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AIロボットにセレンディピティな発見はあるのか

出張に行ってきました。
最先端が流行のTOKYOCITYでは右も左も猫も杓子も「AI」。
今や「AI」語らずば人にあらずというくらいにハイセンスでインテリジェンスな雰囲気を醸し出すワードとして沸騰中でした。
田舎者はなんだか煙に巻かれているような感覚があるのですが、どうやらとんでもなく便利でエポックメイキングなものであることは確かなようです。

アチコチでいろんな人達と話し合う機会がありましたが、「ビッグデータ」や「シンギュラリティ」などというワードとともにその活用機器やシステムの売り込みに躍起でしたが果たして今の段階ではいかがなものでしょうか。AIの分析能力や自己学習能力がどこまでその「技術的特異点」とやらにさしかかっているのか定かではないですが、人の能力を超えていずれは人さえ凌駕する知性を得て、いずれ人間は駆逐されるという危険が語られたりもしますが果たしてそうなのでしょうか。

たしかに、その演算能力の高速性や自己学習機能によってあたかも人の考えや嗜好さえも傾向的に分析してそれらしい偽物を作成することも可能であるでしょうし、言語の海をも征服していずれは翻訳や通訳機能さえ完璧に果たしそうですし、小説や詩や絵画などの技術作品、自動運転分野、裁判などの法曹分野、工場の生産現場、法令作成や行政や教育、警察などでも至るところで応用可能な夢の技術ではあるのでしょう。
今のところというのは、今の「AI」語りのものがどこまでの「ビッグデータ」を扱っていて、どこまで拡がりをもった、どこまで拡張する見込みがある情報提供ユーザーを持っているのかがどうにも怪しいと思うからなのです。蓋を開ければ2千人程度のユーザー情報に基づいた分析結果でしたとなればなんとも心もとないじゃないですか。心持たないAIだけになんちゃって。
今後ますます情報量も各段に増え、各階層へと情報幅も拡張するということですがそうなれば近未来には非常に精度の高い導きを可能にする人工知能が生まれてくるというのでしょう。

ひとつ気懸かりなのは、そういったAIの精度高い分析によって恩恵を受ける部分と果たしてどうなるの?という部分についてです。
恩恵を受ける部分というのはやはり、今まで定量的な判断が難しかった分野の数値データに基づいた効果測定が可能になるだろうということでしょう。例えば広告や販促の効果というのは爆発的に当たれば効果のほどがわかるが、ほとんどにおいてはその費用体効果が定量的には測りにくいものでした。これがAIとビッグデータの活用によって可能となってくるでしょう。
そうなれば広告など販促費の適正な費用配分というものができてくるのでしょうし、イベントの集客効果や周辺経済への波及効果なども今までのぼんやりとした測定、「経済効果は10億円」というようなものの根拠設定がもっと信頼の置けるものになるかもしれません。
また天候や自然災害分野に応用されればこれも画期的な平和利用ができるかもしれません。とくに地球温暖化のスピードと影響因子を特定分析できるようになれば、説得力あるエビデンス資料として各国を説得でき、効果的な対策を打てるようになるかもしれません。

一方で、当初は「AI」を利用した先進クラスの台頭と富の一極集中が生じないかということです。「AI」導入の当初効果はまずは人件費抑制に働いてくる部分が多くなるでしょう。つまり、最初は労働者不足に対応する切り札として機能するが次第に人の仕事を奪ってしまうだけになりかねない危惧を孕んでいるということです。そうなれば民主国家は一時的に機能不全に陥る可能性がでてくるでしょう。
すでに現在、少子高齢化の影響で富の再配分機能がいびつになりつつある中で年金制度自体は国家が破綻しない限り破綻することはないでしょうが、年金受給額が減って生活困窮者が増えれば税収の減に加え社会保障費の負担が増すことになるので年金制度の破綻よりも前に社会保障制度が破綻をきたす危惧が懸念されています。働きたくても加齢には負ける人も多いでしょう。それに加えての失業者の増加はその破綻にさらに拍車をかけかねません。
AIの利活用によって人間が単純作業から解放され、より創造的な分野へ注力し、余暇をも生み出してくれるというハッピーなシナリオもありますが、それに至るにはおそらく長い紆余曲折が必要でしょう。そうすぐにそうなるようなものとは思いにくいところです。
さらに、「AI」を誰しも活用できる未来ができたとしても、その旨味部分というのは実のところ誰かがその技術を使ってあらゆる面でアドバンテージを取り続けることでしょうが、誰しも活用できるとなれば、例えば、最適解はAだと「AI」が導くとき、そこに皆が殺到すればそれはもはや最適解となるのかどうかという疑問も残ります。資本主義経済の中で生活しその欲望が源泉となって社会を良くも悪くも突き動かしたものが富の流動である以上、そういったステージになればもはや富の追求という意味でのアドバンテージはAIには見出せそうにありません。むしろ平和的な再配分が為され、「AI」による真の平等主義が現出するのでしょうか。もしくは社会の均衡を保つように富の流れをコントロールするのでしょうか。そうなればもはや「神の見えざる手」が「少し見える神の手」となってしまい、神やイデオロギーそのものになってしまうのかもしれませんね。

