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類(たぐい)稀(まれ)なる‐読書メモ:『たぐい vol.1』

 いつの頃からか、もう覚えていないが「類まれなる」というコトバを気に入っている。中学生だったか、小学生だったか、ずいぶん小さいころから、この手の子供らしからぬコトバを使っては奇人扱いされたものである。そうして奇人扱いされることの開放感もまた、その頃にもう知っていたような気がする。

 類、たぐい、といえば、「云々の類」という具合にいろいろなものを、細かく見ればそれぞれ異なった事柄を、ひとまとめにした何かである。例えば「人類」、ヒトのたぐい。あなたも私も、彼も彼女も、あのお方もあの輩も、あいつもこいつも、十把一絡げにして「人類」という具合である。

 この類に「まれ」が貼り付くと面白いことになる。

 類稀、たぐいまれる何かとは、要するに、一連のたぐい達の中にありながらも、他とはひとまとめにできない何かを持っているということ、稀有な、珍しい、「まれ」な、他と違うところをもっているものである。

境界的な「たぐいまれなる」

 「類まれなる」なにかは、類という集合の内部とその外部との境界に位置する。類の内部でありながら、内部に安住し切ることがない、内部からみれば異質なところがある。かといって完全な外部でもない。

 類まれなる、というコトバには、こういう内外の境界的なるもののヒビキがある。

 境界的なるものは、「類」がその外部とは異なるものとして生じる=作りされる瞬間に立ち会う。類まれなる存在があればこそ、その「稀」な部分が欠落したものたちの集まりとして、類の中の均一性が照らし出される。

『たぐい  vol.1』

 こんなことを数年来、漠然と考えていたところで、最近出会ったのが奥野克己氏らの編集による『たぐい』誌である。

 表紙をめくると、冒頭の「<たぐい>の沃野へ」という一節に次のようにある。

 「人類学では一般に、種が自律し、安定した単位として、ほとんど疑われることのないまま用いられてきた。種という知的カテゴリーにい対しては、動植物だけでなく、モノ、神々、精霊までを含めた、その場、その時に向き合っている他者の、想像上のまとまりとしての<たぐい>という語を用意しよう。」

 「自律し、安定した単位」と考えられてきた「種」を出発点に思考の出発点に置くのではなく、「その場、その時に向き合っている他者の、想像上のまとまり」で考える。そのために種ではなく「たぐい」というコトバがちょうど良い具合である。

種と類(たぐい)

 ここには明瞭な対比がある。種と類(たぐい)である。

 それは”予めそれ自体として他とは異なるものとして客観的に存在する何か”と”ときと場合に応じて仮に一まとまりの同じものとして扱われる事柄”との対比である。

 いわば前者は、世界を「できあいのもの」だと信じることである。
 それに対する後者は、世界を、つど個々の生命なり知性なりが「作り出した(あるいは受動的に作らされた)」それ自身にとって有意味な環境についての表象たちの織物と観念することである。ここでつどつど仮設的に作られるのが「たぐい」である。

 ちょうど最近、こちらの量子の非局所性についての本も読んでいるのであるが、そこでは「できあい」の親玉のように信じられている物理的な世界、その物質性、それが展開する場である「空間」さえもが、ことによると「たぐい」的な情報、あるいは情報のたぐいだと考えたほうがよさそうだ、という話になっている。

もし世界が「できあい」のものでないなら

 ちなみに、世界を、つど個々の生命なり知性なりが「作り出した(あるいは受動的に作らされた)」それ自身にとって有意味な環境についての表象と考える、という方法というか態度。それは上妻世界氏がその「制作」論で追求しているところである。

 なお、上妻世界氏は『たぐい vol.1』にも「森の言葉 序説」という論文を寄せている。

 上妻氏はそこで、言葉をシンボル内の体系に閉じ込めておくのではなく、インデックスへ、イコンへと結び直す試みへと読者を誘う

ふたたび、シンボル、インデックス、イコン

 シンボル、インデックス、イコン、というのは、パースの記号論が区別した3つの記号過程である。これについては最近、別のnoteに整理しているので参考にしていただきたい。

