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「輪廻転生を奏でる司祭、としてのworld's end girlfriend」Text by 門脇綱生(Sad Disco)

world's end girlfriend "Resistance & The Blessing" (2023/09/09)

LP/CD/DL 
https://virginbabylonrecords.bandcamp.com/album/resistance-the-blessing

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「輪廻転生を奏でる司祭、としてのworld's end girlfriend」
text by 門脇綱生(Sad Disco)

world’s end girlfriendの音楽には、様々なかたちをした、様々な姿の、様々な色彩の、(それはまるで何かを伝える使者のような)様々な声としての、(実体を持たない天使のような)様々な美しさを持った、音楽の水が流れていると私は感じている。その水が繋がって大音量で響いているどこか美しいところにworld’s end girlfriendが立っている。そして、その音楽の結晶は、幸運なことに私たちに共有される。
想像の鮮やかな領域を塗りつぶす激情、そして、存在と想いに語りかける穏やかな感情の詩情が、対立せずに溶けていく。そんな建築、それが私にとってのworld’s end girlfriendの音楽であり、その新たな作品の誕生にいち早く立ち会える事を心から喜びたい。
今作には、二つの運命付けられた魂が輪廻転生を繰り返し、男女、同性、親子、友人など、関係を変えつつ、時代や空間を移りながら、遭うことと離別のドラマ、そして生と死のドラマを繰り返す、という明確な物語が添えられている。
そこから読み取れることは、(そもそもwegの音楽が単純なドラマに留まるはずは無いのだけれど)、単なる男女もしくは同性間の愛情でも、家族の物語でもない、より人間の根源的な(もしくは全てを超えた)ところにある、力強く記述される、全てを貫く愛の物語であることだろう。メロドラマにも、スピリチュアリティにも回収されない、力強い輪廻転生の物語。だが、その愛は叶うとは限らない。

「unPrologue」から「Reincarnation No.9 - Fire, walk with me.」の流れを聴いて私が最初に感じたのは、wegが幼い頃から愛聴し、親しんできたというオーセンティックなクラシック音楽のかたちが変わることとしての、オーケストレーション、そのダイナミズムに対する再解釈と電子音響化というwegの音楽のひとつの大きな要素。そして、未来的にして同時にその未来が砕けているようなグリッチの連続の重なりだ。この二つのトラックは大きな物語の序章であり、その二つの要素の重なりはその後の音楽の、遠大なオペラのような物語を暗示している。遠い時間と近くにいる君、それを一つの俯瞰的な観点から眺め、重なってゆくひとつの音楽として、暗示的に響かせる完璧な序章だ。

そして「Slaughterhouse」において、オルゴールのような美しいベルの音色と戸田真琴の詩、samayuzameによるポエトリーリーディングが展開される。輪廻転生というひとつの流れは、ある意味では元々達成されていた関係の破綻を意味する。同時に新たな未来へ開かれていくことの、終わりのない連続だ。そして、このトラックもまた物語のすべての序章である。これからの、作中の二人の未来への暗示であり、物語の全てを見る視点から書かれた言葉が、心を引っ掻くように物悲しく響く。ここまでがアルバムにおける音楽の、メタな視点からの物語の提示と言える。

「MEGURI」は明らかに、この音楽作品が輪廻転生をテーマにしていることの暗示と取ってよいだろう。wegが得意とする、シアトリカルな、もしくはサーカスのような電子音響がドラマティックに展開され、徐々に熱量を上げながら轟音の激情のなかにリスナーを酔わせるのである。シューゲイザーのような強い音響による感情のドラマとしての音楽が表すのは、「MEGURI」という輪廻転生についての言葉による提示であって、この後の物語が力強いドラマを秘め、それが美しいということのはずだ。

そして音楽と物語は景色を変えていく。「IN THE NAME OF LOVE」で展開されるのは愛と楽園のユーフォリアだ。エレクトロニカによる疾走、幸福な瞬間の提示。速さと鮮やかな色彩の楽曲であり、『Resistance & Blessing』での、物語の最初の提示である。だが、この楽曲の2:40~2:50で、亀裂のように人工合成音声の音響が轟く。それは、このアルバムが直線的な愛の物語ということではなく、時間と空間を流転する遠大な物語であることの提示であり、音楽が現在と未来を行き来している。

