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支配者が居らずとも球技大会があればー読書メモ:スティーブン・ミズン著『渇きの考古学』

 令和元年の東京の夏。連日暑い日が続き、喉が渇く。

 我々人類は毎日水を飲む。丸一日水を飲まないだけでも、私達の体調は大きなダメージを受ける。

 日本の都市に暮らしていると、水道の蛇口をひねれば安全に飲める水が「湯水のごとく」流れ出す。この恵まれた環境は長い人類の歴史から見れば驚異的なものといえる。

生きるための水

 人類は太古から水を飲み続けてきた。
 特に、定住農耕牧畜を行うようになると、自分が飲む以上の大量の水を、同じ土地で、継続的に確保する必要が生じた。狩猟採集民ならばひとつの水場がダメになっても他の水場へ移動するという手がある。しかし定住農耕民では畑を担いで移動するわけにはいかない。

 スティーブン・ミズンの『渇きの考古学』は、我々人類の祖先が定住し、農耕を始める前後の話からはじめて、シュメール、ギリシア、ローマ、中国、カンボジアのアンコール、現米国アリゾナ州はフェニックスの「ホホカム」、マヤ、インカと、ざまざまな土地で生まれた文明やその萌芽が、いかにして水を確保しようとしたか、現在に残る痕跡からその姿を復元しようという試みである。

 ミズンといえば『心の先史時代』や、『氷河期以後(上下巻)』といったあたりも面白いのであるが、この『渇きの考古学』も、ミズンらしい一冊である。


 ちなみに『氷河期以後』については、以前にこちらのnoteを書いたことがある。

ホホカムの球技場

 さて、『渇きの考古学』で特に考えさせられるところは、第9章「あとわずかで文明にーアメリカ南西部ホホカムの灌漑」である。 

 ホホカム人というのは、現在の米国アリゾナ州フェニックスのあたりで、2000年ほど前から14世紀ごろにかけて、千年以上かけて少しづつ灌漑システムを構築、拡大し、農耕を営んだ人々である。

 アリゾナ州というのはご覧の通り砂漠である。砂漠に水を引いて農耕を営むなど、現在でも膨大なエネルギーを要することを1000年以上前のアメリカ先住民の祖先たちは、世代を超えて、営々と営んでいたのである。

 ミズンの議論で面白いところは、この砂漠の灌漑システムの構築が、少数の支配者、指導者によって、組織され実行されたものではないらしい、という説である。

 紀元後しばらくして灌漑水路の構築をはじめたときも、ホホカムには、例えば巨大な墓や、他の人々と隔絶した豪華な副葬品など、絶大な権力をもった指導者の存在をにおわせるような遺物がないという。

 では、強大な指導者や支配者、官僚機構なしに、大規模な灌漑システムを構築し、維持し、繰り返される洪水のつど再建するなどということを、世代を超えて、数百年も続けることが可能なのだろうか?

 ミズンは次のように書く。

「たとえ全体を指揮する者がいなくても、そこにはコミュニティ同士、コミュニティ内の家族同士の間で、運河システムの計画、建設、維持について、幅広い協力があったにちがいない。」(p.317)

 この協力を実現する鍵としてミズンが注目するのは、考古学者が「球技場」と呼ぶ長さ30メートル、幅15メートルの楕円形の窪みである。ホホカムの集落にはこの手の球技場が残されている。

 しかしなぜ、この窪みで球技が行われたとわかるのだろうか。ミズンによればそれは、岩絵や陶器の人形に球技に興じる人々の姿が表現されているからである。

人々が集まり、「交換」に興じる

 この球技場で行われる球技大会(?)や、その他の集まりが、指導者支配者抜きで人々の協力関係を作り出し、「灌漑コミュニティ」を結びつけたというのである。

 球技場とともに、ホホカムの遺跡には、遠方との交易によって得られた貴重な品物が発見されている。メキシコで作られた銅製品に、オウムやコンゴウインコの骨、黒曜石。こうした貴重なしなものはホホカムのコミュニティ間で交換され、協力関係構築のための贈り物となったと考えられる。

 球技大会というのは外観で、それが象徴するのは「交換」である。ボールはあちらからこちらへ、こちらからあちらへ、異なる集団の間を移動し仲介する。さらには貴重な物資が贈り物として交換される。そして言葉を介して、運河を作り維持するという協力して取り組むべき課題を共有し、それを実行するための技術的な知識を交換する。

