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言語、生命、境界−読書メモ:中沢新一『精霊の王』×井筒俊彦『神秘哲学』

 以前書いた、中沢新一氏の『精霊の王』の読書メモnoteを、nurico様の記事でご紹介頂いた(ありがとうございます)。

 「侍従成道卿と言えば、比類のない蹴鞠の名人と讃えられ…」

 この一節から始まる『精霊の王』は、数ある本の中でも私が特に気に行っている一冊である。今回、nurico様に取り上げて頂いたことをきっかけに、改めて手にとって見る。すると、もう何度読んだかわからないこの本から、また、はたと、新しい気づきを与えられた。

 最近ちょうど井筒俊彦先生の『神秘哲学』を読んでいるのであるが、『精霊の王』が鮮やかに描き出す「精霊の霊妙な働き」は、井筒先生が論じる「自然神秘主義的体験」に即してさらに深く理解できるのではないか、という気づきを得た。

 ちなみに、中沢新一氏は井筒先生の研究に深く通じているということで、私の創造的な「気づき」も、始めから用意されていた途に誘い込まれたという筋であろうか。

人間と対立する自然、人間を含む自然

 井筒先生は次のように記す。

「自然神秘主義的体験とは、有限相対な存在者としての人間の体験ではなくて、無限絶対な存在者としての「自然」の体験を意味する。人間が自然を体験するのではなく自然が体験するのである。自然が主体なのである。」(「神秘哲学」『全集』第二巻 p.30)

 この一節も、井筒先生の文章の魅力にあふれている。  

 人間 対 自然主体 対 受け身の対象内部 対 外部

 素朴に、常識的に想定してしまう対立関係の中に絡め取られた状態からひとつの言葉を引き剥がし、別の階層(この場合は究極的な動と静、とでも言おうか)の対立関係の中に「写し」込むところが、井筒先生であると、一読者として思う。

(自然は)宇宙万有に躍動しつつある絶対生命を直ちに「我」そのものの内的生命として自覚する超越的生命の主体、宇宙的自覚の超越的主体としての自然を意味する。(「神秘哲学」『全集』第二巻 pp.30-31)

  こうした「主体としての自然」を、人が、人でありながら「体験」する。

 主体と客体、内部と外部、自己と他者の区別以前、区別の深層で、自分が自然であり自然が自分であるという体験を得ること。

 紀元前のギリシアにおいて、そのような体験へと人々を、哲学者たちを誘ったもの。それが「ディオニュソスの宗教」の到来(あるいは復活?)である。それについては数日前の夜中にこちら↓で書いた。

 「ディオニュソス宗教の祭礼を通じて、感性的物質的世界の、「見えざる」真実性の世界の厳存を認知する」

見えざる真実性の世界

 人が日常的に素朴に「ある」と感じ、信じている世界。「感性的物質的世界」というのはそれである。
 それに対して、別に「見えざる世界」がある、ということを「祭礼」の儀式を通じて全身で痛感する。言葉で説明され説得されて意識的に理解するということではなく、全身で感じる。それは「脈々と搏動する心的生命に生きる」体験であり(p.187)、そこで「全ての反対物は一致する」(p.222)。

善と悪、睡眠と覚醒、昼と夜、冬と夏、寒と暖、湿と乾、戦争と平和は現象的表面の矛盾対立にかかわらず、存在の深層に於いては渾然たる一者に帰する。しかし、この「全一」はどこまでも反対の一致であり、相矛盾し相対立する両極の動的緊張である。」(「神秘哲学」『全集』第二巻p.223)

 対立物が一致する、といっても、境界線が消えるわけでもなく、区別が無くなるわけでもない。対立物の一致は「対立する両極の動的緊張」である。

 このあたり、レヴィ=ストロースの神話論理の話とも通じるところであるが、対立する両極は、離れすぎてもダメであるし、近づきすぎてもダメなのである。付かず離れず、にらみ合いつつ相互に関わり合うという適当な距離感、緊張関係が、ゆらぎつつ、「動き」の過程にありながら、その引張合う力が均衡しているおかげで、止まって見える、という綱引きのような状態。