 シンボルの体系としての言語は、いわば記号と記号の関係、しるしとしるしの置き換え関係のコードである。それは純粋にしるしとしるしの組み合わせであり、しるし間の関係の「外部」のどこかに根を持ったり、接着されたりはしていない。シンボル体系は「恣意的」なのである。

 恣意的なシンボルに対して、インデックスとイコンは外部との安定した、反復的な、ときに固定的な対応関係を持つ。インデックスとイコンは恣意的ではないのである。

イコン

 りんごの絵は、よほど頑張らない限り犬の絵には見えない、という具合に、イコンは必然的な感じがする(なお、りんごの絵をみてこれは犬だ、と言えるときに、そこにはすでにシンボル関係がはじまっている)。

 テレンス・ディーコンは、シンボル以外のインデックスとイコンはホモ・サピエンス以外の他の動物でも、それぞれのやり方で扱うことができるという。いや、動物というか、植物もイコンとインデックスを扱っている。ことによると岩石さえも、過去の地球の動きのイコンでありインデックスでありうる。

インデックス

 例えば、うさぎやリスは、ガサガサと落ち葉を踏み分けるリズミカルな音を聞けば、そこに人間あるいは熊かなにかの捕食者が居ると感じ、ジッと動きを止めて身を隠す。ガサガサという落ち葉の音と、捕食者のイメージ、この二つが組み合わされている。この関係がインデックスである。

 人間もまた、シンボルだけで行きているのではなく、インデックスと、イコンに、深くその根をはっている。山の中を歩いていると、大きなつぶれた足跡がある。あたりには独特の獣臭い匂いが漂っている。なんとも不穏な感じがする。「ああ、熊が近くいるに違いない」と、私は思わずゾッとし、心拍も加速する。

感覚と環境に縛られている

 もちろん、匂いと足跡である。まだ熊の姿を見たわけではない。熊だというエビデンスはない
 この足跡と匂いは、もしかすると、新種のおだやかで優しい草食動物かもしれない。たとえばこういうたぐいの↓

 あるいはリアリズムを追求したポケモン実写版の撮影現場に迷い込んだのかもしれない
 しかしそういうのは「都合のよい解釈」だろうと、私は思うわけである。熊だというエビデンスはまだないのだから、といくら強気に念じても、まったく安心できない。息を潜めたままそろりそろりと逃げ出しすほうが良いに決まっていいる。

 逆に、シンボル体系のロジックで考えれば「非合理」なことを、私たちがついつい選択してしまうことの地盤には、インデックスとイコンがある。

 イコンとインデックスは、環境と感覚器官に、しっかり結びついている。それ以外ではありえないような表象と外界のひとつの関係がそこにはある

「たぐい」は「制作」される

 シンボルだけでも、インデックスだけでも、イコンだけでもない。シンボルからインデックスへ、あるいはその逆へ、そして更にイコンへと、行ったり来たりすること。上妻氏の「制作」の概念はこの記号過程を跨いだ往還の運動と、それを通じた表象のブリコラージュ的な制作を捉えようとしたものである

 世界が、できあいの「種」たちからなる確固たる体系として、予め固く静的な構造をなして「いない」のであれば、世界はどこにどう存在するのか?

 それはおそらく、「個別具体的」な生命が、つどつど、自分にとっての有意味な環境世界の表象を、「なにかのたぐい」として作り出し続ける所に、生じるのである。

 その「作り出し」は、シンボルを自由気ままに組み合わせるという作業ではなく、例えばわたしというひとりの生命がもつ多彩な「感覚」とその埋め込まれて生きる「環境」の接点で、緊張と不安と興奮が入り交じった流れのなかから自ずと浮かび上がるような、あるいはやむを得つ作らざるを得ないというたぐいの、しろものかもしれない。

 予め完成見本も、マニュアルも、コード表もないところで、遺伝子や言語といった「それ以外にない」がしかし実はとてもおぼつかない撃鉄を手がかりに、試行錯誤でたぐいを制作する。

 そこでたぐいは、好むと好まざるとにかかわらず、いつも「まれ」なものであるはずだ。


おわり 

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