「Odd Joy」「Orphan Angel」という連作のような二曲には、聖なるものの形を変えることで、未来と過去をコラージュするようなクワイアのあり方が一貫している。「Odd Joy」ではベートーヴェン『歓喜の歌』のような宗教的歓喜が、weg自身の作家性と、過去から未来へ接続される。そして、その物語が必ずしも幸福ではないような想念を持って変形されるのであるが、この要素はこの作品の物語における神さまの存在が、正しくキリスト教的な像ではないということを表しているのかもしれない。宗教的なものがSFや批判精神と接ぎ木され、新しい、クラシック音楽以降の電子音楽のかたちを築くということだ。そして、「Orphan Angel」というタイトルを直截的に解釈すると、天使が孤独であること、つまり「接触を失っている」ということになる。その後の「GODLESS ALTER」というタイトルもこれらと重ねて解釈すると、作中の物語に神は不在、もしくは居なくなっているのではないか?

その「GODLESS ALTER Part. 1」「GODLESS ALTER Part. 2」はアンビエントとして、そのアンビエンスを伴うエレクトロニカとして極めて美しく、物語の展開の加速と重層化を同時に持つ連続をなしている。宗教性の変容を感じるアンビエンスから、Part. 2の後半の展開においてシネマティックな要素を持つバンド的なサウンドへと移行していくことが、物語的に作用するだけでなく、プログレッシヴ・ロックにも通じる、wegの作品における展開の美しさと構築度の高さを示すのだ。

「Petals full of holes」での、再び立ち上がる戸田真琴の詩とsamayuzameのポエトリー・リーディングから、Smanyによる詩と歌が展開される「Eve」の流れは、作品の序盤の美しさという意味での一つのピークへと達しており、歌と詩の音楽として言葉を失うに足る美しさを醸している。喪失、誰かが眠ることを優しく見守ること、世界が終わることへの淡い想いが二者関係に収束していく。
言葉と音楽の展開が完璧に同期していて、他者について語りかけるような淡い言葉と電子音響の展開が、”世界が終われば”というリフレインと重なる音楽の悲しみに広がっていく流れはまさに胸を打つ美しさだ。同時に、この楽曲は作品単独でひとつの、私的な告白としてのひとつの物語を持っている。その楽曲の物語性の連続で、『Resistance & Blessing』は、アラベスクのような絵巻として成り立っているのだ。

そして幾つかのインターリュードのひとつである「Reincarnation No.9 (More tears are shed over answered prayers than unanswered ones.)」が展開される。電子音響化した声明のような、ドローンのような男性ヴォーカルの響きが空間を埋め、より囁きに近いマントラ的な声から歌へと展開していく。ピッチとフォルマントが再デザインされた声の建築であり、まるで、リゲティの「Lux Aeterna」「Requiem」を意識させるような、女性声のずれたクワイアの重なりだ。

「RENDERING THE TWO SOULS」は未来とそれ以降の音楽を想起させてくれる。現状のシーンに於ける電子音響という観点から見ても声の実験とリリカルを統合するような用法が重なりつつ、強靭なビートが展開される、この稀有な作品の水準に至っているものはあまり見当たらない。展開を目まぐるしく変えつつ、美と速さを提示するこの楽曲に一貫しているのはシンギュラリティ以降を先取りするような感性であり、Mica Leviにも通じる先鋭的な電子音響とポエトリーリーディングが重なる瞬間が、ブロークンなブレイクビーツやグリッチと更に重なりながら展開する、日本におけるエレクトロニカの達成と言っても過言ではない。

