で、、「なぜ監督がこんな無料の展示会に!?」と思って気づいたのが、、その展示会、安野モヨコさんの展示会だったのです笑

僕はその時、庵野監督と安野モヨコさんが夫婦でいらっししゃることを知り、、同時に監督がいかに安野モヨコさんを愛されているかを知りました(ちなみに、庵野と安野は偶然同じ読みの苗字だっただけで、結婚して安野さんがあんのに寄せられたわけではないそうです)。

マリって正直、安野モヨコさんだと僕は思っているのですが、、シン・エヴァの完成は(すなわち庵野監督が「幸せ」に到達なさったのは)、そんな安野モヨコさんという存在があってこそだと、僕は思っています。

P.S.のP.S.のP.S.(←※3月31日に追記)

こんなトゥギャッターまとめを作りました(やっぱり僕の考察は当たっていた??)↓

編集集団WawW! Publishing 乙丸益伸


編集集団WawW! Publishingの公式note。現在、映画監督・紀里谷和明著『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた 自分と向き合う物語』(文響社刊)の関連記事を公開中。