「伝えるために必要だから」ではなく「ハッと胸打たれたもの」を撮っていきたい。
図書館で手に取った写真集がある。
鬼と呼ばれた昭和の写真家「土門拳」の写真集だった。
掲載されていた存在感のある写真を見てただただカッコいい!と「自分もこんな写真を撮ってみたい」と撮りだした。
これまで写真を撮ってきたけど「純粋に撮りたい」から撮ることを実はあまりしたことが無いように思う。
あるサービスの良さを伝えるためには何を伝えたらよいか、そのためにはどんな絵を撮ればいいのか、その絵を撮るためにどんな準備がいるのか、そんなことばかりを考えて撮ってきた。
プライベートではその練習で、延長だった。
もともとカメラや写真が好きで撮りだしたのではない。
ホームページ制作者として起業した後、「写真の予算は無いからできたら撮ってくれないか」と頼まれたことからカメラを使い出した理由。
自分にとっては、写真とは「伝えるためのコンテンツのひとつ」という位置づけで。
〜だからこの色、このフォントというのと同じ感覚だった。
(依頼者や一緒に仕事をするフォトグラファーさんに「なぜこのシーンが必要なのか」が説明ができるように…という理由も大きい)
それでも撮っているうちにカメラや写真を楽しいと感じてはいた。
狙った写真を少しずつでも撮れるようになるのはそれだけで楽しかった。
しかし先に述べたような「必要な絵をイメージしてから撮る」撮り方は変わらず10年以上経過すると、何か自分には足りない気がするとぼんやりとしたモヤモヤを感じるようになっていた。
ホームページなどPR写真撮影の依頼者からは「こんな写真が欲しかった」「こちらが細かく言わなくても分かってくれる」と喜んでもらっていたのになぜか。
そんな頃、移住してから知り合ったベテランの美容師さんから「お客さんに喜ばれたり似合う髪型に切るのって理論が大きいけど、それだけじゃダメなんですよね、感覚も大事」という言葉を聞いた。
ほかにもベテランのグラフィックデザイナーさんから「お客さんのやりたいことを汲み取り、目的が達成できるようなデザインをしますけど、それにプラスアルファ自分の閃きとか感覚を入れますね」などと同じようなことを聞いた。
「自分にはそういった感覚が不足しているんじゃないか」と思い至る。
前から知っていた昭和の写真家「土門拳」の写真集を見てシンプルに「こんなカッコいい写真を自分も撮ってみたい!」と思った気持ちのまま撮ってみることにした。
土門拳の本の紹介で書かれていた
古寺なら移住した豊前市やその周辺、中津市、宇佐市、豊後高田市にはたくさんある。
必要な絵をイメージしてから撮るのではなく、土門拳が言っているような「出会ってハッと胸打たれたものばかり」をもっと撮ってみたくなった。
それをしたら、モヤモヤしていた不足した何かが埋まるのではと。
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