「AI」の機能の片鱗なのか、最近ネットではユーザーの嗜好性を分析して、その嗜好性に合うものを提供してくれますよね。
これは「AI」の分析機能と学習機能がそうさせるのでしょうか、これももっと本人に合致したものを提供してくれるのかもしれませんが、果たしてどうなのかなと思うところもあります。
今回の出張ではコンサルタントやマッチング支援のコーディネーターとも仕事をしましたが、気になったのはそれが元大手企業の元役員さんなんかの出身で結構なお年を召されている方もいるのですが、それが昭和流なのかわかりませんが、こちらや相手先に対して、これまでの人生の集大成とでもいわんばかりの「上から目線」でどうにも困りました。「君らみたいなのがなかなか会えん人だから感謝しなきゃならんよ」などと、その紹介者に対しての遜りくだりのつもりなのでしょうが、へりくだすものは自分の頭ではなく、こちらや相手先の頭なのでいささか閉口しました。どうも中小企業者に対する扱いはそういう風なものだというサラリーマン人生を全うされてきたのでしょうが、興味深かったのはそんなことよりもどうやったらこういう風な人格形成ができてくるのだろうかということでした。生まれもってのものなのか、それとも環境がそうさせるのかひどく気になりました。
おそらく後天的な要素が大きいのであれば、こういった「AI」による嗜好性に対する提案は実はとんでもなくお節介なことなのかもしれません。
自身のIDは偶然やさまざまな経験則を通じて形成されていくのでしょうが、あんまり自分のペルソナを固定的にしていくことを機械学習の産物に委ねてしまうことに抵抗を感じるのです。紹介されていく「私にマッチするもの」というものがどんどん固定的に限定的になっていく果ての姿は固定観念に凝り固まった老害ジジイババア(言葉悪くてスミマセン)というのでは浮かばれませんね。世界は広くいろんな発見に満ちているのでわざわざその道を閉ざし、どんどんと蛸壺的人間になればつまらない人生、つまらない人間になりかねません。もちろん専門分野を掘り下げることは必要ですのでそれを否定する話ではないのですが、自分の道と自身のアイデンティティを確立しながらも、世界にはまだまだ知らないこと知らない世界があることを謙虚に認めている姿勢というものを保ちたいですよね。
それが、「AI」によるアイデンティティへの過干渉のようなものが我知らず起こっているかもしれないとおもえば怖いですよ。マイルドな洗脳のような気がするんです。
長々となりましたが、これらが「AI」に思うところの「果たしてどうなるの?」という部分です。

これからの国際情勢も、無視できない激動変化の局面、一丁目一番地にきているようです。なにも「AI」の脅威は国内の労使関係に影響するだけでなく、むしろ外からやってくるとみたほうがいいでしょう。外資がどんどんと日本に入ってきて外圧によって国内の雇用や生活スタイルの変化を余儀なくされるシナリオも十分に考えられるところです。
「ビッグデータ」といくら連呼しても、それらを本当の意味で所有していくのは、「GAFA」といった巨大IT企業でしょうし、米国企業だけでなくとも、多くの人民と一党独裁という比較的行動判断の早い組織を持った中国の存在でしょう。今や「ファーウェイ」などは無視できない巨大存在になりつつあります。そういった企業が直接的に、あるいは手を変え品変え名前変え、日本企業の仮面をときには被りつつ進出してくる、または日本企業を影響下に置くことも十分に考えられます。
国際的な情報管理ルールも含め、今以上に国際的な土俵でしっかりと戦えるリーダーが必要となってくるでしょう。そのためにはインテリジェンスをしっかり備えたリーダー、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材がますます必要となってくるでしょう。
それは発音が多少悪くたって構わないのです。重要なのは内容のある発言ができることであって、セクシーだとか、中高生が友達同士でフランクに話すような会話言葉や軽い内容なんかではないのです。そのあたりは以前に投稿したものにも少し触れていますので興味ある方は覗いてみてください。

