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フリーランスになるまでの半生を振り返って、今伝えたいこと 〜就職・フリーター編〜

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フリーランスになるまでの半生を振り返って、今伝えたいこと 〜学生編〜

前の投稿では、僕の生い立ちから学生時代の闇が深い時期について書きました。

今回の投稿は、闇の高校学校を卒業して就職、そして現在のWEBデザイナーの道を歩むまでを書きていきます。

闇の深い会社に就職

高校を卒業してから、その高校を運営しているの母体の宗教系の会社に強制的に就職させられることになりました。

この就職は自分が行きたいと思った道ではありませんでしたし、もうどうにでもなればいいと自分の人生を一番諦めていた時期でした。

会社は宗教内の機関紙や広報関係を業務として行っていたので、僕はその事務手続き周りと機関紙の工場出荷作業を行っていました。

1年間は社員寮に強制的に入ることになるので、最低限の食事と住居は確保されていました。

ちなみに社員寮は6畳の部屋に2人の部屋でした。

実質自分の生活スペースは3畳分しかありませんでした。

で、肝心のお給料はと言うとなんと、1ヶ月2万円です。

大事なことなのでもう一度いいます。1ヶ月2万円でした。

いま考えると労働基準法的にはどう考えてもアウトなのですが、これどうなんでしょうか・・?

もしかしたら労働者ではなくて、ボランティアみたいな感じで登録されているのかもしれないとは思いましたが、どう考えてもアウトな給料だと思います。
もちろん最低限の生活だけは保証されているので死にはしないのですが・・。

いまでも覚えているのですが、周りの同じ歳の大学生が遊び呆けれている中、朝から晩まで働いてそれでも大学生のアルバイトよりも給料が低いという、この状況がとても辛かったです。

同級生の飲み会にはお金がなくて参加できませんでした。

ちなみに携帯はプリベイド式の携帯を1月に3,000円分だけ購入して、通話はせずにメールだけでコミュニケーションをとっていました。

このような状況でしたので、もちろん仕事なんてやる気が出るはずがなく、基本サボることしか考えていなくて色んな人に怒られまくって完全にダメ人間認定されていました。

この頃は見返してやろう!!という気持ちすらない無の状態でしたね・・・。

バンド・BLANKEY JET CITYとの出会い

そのような身も心も貧しい生活を送っている中、その会社の唯一気が合う先輩に誘われてギターとベースをやることになりました。

高校時代にギターを借りて練習していたので、少しだけギターは弾くことができたので、それを知って先輩が声をかけてくれたようです。

その先輩方が「とりあえずこれ聴いておいてー」って渡されたCDがBLANKEY JET CITYのCDでした。
※たしかLOVE FLASH FEVERだったような気がする。

正直最初聞いたときは、そこまでピンと来ずに
「独特の斬新な歌詞と曲だなー。」
ぐらいにしか思っていませんでした。

でも、何回か聴いているうちに引き込まれていき、ライブの映像とかを数回見て一気にドハマリしました。
これまでの経歴と当時の状況が不自由すぎたので、自由っぽいものへの憧れがあったんじゃないかと思います。

いまでもこのバンドは好きでずーっと聴いています。

それから何曲かギターとベース両方練習して何曲か弾けるようになりました。

そこからバンド活動にのめり込むようになり、複数のバンドで活動していました。
特にプロになりたいとかいう目的ではなくて、自由を謳歌できる感じが最高に楽しいひとときでした。

その後、その会社はやめてフリーターになりました。
社員寮から脱出し、当時住んでいたのは5畳ワンルームの共同トイレ風呂なしの家賃1万7000円の部屋でした。

いまでこそ、なかなかすごいところに住んでいたなと思いますが、それまでの生活が社員寮で6畳を2人でシェアしていたことを考えると、完全に自分だけの空間を初めて持つことができて、とても満足していたのを覚えています。

ですが、お金がないことに変わりはなくてスーパーで売っている10円の袋麺のそばとか、豆腐と白菜だけの鍋をポン酢で食べてました。

仕事は朝はホームセンターの清掃のバイト、昼間は健康ランドのプールの監視員バイト、夜は飲食店の厨房と3つのアルバイトを掛け持ちしていました。

その後フリーターは1年ぐらい続けていましたが、さすがにどこかに会社に就職しようと思って定職を探し始めることになります。

次の会社は携帯電話の新機種のリリース前のバグ出しや取扱説明書の誤字などを全部チェックするという、なかなかマニアックな会社にいました。

作業内容が地味すぎて楽しくないのと、窮屈すぎる会社に嫌気がさして、半年で退職しました。

その後は、空いている時間にバンド活動をしながら派遣社員で前職のバグ出しの仕事をしばらくしていました。
この時ぐらいに、自分のバンドでライブイベントを初めて企画したのを覚えています。
初めてPCを購入し、イラストレーターで下手くそながらも初めてチラシを一生懸命つくりました。
このときが、僕とクリエイティブの最初の接点だったと思います。
※ちなみに50人ぐらい集まりました・・。

