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高輪ゲートウェイ その2 ー隣接する二つの区画が異る地層を形成する

 山手線の品川新駅、名前が「高輪ゲートウェイ駅」に決まったという話である。

 あのあたりは、学生時代に何年も通い、ウロウロ歩き回っていた場所で、個人的にはちょっとした親しみを感じている。

旧東海道品川宿

 特に気に入っていたのは、品川駅を西口に降りて、ゲートウェイとは逆の南に向かい、八ツ山橋から旧東海道沿いに歩いた、北品川から新馬場あたり。

 寺社や商店の看板、そして道幅やそのかすかなカーブの具合から浮かびあがる、旧品川宿のかすかな面影。そして明治の近代化による埋め立てと工業地帯化が刻みつけた痕跡と、そして空襲もあったのだろうか。その後に壊され、また上書きされ続けた「全て」が重なり合い、隣り合い、とにかくぎっしり詰まっている。

 旧東海道を自転車や軽自動車に轢かれそうになりながら歩く。両側に軒がぴったり連なり、そのすぐ海側の広い区画がならぶ工場地帯の方へ抜けようとしても、なかなか路地がない。結局、大通りに突き当たって、ようやく左に曲がれる。そう。ここが「東海道」だった頃、海側の家々の向こうは、海だったのである。

 その海がいまや埋め立てられ、広大な陸地になっている。そこは近代以降の生産と物流、移動のための地平である。そこから海を見ることはできないが、しかし日によって、潮の香りがほのかに漂ってくることもあった。

江戸の東京化=近代化と、工業のための地平

 旧宿場の周辺の陸地平面はおもしろいほどパッチワーク状に「区別する線」が走っている

 段丘の上に下に、東海道の奥に広がる寺社仏閣や墓地のあたりは、それこそ江戸時代以来の佇まいをほとんどそのまま残しているはずだ。
 そして、それらを押しのけるように、広大な土地を占めて緩やかなカーブを描き、京浜急行を高架に持ち上げてしまった道路。そこに充満し肺から身体に染み込んでくる先鋭な排気ガスの塊は、とにかく人も建物も、輸送インフラそのものさえも、生産のための輸送の障害として取り除かんばかりである。そこにば圧倒的な産業国土化の意志がみなぎっていたが、しかし少々疲労しているように見えた。

 そして少し高いところに上がると、品川駅東口の再開発地区や、天王洲や、品川シーサイドにできた超高層ビルがパノラマのすべてを満たすようにならぶ。上空には羽田に降りようとする旅客機が行列をつくっているのがみえる。

異る速度で層を重ねる

 いくつもの土地の区画。

 様々な時代に引かれたいくつもの道路や線路で区切られたそれぞれの区画ひとつひとつが、見えない時間の層の上に浮かんでいるようだ。

 区画によって、どれだけ新しい層を積み上げたか、その積み重ねられた階層の高さに違いがある。江戸時代そのものの区画。海から埋め立てられた更地へ、工場へ、焼け跡へ、そしてまた工場へ、現代的な工場へ、そうしてまた更地になり、カタカナの名前を与えられた高層ビルへと幾重にも上書きされた区画

 そこにはいくつもの時間と、いくつもの空間が、重なり合ったり、横並びに隣接し、ひしめきあっている。隣接する二つの区画に、まったくことなる地層が形成されているかのようだ

 私が通っていた学校もまさにそうした段丘を下った先、海を埋め立てた平地に作られたものだった。夜遅くまで白色蛍光灯一本の研究室にひとりで残っていたりすると、ふと奇妙な想像が浮かんでくる。

 眠っている間に土砂をかけられ、そのまま土地の一部になった浅い海の底の生き物たち。その少しづつ加わる圧にほとんど気づかないであろううちに埋めら得れてしまった「層」たちの気配。それがじわじわと床の下から立ち上ってくるようなざわめきを覚えたものである。

 そう、下に埋まった層には、ものというより、生き物という感じがする。

品川駅旧東口

 次に気に入っていたのは、品川駅旧東口である。

 私が学生で品川駅を利用していた頃、品川駅の東口といえば、松本清張の本に出てきそうなトンネルを少し直したような佇まいだった。

 操車場に続く何本もの線路の下を、延々とつづく、細く、長く、天上が適度に低い、羊羹の空き箱のような形。

 中には東京湾のオモクルシイ潮の匂い混じりの空気が、どんよりと何年もそこにとどまっているような具合で、ぎっしり詰まっている。空気もまた層を成して重なり合っている。仮に現在なら、むしろ逆にインスタ映えしたであろうその地下空間は、低周波のブーンという音を響かせる照明によって、そこが地表が地下に浸透した空気の物質的な層であることを訴え続けていた。

