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プリンス・ファミリーを語る上で外せない重要バンド、ザ・タイム。リード・シンガーであるモーリス・デイの独占インタビュー。

モーリス・デイは、80年代のR&B、特にミネアポリス・サウンドを代表するアイコンの1人だ。最初はドラマーとしてデビューし、その後、ザ・タイムのフロントマンとして活動するようになった彼は、プリンスを中心に発展していったムーヴメントのキーパーソンであり、並外れた存在感を放つ努力家でもあった。そののち、“紫の陛下”の陰から独り立ちして、彼はシーンを牽引するアーティストの1人としての地位を確立した。

BIG TIME

時流を超えるエンターテイナー

Morris Day

 70年代後期、ミネソタ州ミネアポリスという街で、実にユニークなR&B、ファンク、ロックを融合したサウンドが生まれ、アメリカのポップ・ミュージック・シーンを侵略した。驚くことに、その新たなクリエイティヴィティの爆発は、僅かな数のローカル・バンドによってなされたものであった。地元の仲間たちが互いに刺激し合った結果、シーンが活性化していったのだ。バンド・リーダーたちは絆を大事にし、友人にチャンスを与え、時にバンド同士でメンバーを交換し合って、素晴らしい音楽をどんどん誕生させていった。

 同地で才能が開花した若いアーティストの1人に、モーリス・デイという、ミステリアスで、人当たりがよくて、才能豊かで、運がいい男がいた。まだティーンのうちから、プリンスの音楽キャリアの中でも重要な役割を担う存在となり、ほとんど偶然と言える状況で、彼はプリンスのサイド・プロジェクトの1つ、ザ・タイムのフロントマンに抜擢された。モーリス・デイはそのバンド活動を通して、アーティストとして洗練され、スターへと成長していったのである。プリンスが手がけた映画『Purple Rain』にも出演し、自分自身をコミカルかつ大げさに演じきったモーリスは、プリンスが演じた気分屋の主人公ザ・キッドや、彼のバック・バンド、ザ・レボリューションよりも好印象を残すことになった。

 その映画で一躍知名度が上がり、オープニング・アクトを務めたプリンスのライヴではメイン・アクトより観客を盛り上げることもあり、さらに「Jungle Love」のようなヒットも生まれて、ザ・タイムは頂点を極めた気分でいた。しかし1985年、その人気がピークに達した頃、様々なトラブルや軋轢が生じ、モーリス・デイはバンド活動に終止符を打つことになった。バンドを解散させ、プリンスのもとから去り、彼は単独で歩み始めたのである。

 「私は(ドラマーの)ボビーZの10倍は上手く叩ける。でも、今はその話はよそうか」とモーリスは主張する。どうやら、今でもザ・レボリューションのドラマーにボビーZが選ばれたことを根に持っているようだ。電話で行われたこのインタビューを通して、彼は執拗に自分のスキルが過小評価されてきたことを繰り返した。それは自惚れなどではなく、自分の成し遂げてきたことが認められなかった事実への悔しさに起因するものだろう。ステージ上ではエンターテイナーの印象のほうが強かったが、幼少期より音楽に夢中だった彼は、ミュージシャンとしても類稀な才能を有していた。

 「あれは1964年だったか。うちにもカラーテレビがきて、『Bandstand』という番組を私はよく観ていた。フォー・トップスやジェームス・ブラウンといったアーティストが出演していたね」と、モーリス・デイは思い出す。「自然に音楽に惹かれていった。家族の中に音楽に夢中な人はいなかったから、私は音楽に選ばれたのだと感じたよ」。

 ドラムの代わりに家具を叩き、木製のキッチン用品を壊してしまうモーリス・デイにうんざりした母親は、彼にドラムセットを買い与えた。その後、1年と経たぬうちに、彼はバンドで演奏するようになったが、彼が高校生の時に転機が訪れた。「高校でプリンスと一緒に音楽をやるようになったんだ」。モーリスは言う。「彼のバンド、グランド・セントラルが放課後、食堂で演奏しているのを見かけた。14、5歳くらいの彼らにしては、すごく上手かったよ。プリンスはサンタナのソロを弾いていた! 衝撃を受けたね」。

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