見出し画像

言葉と時代感覚

**手向けるやむしりたがりし赤い花 (一茶)**

小林一茶の句ですが、そのままよめば
〈手向けよう。むしりたがった赤い花を〉
という事で、これを現代の感覚で理解するのはやや難しいそうです。

わたしは下手の横好きではありますが、短歌や詩、最近は俳句にもチャレンジして、たくさん書いていればいつかは人の心にも自分自身にも心底納得がゆく作品がつくれるのではないかと日々(いや、少し怠けつつ)あーだこーだと心に浮かんだものを捉えては言語に変換するという作業をおこなっています。

作品をつくるときに少し耳慣れない言葉を使う場合には、それが特に人口に膾炙していないような場合に作り手と読み手とのすれ違いが往々にして起こることがあります。
私自身が当たり前に知っている、つまり相手にも伝わるだろうという言葉がときに伝わらないことにときどき衝撃を受けるのですが、これはわたしが語彙があるということではなくて(わたしのボキャブラはとても少ないです)、共通感覚に対するお互いの溝というものが思っている以上にあるのだなということへの正直な驚きのことです。

昭和の頃は今とは違い、情報メディアにそれほど選択肢が用意されてはなかった。それでも当時は少ないとは思っていなかったのですけどね。
テレビやラジオ、雑誌も数多あったにはあったが、ミリオンセラーも結構あった時代、つまり多くの人が同じものを共有して楽しんだ時代があって、概ね同じものを見たり聞いたりしてきたという共通経験があった時代、北海道に住んでいた人でも、沖縄に住んでいた人でも地域性の違いからの多少の異なりはあるものの、大体において似たような価値観を形成してきたような錯覚を持っていて、それは文化的な共通項がバックグランドにあるという思い込みがあるので、日本全国どこへいっても日本人だという感覚をもってどうも安心していたわけなのですが、最近はというと、本当に錯覚だったのではないかとおもうこと頻りなのです。

それは世代間のギャップというもので片付けていいものかどうか、何気ない日常言葉のつもりで発した言葉がもはや私のおもっている言葉として通じない場合があることに焦りさえ感じるのです。
古い人間になってしまったのだろうか、そんなことはなく普遍的な言葉があるはずだ。それを紡げばよい。でも普遍的な言葉ってなんだろう。
もはや言葉に帯びる温度も湿り気も色も匂いも味わいも音も連想も共通項として実のところ共有できなくなっているのではないか。

例えば季語というものがあり、俳句にはもちろん、短歌でも和歌であれば特にこの季語の制約があるのですが、この季語ひとつ取っても、季節を強く受け手に思い浮かばせる力があるのかどうか、もはや古過ぎる言葉は古歌に相当に馴染んでいる人にしか届かないものであって、今を生きる多くの人に馴染む現代らしい季語を探さなければならないのか。
季節を強く感じさせる虫や植物、自然現象、季節の行事や風習などが常に身近に感じられた昔々と違い、現代はとくにそういった風物詩と遠ざかっているように感じます。

逆に、だからこそ伝統的な古い言葉を使い、美しい日本語の表現を遺してゆくべきだろうかと考えたり、一方で、時代は変化し人びとの言葉に帯びる感覚も変化しているので、古語ではなく現代ならではの新しい言葉選びを以て表現をしていかなければ今を生きる人たちには響かないかもしれないという懼れが同居しているような状態になりました。

人びとの「島宇宙化」がどんどん進行しているようにもみえ、ひと昔前はマスの時代と呼ばれ、乱暴に言えばある程度ひと塊であった時代ともいえますが、今は多様化多様化の時代、個性的であるとともに、共通言語をもたない、いや表面的にはもっているが言葉への感覚が、言葉に帯びる感情や背景の捉え方が、微妙にズレているかもしれません。

そう考えれば、俳句や短歌、それから詩などをつくるのはますます大変な時代なのかもしれません。
短い表現方法だからこそ言葉に帯びる共通感覚に依存する部分が多い。だから解釈違いなどは頻繁に起こりえるかもしれないし、お互い理解ができないことが増えるのかもしれない。まるで外国文化を理解するような深い断層がそこに横たわっている感覚です。
先ほど、詩や短歌、俳句などは、言葉が帯びているだろう共通感覚に依存する部分が多いといいましたが、裏返せば、まさにそれ故に時代の空気感を帯びやすく、時代を反映しやすいものでもあるのでしょう。