「Cosmic Fragments A.D.A.M」「Questions」「FEARLESS VIRUS」「Dancing with me」「Blue / 0 / +9 (feat. arai tasuku, Itaru Baba, Aoki Yutaka)」は一連の、間の章として解釈することが出来るのではないか。子供の声を含む複数の朗読が、ミュージック・コンクレートとポスト・クラシカルのあいだの領域をなめらかに進んでいくようなトラックに乗せられた詩は、孤独と遠さを表しつつ、スティーヴ・ライヒ以降のデチューンされたミニマル・ミュージックへと変貌していく。さらに静謐と熱情が並列に展開していく音楽は、OPNを超えてゆくような音響とリフレインが推移しつつ、downy 青木裕のギターとItaru Babaの歌と叙情のトラックで解決を見るのだ。そこにあるのはシンギュラリティ以降のSFが魂と結びつくドキュメントと言うべきだろう。

これまでに提示された音楽と物語について固まり始めた像に亀裂を入れ、鮮やかに別の色調を提示する「Black Box Fatal Fate Part.1, 2」は、情景の推移を美しく表す、アナーキーで優れたトラックだ。スクリューされた声とポスト・オペラの旋律、グリッチ・ノイズ、アンビエンスが溶け合うことで音楽が駆動し、遂には物語の転換点が動き始める。そして、作中でも随一ミュージック・コンクレートに接近する、遠未来のリュック・フェラーリのような「Trash Angels」にたどり着き、物語は抽象性と速度を上げてゆく。

「The Gaze of Orpheus」「Sacrifice」「Torture in heaven」「Fire on the Lethe」「Mobius」も連作として解釈出来る「The Gaze of Orpheus」の詩の冒頭で、この音楽において既に遠い時間が流れていることが示されている(”一万年生きた龍を見たね。”)今、ここが一つの楽園であることが明かされ(”ここは/楽園/最後の場所)、ペシミスティックなその詩情は、二者関係と再構築された悲愴を描き出している(汚れた空気吸い込んで/はるか走った/屠殺場へ//飛ばずに死んだ鳥は/たった一本の髪の毛を喉につまらせて死んだ//散る羽根/あの最後の一周が僕だった)。

そして「Sacrifice」における喪と激情のアンビエンスとノイズが展開された後、「Torture in heaven」の詩において、輪廻転生を繰り返すなかで、触れ合えなくなった二人の悲愴が強調されていく。「Fire on the Lethe」におけるレーテとは、ギリシャ神話の忘却の水を流す河を意味している。この楽曲でも古楽と遠未来的なグリッチが交錯する、このアルバムの主題のような音響、和声、旋法が展開されていく(そして燃えるレーテという言葉の隠喩性。)「Mobius」において再び言葉が立ち現れ、断章的で響きの美しい弦楽器に近い電子音がポエトリーリーディングを彩っている。ここで示されるのは再会の可能性と、そして、それが百年という周期でしか達成されないという悲を湛えている所だ。肉体のない影である作中の二人の人物による、悲しい再会、離別の呼吸音。

「Before and After Life」「himitsu」にも、二章の短編小説のような連なりが感じ取れる。ポスト・クラシカル以降の電子音楽として、今作でも特に美しいヴァイオリンの音色から始まる「Before and After Life」でも、その美しさは古典性に留まることはなく、徹底的に踏み外された上で、また回帰していく。この作品の主題が必ずしも美しいだけではない歪さを抱え込んでいることを強く表すものだ。筆舌に尽くし難い、終盤のアンビエンスはこのアルバムの極めて静謐な瞬間として印象に残る。続く「himitsu」では、今作でも特に強くポスト・ロック的なサウンドと楽曲が強調されているが、それを強く感じさせるのは今までの物語で経過した時間と存在を祝福するようなギターとピアノの旋律と音響だ。決して単なるユーフォリアではないと前置きするが、一つの存在が、もう一つの存在に、絶対にまた再会出来ることを信じるような、憧憬と約束、叙情と叙景がここにはある。

物語が静謐へと移行したことを告げる「Cosmic Fragments - Moon River」、そして、GAS(Wolfgang Voigt)以降のアンビエンスがポエトリーリーディングと統合されたような稀有なトラックである「Glare」にて、二人はまた離別してしまう。この楽曲に物語としての一つの区切りがある。

