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記述することが、対象をそれとして生み出し、可視化する ー読書メモ:内田隆三著『柳田国男と事件の記録』

 内田隆三氏の『国土論』を読み直している。恩師にそのことを伝えたところ、内田隆三氏といえば、『柳田国男と事件の記録』は必読であると教えていただいた。そういうわけで早速Amazon経由で入手を試みた。

この本は、柳田国男がその著書『山の人生』の冒頭「山に埋もれたる人生あること」で行ったある事件についての「記述」を、その記述するということが、いかなることであるのかを問う。

 「山に埋もれたる人生あること」。この一節を含む『山の人生』は青空文庫にも収録されているし、国会図書館デジタルコレクションでも見ることができる(注:リンク先国会図書館の本は、肝心の山に埋もれたるの最初のページが上半分破れてなくなっている)。せっかくなので青空文庫から引用させていただく。

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。
 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里(さと)へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(と)いでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむけ)に寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。
 この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持(ながもち)の底で蝕むしばみ朽ちつつあるであろう。(https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html)

 これが、柳田国男による、ある事件の記録である。あるいはある事件の記録についての記述、である。

記述することが、対象をそれとして生み出し、可視化する

 記述するということ。何かを言葉として書き記すということ。それは素朴には、予めそれ自体として存在するモノを、これまた予め確たる意味を備えた完成品の記号によって代理させること、というように考えられがちである。

 しかし問われるべきは、この「予めそれ自体として存在するモノ」のでき方である。内田氏は、記述すること、その行為こそが、対象をそれとして生み出し、可視化する、と指摘する。

 対象と、それを記述する行為。対象が先にあって、それにぴったり適合した言葉が辞書的なものの中から選ばれてくるのではない。

 記述する行為によって、それまで存在しなかった対象がそれとして生み出される。そうして、はじめて私たちある言語の話者にとって「見える」ものになる。

 さらに注意したいのは、「記述」のための透明な道具のように思える「記号」の方もまた、予め何を記述するためにどれをどう用いるべきかが決定しつくされた完成品ではないということである。

 記号は「誰にとっても同じ意味」を予め隠し持っているわけではない。

 内田氏は続ける。記述するその「文体」にはいくつもの形態がありうる。記述の文体が異なれば、そこで生み出される対象、可視化される対象もまた異なる、ということになる。

 『柳田国男と事件の記録』では、冒頭に引用した柳田の文章のなかで言及されている事件について、それを記述するいくつかの「文体」が集められ、比較される。物語、昔話、伝説、そして柳田の文体、客観的事実を記述したと称する文体。そして内田氏は次のように記す。

遠い過去のことについては、その客観的事実は誰にもわからない。…遠い過去のことについて、書かれた記録や口伝が、それ自体の文体を通じて、ある、そしていくつもの「像」を受け手に喚起する

 遠い過去に限らず、目の前で展開している現実のようなことであっても、事情は同じである。

 目の前で物的に事実が展開している。例えば目の前で自動車が私の隣の電柱に突っ込んだとしよう。そして「私」はそれを「見る」し、「言葉にする」。貴重な目撃者として警察に話を聞かれたなら、目の当たりにしたことを詳細に語ることもできる。

 しかしその語りは、言葉である以上、必ずなんらかの「文体」に基づいているわけである。客観的な事実を認識しながら、それを言葉に置き換える段階で脚色や嘘が混入するということではない。

 その文体は語り以前の目撃の瞬間に、そこで何を見るべきか、何が背景で、何が焦点を合わせるべき対象なのかを瞬時に無意識的に判別させる。私はすでに、言語のように構造化された無意識の形態としての前-文体的ななにかによって、目覚めさせられ、自分が明晰であると信じるところの明晰さという曇った偏光フィルターを眼球の奥につなぎこまれるのである。

 あるひとつの「可視化する」方法が用いられており、その方法は私が常日頃親しんでいる「文体」、私にとっての世界をそれとして可視化している文体とつながっている。内田氏は次のように書く。