さて、「AI」が人を凌駕し、自我のようなものさえ備えうるのかというところですが、今のところ映画に出て来るようなアンドロイドが現れて人間に代わりうるかということの可能性は少なそうです。あくまでも人間らしいプログラムを真似できるものは出て来るかもしれませんが。
人とその真似をするアンドロイドの決定的な違いは何でしょうか。
それは、「迷うこと」、「間違えること」、「思いがけない気づき/発見ができること」あたりではないでしょうか。
今のところ、この部分を人工知能が真似することは難しそうです。

「お笑い」なんかの面白いネタなどはもしかしたら作れるのかもしれません。それは過去の膨大な「お笑い」のネタなどのデータをインプットさせてある種の法則、例えば、予測を裏切るフェイントとその後の安堵感が笑いのカタルシスを引き起こすのなら、そういった例文をたくさん組み合わせればできるのかもしれませんし、人が笑い感じる箇所の特徴量をたくさん抽出する術があればもっと進化するかもしれません。すでにそういったものの尻尾もあるのだとか。でもやっぱりつまらなそうですね、そういうの。わたしは人間が作った笑いが一番だと感じます(わかんないけど)。
でも、AIには今のところ、人間が全体的な感覚で「何かおかしい」と感じる違和感を再現させることは難しいようで、あらゆる違和感の元となる特徴を人は総和で感じ取れるがその特徴がそもそも何かがわからなければ特徴量を抽出させるプログラムを生成することができない。おそらくそれは非常に細かい因子を感じ取っているのであり、それを機械に覚えさせるのが困難なようです。もしかしたらそんな課題も科学者たちは乗り越えていくかもしれないですが…。
そういった細かい因子を感じ取れるから人は違和感を感じ取れる。

その一方で「迷うこと」については、これも人の持つ特性だと思いますが、これに関しては、「間違うこと」と密接に相関しているので、間違いを克服していく作業である試行錯誤(Try&Error)というのはまさに「迷うこと」そのものといえます。
ところが、「迷い」は人間だけのものかと言えば少しドキッとすることが起こりました。
1997年頃にチェスのチャンピオンだった「ガルリ・カスパロフ」とスーパーコンピューターの「ディープブルー」との対戦があって話題になりましたが、当初はカスパロフが勝ち、次はディープブルーが勝つという結果でした。興味深いのはその対局中にカスパロフが仕掛けた罠の一手に対して、既に最適解としての一手を選んでいたディープブルーが一瞬躊躇し、なんと迷いの行動をとったというのです。
結局、直前に手を変えて罠を回避したのですが、人が後ろで操っていたのではないかと思われるような出来事でした。その当時のレベルのコンピューターでも迷いを見せるという行動をとったということですから、なんだAIでも迷うではないかということですが、これはチェスという限定的な制約下のなかでの現象ですから、もっと複雑怪奇な世の中のすべてにあわせて迷うということをはめ込むことは難しいのではないかと思います。最先端のAI事情ではもしかするとずいぶん進んでいて、総合的に世の中の事象すべてに「迷う」という試行錯誤をして自動学習していくというものが現れてくるならば本当に脅威かもしれません。

「間違いをおかす」こともまた人の特性なのでしょう。
人間は間違えることによって学習を繰り返すものだと思います。
間違えたことなどないと言っている人間でも、実のところ思考の中で激しく試行錯誤を繰り返して答えをみつけるという作業を繰り返している筈でしょう。
つまり、間違い間違いといっているがどんなことでも初めて出くわすものもある訳であって、それを過去のパターンから類推して正解を見出しているに過ぎないのでしょう。しかしパターンにも限りがあり万能ではないのですから、パターンを増やすということは結局のところエラーに出くわすことの連続ということでしょう。小さな取るに足らないエラーをたくさん踏むことによって大きなエラーを回避しているだけで、俗に「間違い」といっているものはその大きなエラーのことを指し、人間が生きることそのものは「エラ―の繰り返し」だといってもいいと思います。人工知能は人が組み込んだ定義に基づいて判断するプログラムであるのだからその正しい定義に基づく限りほとんどエラーはない。間違えるとすれば人間側の正しさの定義が揺らぐときだけなのでしょう。

