見出し画像

気がつきゃnote始めて九か月が過ぎゆくみたいだ

noteを始めて気づけば早や九か月が過ぎようとしている。もうとっくに1年経過したものとおもっていたから、そういう意味ではまだ九か月だ。いつも、もうやめよう、もうやめようかと思っていながら続けてしまったのはnoteの持つ肯定感の世界がやはり素晴らしいと思っているからなのだろう。本当のところはきっと色々と意見したいところをそんな考えもアリだよねとそのままに受容してくれる空間が好きだ。フォロワーさんがとくに多いわけでもなく、特別にたくさん見られた投稿があったわけでもなく、非常に平凡にゆるゆるとここまで何んとなしに続けてきた感じだ。当初はフォロワーの数も気になっていたが、結局はそれで何か口に糊するでもなく、当然に多くあれば嬉しいが、一人でも本当に心を動かしていただいたことが伝わればもうそれで満足なのである。そんなことに気づくのに多少時間がかかった。そうだ、仮に途方もないフォロワーがいたことを想像しても結局は一緒なのだ。きっと常に乾きつづけいつまでも満足しない。オピニオンリーダーになりたいかといえばそんな大それた意識もない。少しも思ったことがないといえば嘘だけど、すぐに想像の羽を伸ばせば「なんか違う」と思えたことは自身にとって良かった。結構いろんな反応があればそれはそれでしんどい体質かもしれない。
フォローする人の数も200を越えればもう無理かもと考えている。なかなか見ることがもう出来ないからだ。仕事、家事、諸事あわせて時間は有限だ。家族や友人との時間は大切だし、自身を見つめる時間もそうだ。相互フォローしている方の投稿は随分時間が経ったとしても必ず見るようにしているが幾分時間が足りない。睡眠時間を削れば心身に少なからず影響を感じる年齢だ。Twitterは忌避していた経緯があったが、つぶやき少なめ、見ること中心で最近復活したが、それでも最近はTLを追うのがしんどくなってきた。さらに時間がなくなってきたと感じる。だからフォロワー外の人の投稿を見るのはなかなかなくなった。少し距離をとっていかなければならないかも…。
noteについては、ごく稀に興味あるハッシュタグを検索してこれはという投稿を探したりしている。そのなかで興味深い投稿があれば読み込んでしまうことが多々ある。スキはそのときの感覚重視であり、いろんな意味をこめてつけることも多い。ただ、感情の吸引力が強い投稿に対しては、内容がすばらしくてもスキをつけないことがある。自分もその世界に落ち込んでしまって感情のバランスが保てなくなるからその予防線としてだ。多数のフォロワーがいる有名で影響力あるnoteもあまりフォローしないほうだ。それよりは目立たないがキラリと光る投稿を見つけたときの方が嬉しい。有名な投稿者の投稿内容とそれらを比べるとき、有名な方のそれは安定的で読みやすいものであることが多いが、文章は粗削りだけれども、目の付け所やスポットの当て方などが面白いものは在野に埋もれたものに発見することのほうが多い気がする。シンガーでもデビュー当初の粗削りな頃のほうが好きだったりすることが多い。売れてきてから妙に洗練されてきたものもいいのだが、粗削りな原石時代にあったものが洗練される過程で雑味のように削られてしまったときに、そのときに一緒くたに削られていった旨味を惜しむのだ。これは個人的な好み嗜好によるものかもしれないがそう感じることが多い気がする。フォロー後はなんでもかんでもではないがこれは頑張って作られたんだなと感じたもの、純粋によかったと感じたものにスキをつけている。これもすべてにつけているわけではないが。そのときの気分を大事にしている。Twitterとはまた違って、noteのフォロワーとの関係性はお互い切磋琢磨し合う同志のような感覚を持っている。スキはいろんな感情がまとわりつく。いずれ誰かが羽ばたけば自分のように誇らしくさえ思う。特に、まだ始めて早々の頃にフォロー関係を築いて、今も続いているフォロワーさんはすごく思い入れがある。あぁ元気でやっていて嬉しいよってね。そう、毎日ね、祝福を贈ってる感じ。

