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気晴らしの外食やおやつもいいけど、普通の白米が美味しい事が幸せだよね話

こんばんは。ここしばらく、体調面からくる日中の不活動をすこーし脱却して、日中まともに陽を浴びる時間が増えたり、運動を続けられたりしている先生です。

そんな少しだけ上向きな生活を続けていると、食事の量が久しぶりに増えつつあるのを感じてきました。
茶碗半分食べればいい方だった白米も、ワンサイズ大きいお茶碗一杯食べるぐらいになって、それに応じて気合の入った料理をするタイミングも気力も 休職前よりみなぎっているのを感じる最近。
大げさな浪費を伴わない悦びは、ほんの少し『生きてるな』と言う純粋な心持ちがします。

そこで、ふと思い出したことがありました。
以前にこのNoteでも感想を書いたゲーム『OMORI』の実況をやっていた精神科医の名越康文さんが、別のゲーム『Detroit: Become Human』の実況において言っていた、こんなお話を。

"怒り"に対抗するのは"喜び"じゃないんです。
まさに言うように、喜びがあってもそれは3倍速ぐらいで消えていくんです。

それよりは、「日常をこうやって歩いていることが爽やかである」とか、深呼吸すると「あー生きてる」って実感があるとか、「朝日を浴びたら気持ちがいい」とか。全く普通、ニュートラルであることを自然に体が喜ぶモードにならないと怒りに対抗できないんですよ。

怒りとか憎しみとか暗さに対抗できない。
いい事が一杯ありますように。それで対抗しますようにって絶対負けるんですよ。減衰力が早い。

だから、コンディションを良くしておくということが実はすごい大切。
「体調がいい」ってすごい大事。

下記動画4:22-6:20ごろ

なんとなく、今の自分はこの『ニュートラルであること』の状態に少しは直付けているのかな。と感じることができる。そんな瞬間でした。

少し観点を変えて。
お仕事や趣味のコミュニティなど。日常生活で少なからず他人や社会に関わるわたしたちは、時に彼らと衝突や軋轢を生んでしまい、怒り・憎しみ・暗さを抱えてしまっては、それによって『ニュートラルであること』の理想像を、他でもない自分でゆっくり崩壊させかねない危うさを抱えているようにも思います。

怒り・憎しみ・暗さ。そんな感情そのものを抱えていなくても。
「相手にそんな感情を向けられたらどうしよう。きっとやっていけない」という不安・焦燥から、自分のニュートラルの境界線を切り売りして、過度に職場・上司・友人の期待に沿ってしまっては、ある日「自分は何のために生きていたんだっけ?」とハッとしてしまったり、そうする弱い自分に怒りを感じてしまったり。そんな覚えがある人もいるんじゃないでしょうか。
わたしは少なからず、そんな人でした。
他者の期待に沿っておけば、少なくともその人の場所には生きられる。そんな甘美で楽で身分の保証された考えに、なかなか抗えない人でした。

つらい時に時間をかけて休んだり、たくさん色んな楽しい事に手を出したり…。落ち込んでいる時の方策として、そういった事がよく例に挙げられるけど…

そういったことを繰り返して少し落ち着いたら。
『ニュートラルであること』を維持するための行動として、自分のどんな状態が"普通"であり、どこを侵されるとニュートラルが崩れてしまうから、他者と折衝をしなければならないのか。
今の自分の状態に当てはめて、認知行動療法的に書き出して理解したり、また書き出した通りに今後の人生を行動したり…
こういった行動もまた、大事なのかなと考えてみたり。

思い返してみれば、落ち込んでいるとき。気分がすぐれない時。
こういう時ほど、気晴らしに浪費をしてみたり、大げさな外食をしてみたりしたくなるものだけれど、"落ち込み"は気持ちのポジティブ度のオフセット値を常に下げてくるデバフなのに対し、"気晴らし"的な喜びは、一時的に高い波を与えるだけの行動に過ぎなくて。自分の根本に救う問題に対処するものとしては適してないのだから…


そういった所から考えても。
気晴らしに出る外出や、気合を入れて入る喫茶店のおやつではなく。
普段食べる白米を純粋に美味しく感じられていること。
そしてよりおいしく食べるために、どう行動しようかを考えられている事。

そんな自分の『ニュートラルであること』を求める行動が少しでき始めていることに喜びを感じる。そんな最近の日のお話なのでした。


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