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ヒップホップ資産家ドクター・ドレーの成り上がり伝説

発売後、すぐに完売となった、ドクター・ドレー表紙のWax Poetics Japan No.34。現在では、ヒップホップ界でナンバーワンの資産家となったドレーの歴史を紐解いた記事が話題となった。誌面は既に完売したが、ドクター・ドレーにまつわる珠玉記事をnoteに公開。

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手を休めないアンドレ・ロメル・ヤング

Dr. Dre  

 プロデューサーとしてその名が音楽史に刻まれるよりも前、そして敏腕ビジネスマンとして自身の名を冠した帝国を築き上げるよりも前、アンドレ・ロメル・ヤング、通称ドクター・ドレーは「The D.O.C. and the Doctor」という曲をリリースした。

 同曲は伝説のラップ・グループであり、西海岸のパイオニアであるNWAにドレーと共に所属していたDOCのソロ・デビュー・アルバム『No One Can Do It Better』に収録された曲であり、躍動的な野太いベースライン、完璧なミキシングのヴォーカル、そしてキャッチーかつ鮮やかなサンプリングなど、典型的なドレー・サウンドが誇示されていた。

 同曲はパーラメント・ファンカデリックのネタが主体となっており、サビで印象的なギター・フレーズが鳴り響くなか、DOCがシンプルながらも若々しさ溢れる力強いラップを披露している。“ソウルが詰まったベースを響かせて、あとはDJドクター・ドレーにおまかせだ!”。同曲は1989年にRuthless Recordsからリリースされたが、それから25年経った現在、この曲はドレーが腕利きのスタジオ・ミュージシャンとして頭角を現し、ヒップホップ界のマエストロとしての地位を築き始めた重要な瞬間を示す指標になっている。

 ドクター・ドレーの活動の原点は、ワールド・クラス・レッキン・クルーにある。LAを拠点に活動したこのDJ集団は、1983年頃から同市のエレクトロ・ファンク・シーンを盛り上げ、1985年と1986年に2枚のアルバムをリリースするに至った。それらのアルバムである『World Class』と『Rapped in Romance』は、ヒップホップとエレクトロニックなドラムスを融合させたものであり、ドレーや、のちにNWAのメンバーとなるDJイェラなどが音楽界で知られるきっかけとなった。ドレーはすでに、フリーマーケットなどで自身のDJ用にLPや7インチを買い漁っていたらしく、そういった行為が流行る前からディギングをしていたことになる。そしてこの頃から、ドレーはサンプラーやドラムマシンを用いてループを作ることに着手していた。彼の母親によると、彼は子供の頃から音楽に興味があったらしく、母親が所有していたカーティス・メイフィールドやジョージ・クリントンのレコードは、ドレーの少年時代のサウンドトラックだった。そのうち彼はDJに興味を持つようになり、その好奇心がのちにNWAのメンバーとしてのブレイクに繋がるのだった。1985年のこの時点で、ドレーは弱冠20歳だった。

 2013年のEsquire誌のインタビューで、彼は南カリフォルニアで育った子供時代を振り返っている。どのミュージシャンにも言えることだが、彼が子供の頃に吸収した情景、音、そして当時の経験は、のちの彼の制作(そして制作の心構え)に多大な影響を与えている。そのインタビューでドレーはこう語っている。「父親は7人兄弟の長男だ。彼らはストリート・ライフにどっぷりで、ドラッグ・ディールとか犯罪に手を染めていた。父親の家族は、俺にそういう人生を送らせないようにしてくれた。若いうちからいろんなものを見せられたよ。11歳の頃に、ドラッグをやる大人たちを目の当たりにしていた」。

 過酷なストリートの現実は、彼のソロ作でもコラボレーション作でも描写されるようになる。プロデューサーとしての慧眼や才能で知られるようになるが、その初期のラップ・リリックにはこういったリアリティーが綴られていた。同じ2013年のEsquireのインタビューで、彼はこう続けている。「若い頃からそういったドラッグの影響とか、ギャングの現実を見て育った。そういう人生がハッピーエンドに終わることは決してなかったから、父親も叔父も俺にはそういう人生を望んでいなかった」。またドレーは「母親や叔母が、自分や弟のタイリーが悪さをしないよう、そして、ストリート・ギャングなどと関わらないよう目を光らせていた」とも語っている。

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