noteは特有の金銭を介したサポートシステムがあるが、基本的には私はしない。いや、しないことにしていた。ひとつは自分自身が無料投稿にこだわっているためだ。金額設定の下限の問題もあるが、世にある色々な製作物、無料から高価なものまで多様であるが、一般的に販売されているものの価額を考えるとき、どうしてもその文章の値段が、私が設定する場合に、自分自身のものを考えたときに果たして見合うのかという問題を消化できないのだ。一般に販売される紙媒体で考えたとき、そこにはたくさんの技術、マテリアルの費用、そこに関わる人々の数、etc.を考えたとき、あの作家の1ページに対しても、それを数十倍薄めたとしても見合わないと思うからだ。もう一つはサポートの応酬になること、つまりnote自体がクリエイターの集まりである以上、そういったシチュエーションを想像したとき、お互いに金銭的な応酬をするような不毛さをふと想像することもある。また、個人的な部分、家庭的な事情で支払い方法に制約があることもサポートを躊躇わせる理由の一つなのだ。さらに付け加えれば、今まで金銭的な介在なしで見ていた世界に、いきなり金銭という物差しが提示されることで、いままでどちらかといえば社会的紐帯に近いものであったものに、言うなれば、社会規範があるとき市場規範に切り替わったような感覚、そう、いきなり経済的な現実を突きつけられて戸惑うのだ。親しい友人を家に招いて食事を提供した帰り際に、「今日は楽しかった。料金はいくらですか?」と財布を出されるような戸惑いなのだ。ただ、最近はそんな自戒を破る出来事があり、それがまだ自身の中で整理がついていない感情でもあるが、それはこの金銭は喜捨のようなものであり、先方には私の感じる以上の効能があるのであればということがキッカケでした。それは自戒を破るだけの意味があったから、自ら禁を破ったものです。正直言って大した金額でもないので大袈裟ですが、それは金額の多寡ではない問題が自身の中に律として存在しているからでもあります。
この律は基本的に今もわたしの考え方ではあるので、金銭的なものには手を出さないというのがスタンスですが、それでもやはり、抗いがたい魅力や、どうしても覗いてみたいという感情が強くなったときには、また家庭的な危険を顧みずにやってしまうのかもしれません。一度、破ってしまったものは以後は破られやすいとも聞きますので…。
これはその人その人の価値観の問題なので、サポートシステムそのものは素晴らしいものとは理解していますが、わたしの価値観とはなかなか馴染みにくいものと感じていること、そこと時に折り合いをつけながら利用しているということ、それだけです。

今、noteを、いや色んな他のプラットフォーム界隈をも見れば、それはもう島宇宙のようにたくさんの同好の士によるサークルが形成されていて、それがいろいろなサークルともシナプス回路のようにつながっている。
みんな気の合う知己を得たように盛んに交流しあっている。そうではなく一匹狼のような人もいるし、その中間のような中途半端な感じのわたしのようなのもいる。そういったものをすべて包み込むプラットフォームがこのようにわたしの時間を占めるなどとは過去には想像などできなかった。
今、わたしはそんな空間をどこか愉しみつつ、どこか斜めに構えていたり、喜んだり、落胆したり、やめようか、やっぱり投稿しようかなどと思案を繰り返し繰り返ししている。たった九か月だけど、出会った人去っていった人、たくさんの方と袖を擦り合わせたような感覚がある。わたしもいずれは去るのかもしれないが、今はここで相変わらず下手な投稿にいそしんでいる。

いつか、自分のなかでこれはといえるものを紡げたら、世界のどこかで多くの知己を得たら、結局それは、この地球上で共感を抱き合えるものを探しているだけなのかもしれない。書くこと自体は、自身のなかの神と向き合うような作業だともおもえるようになったが、それでも孤島で船を求めるように誰かが発見してくれるのを期待しているのかもしれない。心の底で鳴り響くような音を待っているのかもしれない。それは誰かの文章のなかにみつけるかもしれないし、誰かが自分の文章にみつけてくれるのかもしれない。

わたしはどちらかといえば、友人にもお堅い文を書くようなイメージでみられてる。わたしもそう思うし、そういった硬質なところが本質なところだと認識もしている。note界隈で心ときめかせるような洗練された文体、都会的で、しゃっきりしていて、それでいて柔らかいような投稿をみると、わたしもこんな文章の仲間入りがしたいなぁと羨むこともあります。自分のをみれば、なんとも鄙びた粘土質のような文なのだと憐れんでやりたくなるような夜もあります。でも、そんなであっても、恋の詩(暗い方が多いですが)をつくったり、短歌に拙いながらもいそしんでいるのは、なにより好きだからだ。この好きだからって原点、もし迷ったら立ち返って、下手でも恥ずかしくてもときに辞めたくなっても、なんどもここに帰ってこようとおもう。

なんだ1年というわけでもないけど、1年くらい経っていたのかとおもっていたけど、まだこんななんだとおもった蛍の頃。
そうか去年はまだつくっていなかったんだね。あの蛍の光を見ていたときは。人の記憶は曖昧ですね。

それから、あらたまっていうのも変ですが、こんなに星の数ほどある文章のなかからこの文章をみていただけた方、どういう巡り合わせかわかりませんがこれもなにかのご縁なのでしょう。こんな拙い文章を読んでいただき、見つけていただき、ほんとに有難うございました。

ありがとう見つけてくれてこんな文(ふみ)途方に暮れる文字(もんじ)の海で
(Nod)

まとまりもないですが…



この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

欣喜雀躍!(^^)!
58

West side Nod

読書やコラム、記事、見聞したものに対して徒然に書いてきたいです🙂。omnivore(雑食動物、乱読、広く興味を持つ)なるままに。現代詩好き。茨木のり子、吉野弘、石垣りん、高橋順子、馬場あき子、河野裕子等。歌は洋楽AOR系が好き、青春はMTV、渡辺美里、大江千里。

単にエッセイ

エッセイをはみ出しませんでした… いやエッセイなのかそれすら怪しい… なんか歌まであるぞ… もやもやしてるけどこれはエッセイなのである。えいっ!

コメント20件

ほんわりと漂う想いの記されて人の言葉に己が宿る #極短詩返信
としべえさま、詩をいただきありがとうございます。宿れども人の想いは屋根の外おもいあたれば雨をぞしのげ
こちらこそ その戯れに 感謝す 
文字の海にも 架かる虹かな🐈
konekoさまコメントありがとうです。文字の海にじのかかればお互いに行きつ戻りつ回り巡りつ
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。