最後に、「思いがけない気づき/発見が」できること」についてですが、童話に「スリランカ(セレンディップ)の3人の王子」というものがあって、それは「セレンディピティ」の語源となっている物語であります。
「セレンディピティ」とは、<偶然または聡明さによって予期しない幸運に出会う能力>とありますが、<ふとした物事から別の価値を感じ取ったり、ひらめきを得たりすることから、思いがけない僥倖に出会うこと>とも言います。
物語はスリランカの三人の王子が旅をし、その途中でいつも意外な出来事が起こり、そこから意外な何かを偶然に発見するというものです。
王子たちの謙虚さや聡明さからいつも思いがけない発見をするところがこの物語の趣旨であり面白いところですが、たとえば王子たちは旅の途中に、「ラクダがいなくなってしまって困っている男」と遭遇しますが、王子たちはそこで見たことのないラクダの特徴を言い当ててしまいラクダ泥棒と間違われてしまいます。
王子たちはそのラクダが、<右目が見えない>、<歯が一本抜けている>、<足が悪くてびっこを引いている>、<バターと蜂蜜を背負っている>、<妊婦の女性を乗せている>などと類推しているだけなのですが、すべて的中していたので泥棒扱いされるのです。
結局は冤罪であることがわかり釈放されますが、なぜわかったのか問われたときに、<歩いてきた道の左側の草だけがあまり美味しくない草にもかかわらず食べられていたこと>、<草の食べられた跡からどうやら歯が一本欠けているとおもったこと>、<道に片足を引きずったような跡が続いていたこと>、<道に蟻の行列があり恐らくバターにたかっていたこと>、<もう一方の道に蠅がたかっていたので恐らく蜂蜜があったこと>、<ラクダが座った跡の近くに女性が隠れて用を足した形跡があったこと>、<女性が座っていたであろう跡に手の跡が深く付いていて恐らく妊婦が座って付いた跡ではないかと考えたこと>を述べています。
発見を導くには偶然に目にしたものに対して、いかに想像を飛ばすことができるのか、常識というものからいかに離れて発想を転換することができるのかというところが大きいでしょう。考え抜いた先に、まったく関係ないところから答えが降りて来るということは本当にあるのでしょう。
こう思えば、「間違い」という因子の集合体を転化させて逆転の発想をおこなうことができるのが人の最たる特徴であるといえるのでしょう。
ニュートンがりんごの落下の先に見つけたものを、
アルキメデスが感じた「エウレーカ!(ユリイカ!)」を、
AIは果たして見つけることができるのでしょうか。
芭蕉が感じた静寂を蛙の飛び込む水音に変換することが果たしてAIにできるのでしょうか。そしてその静寂の世界観に共感することができるのでしょうか。
「今日は寒いからお鍋にするので材料を買ってきて」と言われて、指定されていた材料、たとえばお魚のタラが売ってなかったとしたら人工知能ではエラーとして買わずに帰るかもしれないが、人間の場合はその経験や関係性を考慮しながら機転を利かして別の素材を買って帰るかもしれません。

本当のところの「シンギュラリティ(技術的特異点)」がもしあるとするならば、この領域、「セレンディピティ」のポイントに入ったとき、つまり、<一見、間違いであろうところから新しい価値を発見していくことができるようになるポイント>に達したそのときではないでしょうか。
もしそうなれば、それこそが事実上の「シンギュラリティ」であり、
そしてそれはまた、人の世の謳歌がいよいよ終了するような世界の出現であるのかもしれません。


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West side Nod

読書やコラム、記事、見聞したものに対して徒然に書いてきたいです🙂。omnivore(雑食動物、乱読、広く興味を持つ)なるままに。現代詩好き。茨木のり子、吉野弘、石垣りん、高橋順子、馬場あき子、河野裕子等。歌は洋楽AOR系が好き、青春はMTV、渡辺美里、大江千里。

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