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読書メモ:『ソウル・ハンターズ−シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』

 レーン・ウィラースレフ著、奥野克巳氏らの翻訳による『ソウル・ハンターズ』を読む。

 まずのっけから軽快なのは、狩猟を生業とする人々のものの見方を論じ始める前に、それを論じようとしている人類学者の側のものの見方をゆさぶってみせるところである。

 問に付されるのは、近代以来の西洋の科学の一分野である人類学が大前提としてその思考に持ち込みがちな「デカルト主義的」な精神と肉体完全な区別である。

 狩猟を生業とする人々は「自分は狩猟対象の動物と同じだ」と語ったり、「狩猟対象の動物は人間(人格)だ」と語ったりする。

 科学者はこうした物言いを取り上げて、「狩猟民たちは動物を人間に“例えて”いる。あるいは人間を動物に“例えて”いる」と説明してきたという。


この「例え」という考え方は、次のような前提を暗黙のうちに引っ張り込んでしまう。
 まず、精神と肉体、あるいは精神と「誰にとっても同じ物理的な現実の世界」は予め完全に区別されている、という暗黙の了解。
 そして、「例え」ることは「精神」の内部で生じる純粋に精神的な過程であり、物理的な現実とは全く関係がない、という暗黙の了解。

 この暗黙の了解に基づいて考えると、「動物は人間である」という土着の人々の発言は、リアルな物理的な世界とは無関係に人間の精神内部に生じた何かであり、科学的な知識を持たない人たちの思いつき、「妄想」である…。という具合になる。そうして「そもそも、客観的にみて、獣が人間であるわけないではないか!」という具合になる。

 しかし、当の狩猟を生業にする人々はそういうたとえ話をしているつもりはなく、妄想に陥っているわけでもない。彼らには、狩猟対象動物と対峙する瞬間において、動物が人間(人格)としてリアルに、客観的に、現象学でいうところの「常にすでに」立ち現れている

外部と無関係な、精神の構築物?

 動物を人間と同じように人格をもつものとして扱う思考。これを「精神」による隠喩として理解する立場では、「人間としての動物」というものは、あくまでも人間の精神の構築物、精神が作り出した幻想であり、人間のもの、人間たちの社会の言語のものということになる。
 そうして、リアルに物質的な動物はあくまでも人間(の精神)とは別のものでしかないという、人間と動物の区別を大前提にしたままになる。

 人間と動物の対立はそのまま残した上で、人間の側の精神の中に人格をもったものとして想像された、空想上の登場人物としての「動物」が作られる。
 『ソウル・ハンターズ』では、この「隠喩として理解する」というやり方が手付かずで保存してきた「人間」と「自然」の区別という大前提が問に付される

デカルト的二元論/精神と物質世界の区別は予め存在するのか、それとも誰かが産出するのか

 人間と自然の決定的な二分法、隔絶された対立を大前提とするのは、西欧のデカルト主義に基礎を置く科学の考え方である。それは精神と世界を決定的に区別され交わることのないふたつのものと考える。そこでは精神は決して世界そのものを直接知ることはできない。精神はその中に「世界の隠喩」を作り出し、それを知るよりほかない、ということになる。

 このデカルト主義の二分法に基づくやり方が客観的な唯一の「正しい」理解の仕方であるとは言えないというのが本書の主張の前提にある。

 獲物である動物を人間「そのもの」として理解する狩猟民のやり方、すなわち対立関係にある二項のどちらでもありどちらでもないような両義的な存在を認識する狩猟民のやり方は「間違ったもの」であるとは言えない。
 むしろそこには、精神と物質の区別に先立つ、あらゆる「区別」を生み出す動きの秘技が顔を出している。

もとからあるものではなく

 区別される2つのものは、精神と物質世界の区別も含めて、予め区別されてある2つの存在ではない。それは、一方を他方ではないものとして互いに区切りだす「動き」が残した束の間の痕跡である。

 本書が最初に疑うのは、「世界は単一のものとして存在している。それに対して人間の精神の側は勝手気ままにいろいろな解釈をするのだ。(その解釈の仕方には西洋の科学が行うような、統一された観測の道具と誰もが同じ意味で用いる言葉によって生産される客観的なものもあれば、土着のひとの思いつきのような、ざっくりいえば「わかっていない」妄想のようなものもある)」という発想である。

 人は、ひとりひとりの「私」たちは、「誰にとっても同じ唯一の世界」を、それそれの精神で好き勝手に表象しているのではない「誰にとっても同じ唯一の世界」という想定は、精神と物質世界を厳格に二分したところで、区切りされれる片方である。ところが、この「精神と物質世界を区別する」操作自体が、先に動いているのである。

意味は人々と世界との直接的で知覚的な関わりの中で生じる関係的文脈に内在しており、それゆえ、心的表象もしくは認知はもとからあるものではなく、没入する活動の実践的な背景に由来するということは可能であろうか。P.42

 区別をする動きは、生命システムの動きとして説明されることもある。

 生命システム、特にその神経系、脳のシステムをデカルト的二元論、精神と物質世界の断絶を大前提で扱おうとすると、これらもまた物質の一つということになる。それは身体の他の部分と、他の動物とさえ同じ素材でできた物質である。物質でしかない脳は精神とはまったく関係がないはずである。と。

 これに対して、生命システムに先立って即自的に存在すると前提できる区別はない(精神と物質世界の区別を含めて)、とする考え方がある。

 区別、あらゆる区別は、所与のものではなく、区別する「動き」によってつかの間、産出される。この区別する動きの主体を、生命システムと呼んだりするわけだが、それは精神と予め区別される物質世界の中のひとつのモノではなく、あらゆる予め区切られた者たちの前で進行する区別の操作である。

 狩猟を生業とする人たちが動物と人間の間を、区別しつつ、時に行ったり来たりし、同時に両方であったりすること。その現場に立ち会うことは、人間というシステムが、この原初の区別の動きをしているところに入り込むことである。

 区別は、予め存在するものではなく、区別する動きの後に生じる。

 この観点が提供してくれる認識の生産力は、科学的アプローチの肝になる。人類学者に限らず、「人がやっていること」の偉大さや愚かさを言葉にしてみたいという人には、ぜひ読んでもらいたい一冊である。

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