職業訓練のWEBデザイナーコースへ入学

その後も当分派遣社員で食いつなぎながら生活していて、気がつけば28歳になっていました。
さすがにこのままではいけないから、ちゃんとなにかスキルを身につけよう!と思い、ちょうど仕事の退職のタイミングもあり職業訓練のWEBデザイナーコースに通うことにしました。

週に4日間、梅田まで約半年間通いました。
そこで初めてきちんとIllustratorやPhotoshopを触りだして、ものすごく熱中しました。

学校が終わってからもできるだけ作業の時間を作り、学校でも家でもずっと手を動かしていました。

ちなみに、いろいろ悪い噂もある職業訓練でしたが僕の時の主担任の講師はひたすらずーっと教科書を朗読するだけの先生でしたね・・・。
その主担任の先生は完全に反面教師だったので何も教わることはなかったのですが、教科書からはいろいろ教えてもらいました。
他には、職業訓練という性質上、学びたくて来ている生徒のほうが少数派で7割ぐらいは時間を潰しに来ている生徒が多かったですね。

言われたことをただこなすのではなく、課題でも自分なりにアレンジしたり、卒業制作を1つ作るところを3つ作ったり、このころは特に貪欲に学んでいました。

職業訓練卒業、そして就職

半年間の職業訓練が終わりました。
もちろん、最終目標は就職することだったので、いろんな制作会社やWeb系の求人に応募しました。

30社ぐらいは応募しましたが、面接にたどり着くまでに不採用、不採用、不採用の連続でした・・。

面接でたどり着いても、なぜか担当者にそのスキルではダメだと罵声を浴びせられたこともありましたし(なんで面接呼んだんや・・)、採用されることはありませんでした。

やはり実務経験なしの未経験者がWebの世界に飛び込んで働くということに高いハードルがありますし、どの企業も人を育てる余裕がないんだろうなと思います。

求人サイトからの応募は僕以外の経験者が同時に応募すれば、どう考えても未経験者が経験者に勝てるわけないので、Google検索で人を探していそうな企業を探して直接問い合わせフォームから問い合わせてみました。

1社面接してくれる企業がみつかり、面接を受けて正社員のWEBデザイナーとして就業しました。

ようやくこれでWEBデザイナーとしての人生を歩むことが出来る!と思い喜んだのも束の間、職業訓練の学校の中ではそれなりにできたほうでしたが、実践レベルでは全然使い物になりませんでした・・・。

確かにいま考えると、今の自分のレベルなら15分で終わるような内容に8時間とか時間をかけていました。

社内の仕組み自体も僕を育てる余裕もなく、先輩方もまったく僕と接してくれずに困っているところのヒントすら与えてもらえなかったので、自力で解決するしか方法がありませんでした。

結局、せっかくWEBデザイナーとして就職した会社を3ヶ月の試用期間でクビという結果に終わりました。

この時、正社員の雇用形態でWEBデザイナーとして仕事をすることを諦めようと思った瞬間でした。

次回について

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます。

就職からバンド活動、そしてWEBデザイナーになるまでの話でしたが、本当にいろいろなことがありました。
特に未経験からのWeb業界への就職活動は何通も何通も不採用のお祈りメールをいただきました。

自分自身の力量不足を何回も痛感して、未経験の壁はこんなにも厚いのかと何回も挫折しそうになりました。

せっかく入った会社を自身の力量不足でクビになってしまったのは仕方ないですが、会社の社員自体が常に目に生気がなくて楽しそうに仕事をしている様子もなく、プライベートも確保できていない状況を目の当たりにして、
「これはなにか大事なものが間違っているのではないか?」
と当時思いました。

このような経緯があり、正社員での就業を諦めてフリーランスという道を目指し始めることになりました。
つまり、僕は消去法でやむなしでフリーランスになって現在に至るわけです。

次回は、正社員の挫折からフリーランスになり、独立後どのように活動しているかなどを書いて終わりとしたいと思います。

ありがとうございました。

大阪の枚方市でフリーランスのWEBデザイナー・デザイニストとして活動しています。 https://web-da.com/