 明治以降の急速な工業化は、機械だけでなく、その巨大な仕掛けの上や下でひとりひとりの人間が手足を動かしたからこそ達成されたものである。トンネルはそういう「人」を、ひとりひとり個別の、言葉を求め、意味を求め、生きようとした人たちを、機械へと運ぶ。

 あれほど頻繁に通過したのに、ついに一枚の写真も撮らなかった。いまとなってはもう一度訪れたいが決して訪れることができない場所になってしまった。
 そう思って検索をしてみると、youtubeで強烈に懐かしい映像に出会ってしまった。わたしがこのあたりをうろつくようになる数年前の映像だ。撮影した方、インターネット上に公開してくださった方に感謝である。

 品川駅に新幹線駅ができた頃、東口は、想像を絶するほどの激変を遂げた。改めてなめらかな平面に均し直されたところへ、粘度の高い塗料を流しかけるようにして、未来的な記号そのものであるような建物が並ぶ。なめらかな平面で、安定した意味の体系を再生産しつづけるように記号と記号が対立関係をつくり、その対立関係同士を重ねる運動が、同じパターンを反復していく。

 この区画は、工業の時代に特化した機械設置用の平面から、情報の時代に特化した記号を滑らせるための平面へと、作り変えられたようだ

田町電車区 

 ゲートウェイ駅が建設されている旧田町電車区の区画。ここもまた「生産現場に向かう人を大量に輸送する」という目的をもって作られた「電車」というシステムを動かし続け、維持し、再生産し続けるための工場であった。

 そして工場ができる前、ここは束の間、草が生い茂る埋め立てられた平地であり、そしてその前は、海だった。

 海から工業のために道具化された平地へ。そして工業のための平地から、そこに記号が並べられ、記号同士がその差異を競い合うための平面へ。そこでは建築物も、その「名」も、そこを行き交う「私」の服装や振る舞い、そして頭の中から繰り出す言葉まで、すべてが記号である

記号を並べる構造

 記号は、他の記号と区別され、その区別を保ったまま、また別の区別と重なり合うことで、意味を織りなす。
 そしてこの区別と重ね合わせ方をいつもいつまでも同じように反復することで、安定したコードという外観を呈する。

 都市は、郊外も含めて、いくつもの「時間」が重層的に積み上げられた痕跡である。

 そのひとつひとつの層、互いに浸透しあって境界が不明瞭な連続したいくつもの層は、それぞれのコードにさらされ、コードがその表面をなぞった残りでもある。

 いま駅となるあの「区画」は、いままでもこれからも、上書きされていく。しばらく後に開業するこの駅が、月日を重ねて次に建て替えられる時。そこに作られるのは、透明な記号のなめらかな交換を許す単一のコードを脈動させるアーキテクチャなのか

 それとも、「ひとつの区画」自体をいくつものサブ区画へと差異化し続けたりその無限小のサブ区画自体を多次元化したり、区画と層の「境界」を取り消すように同時に複数の堆積層にアクセス可能な高次元表面=インターフェースにしたりする、つまり無数の異る人間たちの間に瞬間瞬間新しく現象する、複数の両義的で不気味な「他者」の場所になるのだろうか。

 これはもうひとつの駅の問題でも、その名前の問題でも、東京という都市の問題でもなく、人類史が産業革命の「次」を紐解けるかどうかに関わる問題である。あるいはその人類史が謎を解いていくひとつの仮の途中計算が、この駅の名であると考えるのはどうか。

 いずれにしてもゲートには二種類の姿がある。

 ノイズとして排除するべき他者を単一のコードで識別し続けるゲート

 そして、謎であり不安でしかない他者をわざわざ招き入れ内部を外部に接続し、内部自体を異化することをおもしろがるゲート

 件のゲートはどちらか。そしてこのゲートをアップデートする、次の世代のゲートはどちらか。

 

つづく

※これは「高輪ゲートウェイ」に触発されて連載しているコラムです。
その第一回はこちら。


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