そして「Tu fui, ego eris.」、題はラテン語の格言で、“私は(かつて)あなただった。あなたは(いずれ)私になるだろう”という二者関係についての寓意的な言葉である。このあなたと私は紛れもなく作中の転生する二者以外にはないはずだ。二人の存在が溶けてひとつとなり、きえてゆく光の前触れとしての音楽である。

最終曲である「Ave Maria」では、表題通りにシューベルトの「アヴェ・マリア」がヴォーカルの旋律で引用される。だが、それは轟音とリズム、電子音響の饗宴に対する対位法の旋律である。最後のドラマとしての激情の前触れとして、旋律が消えていく。崇高なノイズと微かに聴こえる声の残響が響き渡るとき、物語の中の二者も、聴いている私も、あなたも、全て音楽の中に溶けてゆくだろう。それは、音楽を愛する者としての幸福である。そして、最後の旋律が歌われ、アルバムは幕を閉じる。

恐らく、物語以前の構想として、シンギュラリティ以降のSF的な流れと、スピリチュアルなものに回収されない、人間の存在と愛の物語をつなぎ、一つの音楽作品として提示するというコンセプトがあったのではないか。
単なる輪廻転生や二者関係の物語、という所に留まらない永い時間を生きること、その悲愴、その時間が遠い未来を内包していること。そして、そこには二人の存在、愛、交歓、再会/離別があること。そしてそれは歪さを同時に抱えていること。それらは、グリッチ/クリックノイズやノングリッドなリズム、スクリューされた男性のヴォーカル、極めてリリカルな電子音響などを用いて、クラシック音楽の旋律においての主題の概念のように、高密度、高強度で有機的な統合を持って表される。
そのwegの音楽については、まさにオーセンティックなクラシック音楽以降の先端的なエレクトロニカであり、オーケストラのダイナミズムの電子音響化や、和声や旋律の再構築、クラシックの持つ物語的な楽曲構造の更新が作品のなかで鮮やかに展開されていることをリスナー全員が知っている、もしくは体験しているだろう。私の個人的な見解ではあるが、『Resistance & Blessing』においてworld’s end girlfriendが達成したかったのは、例えばワーグナー作品のような遠大なオペラの電子音楽、エレクトロニカにおける再構築と達成ではないか。もしくは、そのような遠大なドラマに音楽が接近する、作家として異様な領域にいることを示しているのではないか。
その意味でworld’s end girlfriendの音楽は、いわゆるミニマルで現代化されたポスト・クラシカルとはまた別の、「もう一つのポスト・クラシカル」である。作家によるクラシック音楽への強い愛情、そして、更新への意志。現在形の音楽として、自らの愛するもの自らのものとして響かせる、強い意志がこの作品にはあり、それがwegが常に創り続けてきた音楽だろう。この作品は、作品群の全ての集大成のように、過去の音楽を眼差しつつも、未来に対して開かれている。その未来もまた、直線的に測られるような未来ではなく、もっと遠く、全てが変わっていく地点に向けて動いていることが、world’s end girlfriendの天才性だろう。
グリッチ/クリックノイズ、人工合成音声、それらの遠未来性、ポスト・クラシカルのリリシズム、一般性に回収されることのない、人間の普遍的な全てを貫く愛としての詩に至るまで、多種多様な要素が交錯する、電子音響の歴史を流れる血脈の突端に咲いた花と称すべき音楽。
この作家と同時代に生を受け、新たな作品を浴びることのできたことの喜びを噛み締めたい。

門脇綱生(Sad Disco) 


門脇綱生プロフィール:
「京都のレコード店〈Meditations〉のスタッフ/バイヤー。ディスクユニオンにて〈Sad Disco〉レーベルを運営。遠泳音楽をテーマとした〈Siren for Charlotte〉共同主宰者。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、TOKION等に寄稿。編著『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』(DU BOOKS)」

@telepath_yukari 

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