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レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(3) 二即一一即二の論理が"構造"化する意味分節の体系

絶対無分節の自己分節の、分かれつつつながる動きの、その影を 
観察・記述を可能にする。
そのための分節システムである言語。

言語の線上に
自己分節する絶対無分節の影を
浮かび上がらせる。

それ自体”絶対無分節の自己分節”の影の一つである”言葉”の配列へ
それ自体は言葉をもたない無分節の分節を
置き換える。

このとき、第一の影と第二の影は互いに互いの影であり、そこでは一もニも、原因も結果も、始まりも終わりも無になる。

レヴィ=ストロース氏の『
神話論理I 生のものと火を通したもの』を精読する試みの第三回目です。

今回はレヴィ=ストロース氏の代名詞ともいえる「構造」が登場します。

1回目↓

2回目↓

生のもの、と、火を通したもの

蜜 と 灰

これらの「明確に定義できる経験的区別」を、何か何かの間の「」を、二即一にして一即二の関係にある二項の関係を”分節する動き”として読んでみようと言うのが、ここでの目論見である。すなわち、合理的な意味のある言葉という、互いにはっきりと切り分けられ輪郭を固定された語たちが一直線に並ぶ体系の中に、この体系自体を発生させ可能にしている”無分節の自己分節”の”区別なきまま区別しつつある動き”などと仮に呼びうる事柄が動く動きの影を浮かび上がらせるのである。

神話論理I 生のものと火を通したもの』の冒頭を読んでみよう。

生のものと火を通したもの新鮮なものと腐ったもの湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。」

『神話論理I 生のものと火を通したもの』 pp.5-6

この部分の精読は前の記事でおこなっているのでご参考にどうぞ
https://note.com/way_finding/n/nf3d0a2768c23

これに続けて、レヴィ=ストロース氏は次のように書く。

「この実験に期待しているのは、さまざまな感覚的なもの論理があること、そして感覚的なものの過程を跡づけ、感覚的なもの法則があるのを証明することだからである。」

『神話論理I 生のものと火を通したもの』 pp.5-6

感覚的なものたちが、並んだり、接近したり、離れたりする。
その運動のパターンに「論理」を、「法則」をみる。
この論理、法則というのが、いわゆるレヴィ=ストロース氏を有名にした「構造」ということでもある。

構造

構造という言葉だけ眺めていると、なにから固まって止まった、最小の構成要素を組み合わせて形作られた何かのように思えてくるが、レヴィ=ストロース氏の構造は固まっていると同時に動いており、止まっている姿を見せつつも動いている。もちろん動いていると同時に止まっている姿も表す。

構造はいつでもどこでも、私たちの日常の意識の表層に、その動いている姿を見せてくれるわけではない。構造が動いている姿を見せるのは、それこその中や神話が語られる時空くらいである。

普段の世界で構造が見せているのは、動いている姿よりも止まっている姿である。しかしそれは単に止まっているのではなく、動く可能性に満ちた緊張の状態にある。

二項対立関係

構造を織りなす最小の単位は二項の対立関係である。

○ / ○

構造をなす二項対立関係は、もともと別々に存在する出来合いの何かを後からふたつくっつけましたという関係ではない。

構造をなす二項対立関係は分けつつつなぐ・一を一のまま二にし二でありながら一のままにする動き「と」「/」の動き)が動いている限りで、仮に「付かず離れず」の対立関係としての姿を見せている。

「付かず離れず」の二項対立関係を分けつつつなぐ力の均衡状態が崩れると、この二項対立関係は一瞬にして「一」に収縮したり(付過ぎ)、あるいは遠く分離してもともとペアであったことをすっかり忘れてしまう(離れ過ぎ)。

二項対立関係を分けつつつなぐ力は、いつもいつもうまいぐあいにバランスをとって「付かず離れず」の均衡状態を維持できるわけではない

二項対立関係を分けつつつなぐ力が、ある二項対立関係の間に「付かず離れず」を実現できる場合できない場合があるが、この二つの場合の区別はランダムに生じるわけではなく、そこになんらかの法則・論理があるらしい。