 他所の集落のよく知らない連中、潜在的に「敵」である可能性のある相手であっても、同じゲームに興じることで「次の運河工事のときには一緒に協力してもいいかな」と思えるパートナーになる。

 ひとりひとり異なる多数の個人を、ひとりひとり、運河コミュニティのメンバーへと「変換」する上で、球技大会というのはよくできたアイディアかもしれない。

交換の終わりと、灌漑コミュニティの終わり

 ところが、西暦1200年ごろに、ある変化が生じた。

 球技場が使われなくなり、交易の範囲が狭まった
 入れ替わるように、現在でもその遺跡が残る巨大な建築物が建設されたのである。

 ミズンはこの変化を、灌漑システムを統一的に管理しようとする支配者による権力の掌握と軌を一にしたものではないかと考える。

 その後、ホホカムの灌漑農耕文化が永遠に失われる事件が生じた。

 きっかけは14世紀に繰り返された大洪水と干ばつである。繰り返された大洪水のあと、人々は灌漑システムを修復することなく、放棄したのである。

 それにしても奇妙なのは次の点である。

 大洪水で流されるということであれば、それ以前にも度々発生していた事件である。ホホカムの祖先たちは何百年にもわたり、洪水に見舞われる都度、灌漑システムを再建し続けたのである

 それが14世紀の子孫たちにおいては、なぜか突然、再建への意欲を失ってしまったようなのである。

 その理由とは? ミズンは次のように書く、

「それではなぜホホカム人は、これまで七九八年から八〇二年の洪水や、八九九年の洪水のあとにしたように、再スタートを切ることができなかったのだろう? 理由として一つ挙げられるのは、もし新しいリーダーたちが、支配する権限を神から付与されたと主張するのなら、彼らが干ばつと洪水を防ぐことができなかった時点で、その権限もまた洗い流されてしまったからだ。その後に残ったものは、システムの計画や管理をする指導者を失ったホホカムの人々だっただろう。ホホカム人たちの周囲には、もはや以前、必要な計画を社会的活動へ移行させることのできた球技場のシステムや、交易のネットワークはなかったのである。」(p.328)

 家族同士の、集落同士の、いわば「横」の繋がりによって生まれ、維持されてきた灌漑システム。灌漑システム自体は土木的な「ハードウエア」ではあるが、それを維持管理し使える状態にしておくためには、たくさんの人々が合意と目的意識をもって建設工事や維持作業に参加するようになるためのいわば「ソフトウエア」が必要である。

 ここでソフトウエアと呼んだのは、灌漑システムを構築維持するための技術的な知識であり、さらには一人一人の住民が、灌漑システムを「自分(たち)のもの」だと理解すること、そして灌漑システムを掘削するという面倒な仕事を「自分自身のミッション」として引き受けることができるようにするための動機づけであり、理由付けである。

 ホホカムの場合、そういうソフトウエア的なものを、常に「最新の状態に保ち」、新しく加わったメンバーたちに伝承し続ける方法として、第一に「横のつながり」の合意形成&協力システムがあり、第二に「上から下へ」の命令システムがあった。

 問題は、第二の「上から下へ」の命令システムを維持するために、支配者の権威が必要不可欠だったということである。支配される側、命令される側の人々が、支配者の言うことはもっともだ、言う通りに従おう、と思い続けてくれない限り、権威は維持できない。

 おそらく、神の代理のようなものであると称することで、その権威を誇示していたであろう支配者達。大洪水は、支配者達が実は神と交渉する力をもっていないことを、わかりやすく暴露してしまったのである。

 そして上から下への命令システムが機能しなくなったとき、間髪入れずに旧来の「横のつながり」の協力システムが復活する、ということは無かった。そこにはもう、横のつながりを具現化するために必要な仕掛け、球技場であり、交易のネットワークが、残されていなかったのである


 個々人が自らを奮い立たせ「動機づけ」するために、利用可能な「理由」のレパートリーのようなもの。それを、どこの誰から贈与され、そして更新し続けることができるのか。

 これは現代の情報ネットワークとコミュニケーション・メディアの話にも通じるものである。

おわり



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