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違うけれど同じ、同じだけれど違う:純‐情報レベルの記号過程へ

 あれとこれは同じ、とか、あれとこれは違う、とか。

 一体全体どうして、あれとこれとを区別したり、比べたり、同じものだ違うものだなどと言うことができるのだろう?

バスとトラックは「同じ」(車両)

りんごとみかんも「同じ」(果物)

チワワとドーベルマンも「同じ」(犬)

子猫とジャガーも「同じ」(猫科)

「あなた」と「みんな」も「同じ」(人間)

 子猫のあたりまでなら、ふんふん、それならそれで。同じということでよろしいじゃありませんか、と聞き流せる。しかし最後の「みんな」と「同じ」というあたりで、居心地の悪い感じが出てくる

「同じ」があるからこそ「違う」と言える

 みんなと同じ。

「みんな、我慢しているのだから、あなたも我慢しなさい」

「みんなと同じにしなさい」

「なんでみんなと同じにしないの?」

 大人になる過程で(実際には単に歳を取る過程で)そんな言葉ばかり、投げつけられてきたような気がする。「おなじではない!、ちがう!」と言ってみたこともないわけではないが、誰でも「みんな」若い時にはそういうことを言いたくなるんだよ、くらいのあしらいでウヤムヤになった。

 とはいえ、すっかり大人になると「同じ」の便利さにも、また気がついてしまう。とりあえず人様と「同じ」にしておけば、あとはエスカレーター式に自動的に物事が進んでいくものだ、と。だから限られた時間を自分の為に生きるためだと観念しては、大概のことを「みなさんと同じで」で、やり過ごす。

 どうして、あれとこれとを区別したり、比べたり、同じものだ違うものだなどと言うことができるのだろう?

 日常なにげなく暮らしている限り、こんなことを問いかけてくる人とは滅多に行き合わないし、自分からもあえて、口に出したりはしない(例外は、大学院のゼミくらいだろう)。

 しかし、時々不意に思うのである。

 もしかすると、他の人も、わたしと「同じ」ように観念して、諦めて、やり過ごしているだけなのではないか?と

 日常の定型的な言葉のやり取り、自販機の自動放送のような言葉の連鎖のハザマで、「同じってどういうことですかね?」などと迂闊に問いかけようものなら、奇人変人の烙印を押されて排除されるかもしれない、と。

 みんなと同じにしないと気がすまないなんて、くだらない?
 ひとはみんな違っていい!

 もちろん、それはそう。そう考えるのは大事なことである。

 ところが、どうしても「同じ」でないと気が済まない、安心できない、という傾向が「わたしたち」にあることも、忘れてはいけない大問題である。

記号過程

 なぜ世の中こんなにも、みんな「同じ」が好きなのか?
 いや、取り立てて「好き」では無いのかもしれないが、表向きは「同じ」がよりマシということでやり過ごしているのか?

 なぜかといえば、理由は簡単で、同じというのは、いつも同じにしておかないと、同じではなくなってしまうから、である。

 何かと何かが「同じ」なのは、それらを「違うかもしれませんが、ここは同じだということにして先に進みましょうよ」と決めることによって、同じということになるからである

 同じ、は、必死に頑張って「同じにする」操作、運動、プロセスを通じて、作り出され、再生産される代物である。波打ち際で波にさらわれつつある砂の城のように、常に再建しつづけないと、消えてなくなってしまう。それが「同じ」ということである。

 子猫とジャガーが「同じ」なのは、猫は猫科に同じ、ジャガーも猫科に同じ、故に猫もジャガーも猫科、という「同じ」にする操作の結果である。この同じにする操作の結果として「同じになる」のであって、「もともと同じだから同じといえる」というわけではないのである

 喉を鳴らしてこちらを睨みつけてくる飢えたジャガーを、「可愛い子猫ちゃん」などと言って抱きしめて頬ずりしたいとは、思わない。いや、思うのは自由だし、抱きつこうと歩み寄るのは構わないが、その後どうなるかはお察しのとおりである。

 それならば「同じにする」という操作は、何と何に対しても、勝手気ままにどうにでも、加えることができるのだろうか?

 この問題には少々答えにくい。

 まず「言葉」のレベルで、それはできる、と答えたい。

 言葉は、そもそも異なるものを「同じ」として扱うという操作の痕跡の発現である。何かを音へ置き換え、音の連鎖へ置き換え、そして物質表面に刻まれたパターン、文字のようなものに置き換える。置き換える都度、「これはあれと同じということで」と約束しあうことで、意味ある語の体系ができあがる。言語は「同じということにする」お約束の集まりのようなものだ。

 そうはいっても、子猫とジャガーの区別も、犬と猫の区別も、やはり言葉の中での区別に尽きるものではない。

 仮に犬を猫と呼ぼうがなんだろうが、実際にワンワンと吠えているドーベルマン的なあの動物と、ミャオミャオとか弱く呼びかけてくる生まれたばかりの子猫は、これは人間がそれをどういう名前で呼ぶかとは無関係に、それ自体としてそもそも子猫だし、そもそも猛犬であると。

 それなら、言葉による同じにする操作は「間違い」で、目に見える実在のほうが「ホンモノ」だといえばよいのだろうか。と、ここで先走ってはいけない。目に見える実在が「それとして」出来上がってくるプロセスも、結局同じ問題である。