 実戦中の綱引きの選手に対して「あなた、止まってるだけじゃないですか」となどとは、言えないであろう。

対立関係と「その下にある何か」の対立

 そうして、感性的物質的世界ではなく、この「見えざる世界」の方こそが真実であり、感性的物質的世界の隠れた正体である、という直感を得る。

感性的物質a ←対立1→ 感性的物質b


対立2


絶対無

 感性的に捉えられる世界の表層を区切る「対立1」と、そうした表層の全体を支え「対立1」の動的プロセス自体を「絶対無」から区切りだす「対立2」、というふたつの対立を考えてみるとよいかもしれない。

 この「対立2」の動きを「体感するイベント」が、ディオニュソスの祭礼であったということか。

 ギリシア哲学は、このディオニュソス祭礼の衝撃で得られた、ロゴスの内部へ、言語の内部へ、吸収する試みの系譜でもあると、井筒先生は論じる。

 ディオニュソスの祭礼が、民衆から哲学者に至るまでに「感じ」させた、主体としての自然。哲学者たちはそれを、「矛盾対立する「存在者」と、その対立を解消し尽くした「絶対無」との間の、互いを区別しつつ媒介する動きとして言語化した(「神秘哲学」『全集』第二巻p.257)。

「絶対無そのものがかえってそれらの否定された多者の全てを包摂的に肯定しつつ、照々として自己自らを意識する、それは実に深玄微妙な風光である。」(「神秘哲学 第二部」『全集』第二巻 p.257) 

  互いに対立する無数の存在者と、その全てを包摂する絶対無。この両者が対立しつつもひとつである、というイメージを、井筒先生は「深玄微妙な風光」という言葉で書く。

動く対立と、「動かない対立」の対立

 ここに至り、おそらく人類が意識的論理的に思考可能な究極の対立関係が浮かび上がる。それは「動く対立」と「動かない対立」との対立である(p.259)。

「ヘラクレイトスの著しい独創性は、彼が「万物流転」を唱導したということに存するのではなく、現実的多者界の去来変転から出発して存在流動の形而上学的根源にまで遡り、存在的「動」を究極まで追求して、ついに「動の動」ともいうべき矛盾的絶対動を把握したところにあり、さらにはこの絶対者探求に際して、エレア派のように外面への途を採らず、内面への途を選び、いわば世界動を自己の霊魂一点に凝集してその動的緊張を絶対度にまで高めつつ、内的実存的に動の玄処に飜転飛入したところに存するものと認めなければならない」 (「神秘哲学 第二部」『全集』第二巻 p.261)

 これである。

 私は哲学者ではなく、情報学者のマネごとをしているひとりの読書愛好家であり、ギリシア哲学の概念の網の目が時系列に動いていく系譜を、ほとんどまったくイメージできていないのであるが、あらゆるモヤモヤした言葉たちの対立関係、その可能態さえもが吹き飛び、なんとも微妙な、風光が開けてくるような気がするのである。

おわりに

 これまで『精霊の王』を繰り返し読みながら、どうにも理解が及んでいないなと不安が残っていた部分がある。

 他でもない「精霊」と「人」の対立関係のイメージの仕方が、自分にはうまくできていないのでは、という不安である。

 人が精霊をありありと「感じる」過程であるとか、人と精霊の区別と、その関係の重層構造をどのようにイメージしたらよいか、迷っていた。

 おそらく迷いがあったのは、私がどうやら「人」と「精霊」の対立を大前提に据えたままに、『精霊の王』を読もうとしていたからかもしれない。

 まさに、存在者にがっちりと抑え込まれた表層の言葉たちの静止した網の目の中で、それを回したり裏返したりしてなにかを切り刻もうと、混乱していたという具合だろう。

 人間と精霊の対立は、「対立1」ではなく「対立2」の方である。

 井筒先生の論は、この止まり、固まっていた何かを、吹き飛ばしてくれるようである。改めてよく読んでみると、精霊たちは、境界を超えて、こちらとあちらを、区別しつつ媒介する、そういうことを中沢先生が書かれているではないか。

 これだから読書はおもしろいのである。

おわり





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