可視性の場が、じっさいにどのように分節され、どのような文体によって記述されるのか p14

 可視性の場を「分節する」方法、見るべきものと見なくてもよいものを区別し、図と地を区別し、背景とハイライトすべき対象を区別する、「分節」の操作。それは「文体」とひとつに繋がっている。

柳田国男の「文体」

 では、柳田国男の文体とは、どういった事柄であるのだろうか。

 文体の話に進む前に、柳田の「常民」の概念を参照しておく必要がある。 

おそらく柳田は、資料が伝える事実の断片をそのまま単純に、事実として、あるいはすくなくとも事件として認知しているわけではないのだ。それらの事実がもし繰り返し反復されるものならば、それは「常民」という主体の相関項であり、その主体によって生きられたものといえよう。諸個人の死を超えてなお存続し、継起する、この匿名の主体は、長い時間の奥行きを自分の存在のなかに繰り込んで生きている。p38

 常民と呼ばれる「主体」との「相関項」として、「繰り返し反復」されるなにかが「事実として」可視化されるようになる。事実、と、事実として可視化されるもの、この二つを混同してはいけない。

 更に内田氏は続ける。

(常民は)先験的な実体ではなく、むしろ物深い、「幽かな」実定性を帯びた像に過ぎない。こに像の幽かな実定性は個々の死が飛越され、横断されるたびにその強度を増していく

 柳田の民俗学の構想の鍵である「常民」の概念もまた、ある「記述による像」にほかならない。

 山に埋もれたる…を記述する柳田の文体は、この常民の概念とともにある。この常民の概念の一番「底」のところ、そこから流れ落ちる人間の存在を可視化するのが、この文体である。この常民の底から流れ落ちる人間の存在。それを内田氏は「人間の自然」と呼ぶ。

柳田の文体が可視化するものは「人間の自然」、その偶然性と両義性

 内田氏は論じる。

 日常、常民として生きる人は「習俗にくるまれることによって、個人は自然という外部性にじかにふれなくてもよい」ようになっている。
 しかしその「習俗からはみ出してしまう人間の存在のありよう」もまたある。この「習俗の底がひらく」場所(自然の風光)と、時間(のある区切られた持続)が柳田にとっての問題となる。

 そこで人間の存在は、その主体性によってコントロールできる代物ではなくなり、むしろ自然の一部のように、個人の主体的な意識などお構いなしに、偶然に押し流されていく。そしてそこでは、主体的な意識によって分節され、区別される諸々の対立関係がひとつに重なり合う。善行と悪行もまた両義的な「ひとつの」事件として可視化される事柄となる。 

 柳田国男は、明治の大問題のひとつであった「記述される対象としての「日本」とその同一性」をどう作り出すかということに応え、常民ということを考え出した。常民は「持続する習俗」の上、その担い手として「構築」されようとした。このあたりの話は別途こちらのnoteに書いている。

 その柳田にとって、件の「事件」は、この「習俗」の「底を開き」、人間をその自然状態(「人間の自然」)にする。そこでなお人間は、生きそして死ぬ。あるいは生かされ殺される。その両義性、そして「主体性」を溶かしてしまう「偶然」とを、柳田の文体は可視化しようとしたのであるというのが、内田氏の論じるところである

おわりに

 例えば「日本人」でもよいし「人間一般」でもよいが、そうした事柄を「対象」として「記述する」操作こそがその対象を生み出す。
 そして記述の操作は同時に、その対象の外部、その対象と対立する非‐対象をもまた同時に区切りだす。ここに人間と非人間の対立が区別される。

 ところがこの人間と非人間の区別はまた、人間と非人間の底、あるいは手前で、人間が非人間であり、非人間が人間であるという両義性を言葉にすることも可能にする

 この両義性を可視化する「文体」。それこそ言葉の、言葉による認識の真骨頂なのかもしれない

関連note

 最後に、この『柳田国男と事件の記録』を読むきっかけとなった『国土論』の方もご紹介しておく。


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