2/8ともだち

 たいていのことは長時間youtube見て気絶するように寝てしまえば忘れる。朝起きてダラダラツイッター見て今日一日しなきゃいけないことを考えれば、寝る前のいやなことは思い出さないし、思い出したとしてもそんなにダメージはない。
 しかし、今日は朝起きても昨日のいやなことが頭をぐるぐるしている。こうなると、アラームが鳴っても止められない。ベッドから起き上がることもできない。お腹が空いているのか、喉が乾いているのか、トイレにいかなきゃならないのかもわからない。ツイッターを開けば溢れる情報の中にいやなことを思い出すきっかけを見つけてしまう。youtubeも、noteも、カメラロールを見返してもいやな気持ちになってしまう。足の先がどんどん冷たくなっているのはわかるけど、暖房をつけるために起き上がることもできなくて小さくなってふとんのにおいをかいで少し安心するけど、今日一日のことを思って胸がざわざわする。でも昨日のことがひっかかっていて動けない。もう一度寝ようにも寝るために目を瞑るといやなことが頭に浮かんで消えない。目を開けると現実世界でそれとも向き合えない。
 現実逃避しようにもいやなことを思い出してしまい、うまくできないという未来への不安と過去への後悔にはさまれたところにいる。
 過去への後悔。あのときの私はうまく振る舞えていなかった。空気を悪くしてしまった。言いたいことを言えなかった。好きだと思っていた友達を嫌だと思ってしまった。そう思う自分が悪いと思った。でももっと尊重されたい。ぐうたらでわがままでプライドが高いけど尊重されたい、私の話を聞いてほしい、一緒に盛り上がりたい。でもぐうたらでわがままでプライドが高いのが悪いから。でも。でもなんて反論考えて友達のこと責めようとしているのも性格わるい私のだめなところだなあ。ああ、だめだなあ。またうまくやれなかったなあ。次はうまくできるかな。次なんてこないな。うまくやれなかったからなあ。
 うまくできなくてごめんなさいという気持ちがずっとある。気づいたのは一昨年ごろ、彼と話し合う中で自分がよく言ってしまうワードだなと思っていた。しかし思い返せばそれよりも前から自分のことを責めて泣いていたような気がする。
 うまくできなくてごめんなさい。自分を責めているように見えるが、実際は自分の思っているように動かない周囲に対する皮肉として言っている可能性はないか。あなたが私に嫌なことを言うのは(あなたの性格が悪いのではなく)私がだめだから。私が孤立するのは(理解のない周囲が悪いのではなく)私がつまらない奴だから。私がミスをするのは(あなたに教えてもらってないからではなく)私がそんなことにも気付けない馬鹿だから。皮肉というか、客観的に捉えることができていないのだろう。客観的に捉えようとすると、必要以上に自分の行動に厳しくなってしまう傾向があるように思う。自分の行動について、自分の感情を抜きにして考えるからそれであっているのかもしれないが、度を超えて厳しくなってしまう。自分への鬱憤を晴らすのは難しい。対象がいるのなら、それに謝ってもらったり非を認めてもらったり、自分が正しいということを確認できれば自分への自信を取り戻すことができる。しかし、自分に対して文句を言って、それに対して「ごめんなさい」と返すと、それはどこにもいかない。自分で自分に「ごめんなさい」と言っても、それは自分の正当性を示すものにはならない。「うまくできなくてごめんなさい、ごめんなさい」と頭の中で繰り返しても私は納得していなくて許してくれない。

私が私に納得していないので、自信がない。それに加えて、友達から軽んじられている(ように思う・認知の歪み)ので、自信がない。自信とは。自分で自分を信じるのなんて根拠がなさすぎて無理だ。

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