『お金のいらない国』を読んで。

「この本、まるでギルドハウス十日町のようなお話ですよ」

住人にそうおすすめされ、気になったので読んでみました。一冊70ページにも満たないショートストーリー『お金のいらない国』。

さて、どの辺がギルドハウス十日町なのかな。読み始めてすぐ「あ、おもしろい」と感じ、最後には「なるほど」と思いました。

たしかに、ギルドハウス十日町に通ずるところがあります。

この『お金のいらない国』は、“お金”という概念のない国に迷い込んだ人のお話。なんとなく“時間”を題材にした小説『モモ』を読んだときの印象に似ていて、現代社会の問題について考えさせられます。

自分は今から30年ほど前、小学6年生のとき(なので1983年でしょうか)に書店でパソコンの雑誌に出会いました。なぜだかそれが将来ぜったいに流行ると感じ、親に頼んでとても高価だったパソコンを買ってもらった記憶があります。そして、プログラムを書いてゲームを作ったり。いまでは珍しくないですけど、当時パソコンを持つ友だちはまわりに誰もいませんでした。「将来はこの雑誌を発行している会社に就職したい」と、その想いそのままに高校ではパソコンの部活に通い、大学は全国に2校しかなかった経営情報学部に入学し、ついにはその会社に入社できました。

それからというもの、小学6年生のときのような純粋さで無我夢中に働きました。徹夜も多くハードだったけど、とてもやりがいがあって、楽しかったです。

なのに、なんでいま、ギルドハウス十日町という家を作り、こんな山奥の限界集落にいるんでしょうね。自分でも笑ってしまいます。人生とはわからないものです。

はじめは純粋に「パソコンが好きだから」で働いていたはずなのに、いつの間にかお金とそれをモノサシにする社会構造にのまれ、いつしかお金のために働いていた自分がいたような気もします。そして、なんとはなしに経済社会の矛盾を感じ始めていたのでしょう。

それからいろいろあって、2012年から3年間、全国の交流の場を旅することに。そこで、ものの見事に自分の“お金”に対する価値観が180度変わりました。

その結果、生まれたのが、ギルドハウス十日町という場。空き家など世の中に余っている物が再利用され、お金がいくらあっても得られない体験とつながり、換金できない価値観にあふれていると思います。そして、そんな価値観にあふれた場を心地よいと思ってくれる人たちが集い、みんな、自分たちのやりたいことに挑戦しています。

ITの最前線で働いていたときより、収入は激減しました。でも、そのときとは違う別の豊かさや楽しさは何倍にも膨らんだように感じます。そのなかで自然発生的に生まれた自分の《住み開きの隠居生活》。小学6年生のあのときの純粋さが、いまの生き方にも感じられます。

果たして、こんな人生を、死ぬときの自分はどう思うのかな。


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