これがレヴィ=ストロース氏が「この実験に期待している」ことである。

ある二項対立関係の間に「付かず離れず」を実現できる場合、それはどのようなパターンで行われているのか。これを「経験的」かつ「体系的」に探っていくために、レヴィ=ストロース氏は「神話」を分析するのである。

付かず離れず

神話は、何かと何かの二項対立関係の間に「付かず離れず」の関係が発生したり、消滅したりする過程を、これでもかと言語で記述していく営みである。

しかも”誂え向き”なことに、ある社会の神話を、隣の別の社会の神話と、さらにまたその隣の別の社会の神話と並べてることで、その複数の神話の間の二項対立の組み方の違いから、二項対立関係が変形・変奏される動きの動き方を復元することができるのである。

神話もまた言葉である。

「AはBで、BはCで、そうしてCはDになりました。」

神話もまた言葉である以上、上のような具合にA、B、C、D、あらゆる項をさもそれ自体として最初から一定に固まっているものであるかのように召喚してしまうし、その固まった項目たちの間に「である/でない」と固定的な関係を設定してしまう

この固定した外観を呈しつつも、同時にその直下の動きに戻るために、レヴィ=ストロース氏は特別な方法を用いる。即ち、複数の神話を比較するという方法である

あるひとつの神話から出発する。その神話はあるひとつの社会に伝わるものである。その神話を分析するには、まず民族誌にたより、それから同じ社会に伝わる他の神話の助けを借りる。調査の範囲を次第に広げてゆくために、近隣の社会の他の神話へと移っていく[…]少しづつさらに遠い社会へと移る[…]」

『神話論理I 生のものと火を通したもの』 p.6

パッチワーク状に接し合う異なる社会の異なる神話を並べて比べていく。
そうすることで、固まった項たちの固まった配列複数並べられていくことになる。そうするとそこに固まった項たちの配列のされ方の違いが浮かび上がってくることになる。

固まった項たちの固まった関係が複数あるとき、その違いを、ある神話が社会と社会の境界で被った変容・変奏の動きの痕跡として観察することができる。

この変容・変奏の痕跡を捉えるべく、レヴィ=ストロース氏はパッチワーク状に接し合った多数の社会の多数の神話の中から、あるひとつの神話、ボロロ族から記録された「コンゴウインコとその巣」という神話に注目する。そしてそれを仮に「基準神話」に設定する。

レヴィ=ストロース氏の大著の冒頭に置かれる神話となれば、なにか特別な、際立った、唯一の、本質的で根本的で、基礎的で根源的な神話なのではないかと期待したくなるが、すぐさま、まったくそんなことはないよという話になる。

「この神話(注:ボロロ「コンゴウインコとその巣」)がわたしの注意を引いたのは、たまたまであると言わざるを得ない。[…]事実、わたしが基準神話と名づけるこのボロロの神話は[…]同じ社会とか近くや遠くの社会に伝わるいくつかの神話を、ある程度変形したものにすぎない。当然ながらその神話のグループのどの神話をとってもよかったのである。」

『神話論理I 生のものと火を通したもの』 p.6

ボロロ族から記録されたあるひとつの「コンゴウインコとその巣」の語りは、たまたま基準神話として採用された。この神話の「中」に何か特別なものが隠れているわけでもなく、この神話を特別なものにする外部の解釈格子が別にどこかに設置されているわけでもない。

人間は、その線形のロゴスの言語でもって思考している限り、一度に一つのことに集中せざるを得ないので、何処かから初めて、ひとつの軌跡を描きながら、どこかへと向かうしかないのである。しかしその軌跡が一次元の一直線ではなく、複雑にうねり、曲がり、分岐を繰り返し始めるようになると、いずれその先に線形のロゴスの論理ではない別の言語(多義的で、両義的で、ロゴス的には矛盾する、一字が千義の)記述、言葉、語りの可能性が見えてくるのである。それはいわば、線が走り回った痕跡のパターンとして、ロゴスの論理に影を投げかけるだろう。