 見落としてはならないのは「同じにする」操作に、いくつものレベルがあるということだ。

 そして特に「身体」のレベルでは「同じにする」操作はそれほど自由ではない。

 「私は鳥である」と言葉で言うのは構わない。そう信じるのも構わない。

 しかし、鳥のように高木から羽ばたき…、いや、危ないので、ソファーからラクジュアリーなラグマットの上に飛び降りてみれば「わかる」。

 あるいは先程のジャガー。こちらを低い声で唸りながらこちらを睨みつけてくるその視線に捉えられた時のぞっとする緊張感と、生まれたばかりの子猫を愛おしく感じる「あの感じ」、これは頭で考える以前に、身体の反応として、まったく違ったものになる。

 身体のレベルでは、どうにでも好き勝手に「同じとして」の変換をできるわけではない。身体のプロセスでは、猫科の猛獣に睨みつけられることは、全身の緊張と「同じ」ことである。ところで、もし私達人間が、身長20メートルもあろうかという首長竜のような姿をしていたら、おそらく唸るジャガーなど、モルモットが怒っているくらいのものでしかなく、全身の緊張を引き起こす何かと同じにはならない。ここにも身体レベルで特有の「同じにする」操作が働いているのであり、その働き方には、種によって、身体によって、違いがある。

 個々の身体レベルで「同じ」を作っていく記号過程は、もうどうしても他ではありえない「同じ」のパターンを生み出してしまう。そこでは「同じ」ということは、「モノたちそのもの」が包含する「何か」に即して判定されるように思えてしまうのも無理はない。世界がはじめから、互いに他とは異なったものたちから成り立っている、かのように。それは私達が言語的、意識的、自覚的に対象化可能な世界のイメージそのものを、予め「ある一つの形態の生命システムとしての人間にとってのもの」としてお膳立てしてしまう。

 「同じにする」プロセスは多重である。身体レベル、前意識レベル、神経レベル、あるいは言語レベル、社会的な意味のレベル、いくつものレベルで、くりかえしくりかえし、あるパターンを他のパターンと「同じ」として扱うという処理が重ねられている。

 こうした処理のことを総称して「記号過程」と呼ぼうという考え方もある。

「同じ」の前に「違う」

 ところで「同じ」にする、しない、というプロセスの前に、さらに前段の処理がある。

 それは「違う」という処理である。「違う」ということにする。

 子猫とジャガーを「違う」ものとして区別できるのはどうしてか?

 それは子猫がはじめから子猫で、ジャガーがはじめからジャガーで、かもめがはじめからかもめだったからではない。

 ジャガーというものは、ジャガー以外のものと区別されることから始まるのであるし、子猫というものも子猫以外のものと区別されることで始まるのである。

 もし私がウイルスのような微細な生命システムであれば、ジャガーも子猫もどちらも大量のタンパク質があつまった半流動体であり、子猫は可愛いんですよ、などと区別する意味がわからないであろう。

 そうして何をほかから区別するかということは、まったく区別する操作の動き方のパターンに起因するのである。恣意的でありながらしかし習慣的に行われる「区別する」操作こそが、区別を生み出している。区別の指標になるようなものは、ものそのものにあるのではない。

 もちろんここにも、先程の言語レベル、身体レベルのように、いくつものレベルがそれぞれ動いている。

 身体レベル、生命システムのレベルで進行する区別の処理に対しては、区別する境界線は好き勝手に引きなおせるものではなく、厳密にあらかじめ固まっているように見える。しかしそれは、区別されるはずのものたちの世界が予め切り分けられているからではなく、区別する処理が強力に一貫して動いているからにほかならない。

 はじめに「区別する」動きがあり、その後で、互いに区別された二項を「同じもの」として扱ったり、「違うもの」として扱ったりする。

 人間の言葉は、この「違うもの」として扱う処理と、「同じもの」として扱う処理を組み合わせて動いている。何かを記号で表すということは、指示対象と記号という、互いにまったく異なったものを「同じ」ものとして、置き換え可能なものとして、扱うことにほかならない。

 そしてそして、身体レベルで明らかな「違うけれど同じ」の体系を、言語レベルでひっくり返せるということ、レヴィ=ストロースが『神話論理』で描き出した南米先住民の神話の語りはこれである。 

 「区別して、同じにする」、これを仮に記号過程と呼ぶが、世界には無数の記号過程が動いている。言語レベルから身体レベルへ、ひとりの人間もいくつもの記号過程がからまりあって動いている。あるいは動物種は、それぞれ異なる記号過程の絡まりの中で動いている。

 記号過程から記号過程への「翻訳」を生産し、新たな記号過程を作動させるコードを仮設的に設定できること。それだけであれば、おそらく人間に限らず、あらゆる生命システムができることであろう。

 画期的だったのは、作り上げた記号過程を、遺伝という手段を経ずに、個体から個体へと伝達できる方法を獲得したこと、つまり言葉のレベルの記号過程を遺伝に比べれば「超高速」でコピーできるようになったことが、おそらく人間が地球の生態系を激変させるほどに増えることができたきっかけのひとつである。

 そしていま、言語のレベルは、より一般的な「情報」レベルの記号過程として、ふたたび生命レベルの記号過程に近づきつつあるし、それは近い将来、人間の身体の外(コンピュータなのか、それとも生態系レベルの生命システムなのか、あるいは素粒子の波動性のパターンなのか見当もつかないが)、そうしうた純情報レベルに移植されることになるだろう。

 そう思うと、どうもそれまでジャガー的な危険生物に見えていた人間というものが、生まれたばかりの子猫的なものに見えてくるのである。

※関連note※



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