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3歳&1歳と行く京都鉄道の旅で、意味の深みにふれる

 旅行と言えば京都、子どもといえば鉄道である。

 子どもたちを連れて、京都に鉄道を見に行くことにした。

 とはいえ、子どもたちはまだ3歳と1歳である。
 ベビーカー&疲れると抱っこであり、自由自在にあちこち移動するのは大変である(親が)。そこで徒歩移動を最小限にする旅程とした。2泊3日で関東から新幹線で上京し、京都鉄道博物館を見物して叡電に乗るという、なんとも贅沢な旅である。

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 一方、子どもたちと言えば、大人が思い描くような「旅行」という概念からは自由である。


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 京都鉄道博物館の扇形車庫を歩いていると、上の子が汽車の方を指差して言う。

”にじゅう”が好き、写真を撮って!

 「これは20ではなく、59164だよ」

 と、なにかを教えたつもりになったところですぐに気づいた。彼の言う20というのは、汽車の番号ではなく、車庫の番号の方であった。

 そうして一通り眺めた後、「1番は怖くない」という。

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 1番というのはこの機関車のことである。

 なるほど、たくさん並ぶ機関車を「文化財として」眺めていたのではなくこわいか、こわくないか、という基準で区別しながら眺めていたのである。
 いくつもの汽車を「こわいもの」と「こわくないもの」に分ける境界線は、彼にとってはどこにあるのだろうか?
 サイズだろうか、それともチェーンで立入禁止になっているところだろうか。

 ちなみに「こわい」といっても、泣き出して逃げ出したりはしない。淡々と眺めては、これはコワイ、これはコワくない、と言う。彼におけるコワイとコワくないの区別と対立は、一体私にとっては何と何の対立なのだろうか。

 なお私は鉄道には詳しくないので、この汽車の由来はよくわからないが、おそらく弁慶号の仲間だろう。個人的には「近代化」への強い執念が伝わってくる点で、この1番はとてもコワイ。迫るものが在るという意味で。

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 扇形車庫で上の子が気に入っていたのは、この曲がった線路である。車止めであろう。
 子どもからすると、まっすぐのはずの線路がまがっている、というのがなんともおもしろいらしい。
 しかもこの絶妙な、まるで汽車を空へと運ぼうといざなうかのような曲がり方。

 この曲がり方になるのは、線路を切断せずに車止めを作ろうと思うと、おそらくこれ以外にやりようがないから、結果的にこうなった、ということであろう。こういうデザインにしてやろう、という作為はないのではないか。

 しかしそこに、意味の深淵が口を開くのである。

「まっすぐ」 対  「曲がっている」
‖           
「線路」 対 「線路じゃないもの」

 もしこれが線路というものの素朴な意味を作り出す対立関係の重ね方(のひとつ)だとすれば、曲がっている線路というのは素朴な意味の体系(置き換えのパターン)を超出するものであり、そういうものは人間の脳にとって「おもしろい」のである。

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 子どもたちが独自に「おもしろいもの」を発見しているようなので、こちらもなにか「おもしろいもの」は無いかと注意してみる。

 比叡山のロープウェイの駅に置かれた自動販売機。

 おや、っと思ったもので撮ってみた。

 何がおもしろいのか、意識しようとしてもよくわからないのだが、レヴィ=ストロース風(?)に言えば、強い日差しが差し込む開いた窓と、自販機に塞がれた閉じた窓。そのふたつが、日光と自販機がぶつかり合うところで結ばれていること、おそらくこのあたりだろうか。 

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 ロープウェイの設備が入っていると思われる、建物である。

 これも何がおもしろいのか、よくわからないのであるが、おそらく、割と自然に帰っていく傾向にある建物全体の雰囲気に対して、なにかの配管だけが妙に力強く、流体の流れという自然の力の精髄に抗する機能の美を発揮している点だろうか。つまり人間と自然という究極の対立と媒介が、ここに具現化されている、と。

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 このようなことであれば、わざわざ京都まで行かなくても同じような体験ができるかもしれない。

 そう言うのは簡単である。

 しかし、それはあくまでも後から思考できる可能性の世界である。

 実際に行ってみたが故に、偶然たまたま、出会い、気づくことができる、ということもある。なにより予め予測できる習慣化した意味の世界の「外」のこととの遭遇である。意識して頑張って考えてみた処で、予め見通せるものでもない。

 という具合に、意味の世界の入り口で、いまだその中にどっぷり溺れきっていない子どもの世界の存在を、その気配を感じることができたというのは、なかなか日常得られない体験であった。

 ちなみに、京都滞在中にみた関西のテレビにたまたま六道珍皇寺の小野篁の井戸が登場していた。

 暗く、深く、湿った井戸というのは、習慣化した意味の体系の「下」で蠢く、象徴の世界の象徴になりそうだ。

 子どもが成長し、彼らもまた習慣化した意味に満たされた信号的な世界に閉じ込められる快適さを覚えた頃に、この京都のヘリを一周りしては異界への入り口を覗かせるような旅をしてみたいものである。

おわり 

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