これについてレヴィ=ストロース氏が書いているところをじっくり読んでみよう。

「導き手となる図式は、単純化したり、ふくらんだり、変形したりする。ひとつひとつの図式から新たないくつかのが出てゆく。それらの軸は、先に述べる軸となんらかの面に関して垂直である。軸には[…]さらに遠い住民に伝わる神話とか[…]一度は無視した神話から抽出したシークエンスが連なってゆく。しだいに混沌としたものが広がり、その核が凝縮し、かたちが整っていく。散らばっていた繊維が結びつき、欠落が満たされ、関連が成立し、混沌の背後から、なにか秩序のようなものがうっすらと見えてくる。[…]その中心部は構造を示しているが、周辺部は不確定や混乱が支配している。」

『神話論理I 生のものと火を通したもの』 pp.7-8

構造ということについてのレヴィ=ストロース氏自身による解説として、この一節は至上のもののひとつではないかと思う。

構造は動いている。
構造が動いているとかいないとかを言葉で言えるようになるのは、なんらかの二項対立関係の対立関係(上の引用の冒頭で図式と呼ばれているものである)を、項と項の対立と置き換えの関係を、ロゴスのことばでもって一直線に記述していくからこそである。対立関係の対立関係を、項と項の対立と置き換えの関係を言葉で記述しているうちに、いつしか一直線では記述できないところが出てくる。Aが同時に非Aでもある、Aでもなく非Aでもない何か、といった話である。こういうAでもなく非Aでもない何かが、別のなにかBでもなく非Bでもない何かの対立関係と対立していくとき、上の引用で「面に関して垂直」と書かれているように、複数の記述の線が分岐していくことになる。この分岐が無数に増殖していくところで、ある部分に「秩序のようなもの(構造として線形の言語でも記述できるもの)」が凝集し、またその周囲には構造に対して相対的に混沌とした領域が広がる。

動いているとも言い切れず、止まっているとも言い切れない。
混沌とも言い切れず、秩序とも言い切れない。
静と動、混沌と秩序、といった二項対立関係のどちらか片方の項に還元することができないのが「神話の論理」が示す「構造」である。

「わたしは、分析がバラバラにした神話の素材が結晶して、どこから見ても安定し確定した構造というイメージを呈することを期待してはいない。神話の学は口を利きはじめたばかりであり、結果の下書きでも手に入れば満足すべきなのであるが、最終段階に達することがありえないことも、わたしはすでにわかっている。」

『神話論理I 生のものと火を通したもの』 p.8

ところで、ある項をさもそれ自体として最初から一定に固まっているものであるかのように召喚してしまうこと、そしてその固まった項たちの間に「である/でない」と固定的な関係を設定してしまうことは、空海の『秘密曼荼羅十住心論』でいえば、第一住心「異生羝羊心」という心のあり方がとらえる世界の姿に重なる。

第一住心「異生羝羊心」は「我分」を固定的に分別しつづけることに執着し、それが叶わないことに苦しむ心のあり方である。

あらゆる物事は、二項対立関係として分節されつつある二項のうちのどちらか一方であり、この二項対立関係が分節される動きのことを忘れて、項そのものがそれ自体としてあらかじめあるかのように扱うことが「執着」である。

ここで、執着する心が固めてしまった項たちとは、じつは分けつつつなぐ・一を一のまま二にし二でありながら一のままにする動き「と」「/」の動き)が仮に均衡した「付かず離れず」の二項対立関係の中のものなのだと知ることができたなら、その知恵は「異生羝羊心」が生み出してしまう苦しみから、一歩離れ始めることもできる。

◇ ◇

『神話論理』は、まず基準神話を分析することで、いくつかの二項対立関係の対立関係を抽出する。そして、そこからの「変奏」を、付かず離れずの二項対立関係の組み方のパターンの変容と分岐の痕跡を、丁寧に拾い集める旅が始まる。

『神話論理』は難しいと言われるが、ひとつの読み方の可能性として、二即一一即二の論理を念頭において読めば、動きつつ止まり止まりつつ動く神話の意味を分節する項たちの関係の構造をありありと観ることができるようになる。

ちなみに、今回読んだのは、「序曲」のはじめである。
まだ本題に入ってもいないのであるが、じつはこの本には始まりも終わりもないとレヴィ=ストロース氏がどこかで書いていたことを思い出す。

『神話論理I 生のものと火を通したもの』 目次より

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つづき(第4回)はこちら↓




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