最近、noteで現代語をつかった俳句表現について思うところがあり、ときどき慣れない俳句を作っちゃたりしています。
わたしのはずいぶんとお茶らけている作品が多いですがね。
慣れない俳句だけどやってみようと思ったのは、表現の限界について考えていたところに、まさに現代語でよりよく表現していこうとする考えに感じるところがあったからです。
実際に創作してみると躓きを感じることしばしばで、これは才能ないのかなぁと嘆息もしていますがぼちぼち愉しく創作に勤しんでいます。
なかでも、これこれは現代語で、これこれはもはや古語だという線引きが私自身よくわかっていなくて、感覚的に発する自分の言葉も、いやこれは現代語といえるのかどうなのかと迷うことが多く、結局は感性のままに作ったりする。作って後になってから、「なんだかマッチしていないなぁ」と自身の作品に後悔を感じてしまうのです。
どうしてだろう、現代語、口語に文語をくっつけているせいかな、あれれ文語が入っちゃってたなどと悶々することが多いのです。
勢いで投稿したものには現代語といいながら文語が結構入っていて消そうかとも思いましたが、まぁこれも作ってしまったものだからと出しっぱなしにしていますが...。あきらかにこれって現代語といえないなぁとおもった作品は後からさりげなく現代語と冠するハッシュタグを消しました。
とにかく、いずれにしても自分自身がずいぶんと文語の呪縛から逃れられないでいるのだなぁということだけは再認識できました。

繰り返すようですが、現代語で俳句をよむという行為を通じて、ひとつだけわかったのは、想像以上に自分は歴史的仮名遣いというものに馴染んできていたのだなぁということです。
逆説的ですが、現代語というものの制約のなかで句を紡ぐということに挑戦してみたときにかえって歴史的仮名遣い、もう文語といってもいいでしょうが、この培われてきた日本語表現の豊かさをかえって意識する。やはり日本語は素晴らしいなと思うのです。

表現バリエーションの豊かさ、「花が散った」という表現ひとつとっても、文語を加えると一気に表現方法が豊かになります。「散りけり」、「散りし」、「散りたり」、「散りぬ」等々…。
古い言葉はもちろん現代に生きる人びとにあまり馴染みがなく、新しい言葉の地層が積み重なるたびにどんどん古い層となり、目に触れにくいものとなりますが、発掘したときにこんな豊かな表現もあったのだといっきに知れわたるときもあります。
「僥倖」などは将棋の藤井聡太七段が使ってよく知れ渡りましたが、豊かな表現言葉は他にもたくさん過去の地層に埋もれています。
たとえば、「にれかむ」は<モノや言葉や想いについて、噛んで一度飲み込んだものを反芻する>という意味ですが、消えゆく言葉としてはもったいない豊かな表現だと感じます。
また、SEXについての性愛を表現する日本語としても、「睦び合う(むつびあう)」というものがありますが、とても美しく崇高なもののように感じますよね。「玉響(たまゆら)」は<玉が鳴り響くようなほんの短い間>を表しますが美しいですし、「まにま(随)」は成り行きに任せる・委ねる様の(ままに)や、(~つれて)、(~ともに)といった連なりの動きを表すことができる豊かな表現です。「まにま」はときに「間」といった意味の誤用がTwitterなどで見ている短歌や俳句にときおり見受けられるので、古語を使うときはよくよく注意しないといけませんね。自戒も込めて。
また、「木漏れ日(こもれび)」や「陽だまり」もこれは現代でも日常的な言葉なのかもしれませんが、繊細でなんともいえない詞藻ある表現の言葉です。ほかにも、「しず(づ)もる・しず(づ)もれる」、「たゆたう」、「さやか・さやかに・さやかなり」など枚挙にいとまがありません。
いずれにしても、敢えて制約を意識して言葉を紡ぐということは、感覚だけに頼らず、言葉についてよくよく注意を払うことになり、字引きをしっかりと意識するようになるので、こういう試みは口語(現代的仮名遣い)の時代空気をよく孕む特性や、文語(歴史的仮名遣い)の豊かな表現を発掘し直すいい機会なのかもしれません。

話が元に戻りますが、冒頭の一茶の句は、まずはこの句が一茶の可愛がっていた幼い娘が病気で亡くなったという背景を知らなければ意味が伝わりにくいものでしょう。
可愛がっていた娘の死を歌ったものでありますから、歌全体に悲しみの抑制が効いていることがよく感じ取れます。
しかし、それだけではないのです。
どうして、<赤い花をむしりたがった>ということが殊更にクローズアップされているのでしょうか。

これは、社会学者の見田宗介さんの『社会学入門』(岩波新書)に記されていたものからの引用なのですが、一茶の句を取り上げた、「感覚世界の考察」についての記述があったため、特に気になって取り上げたものです。

著者の見田さんは、そこに<現代の感覚とは違う世界の在り方>をみています。

一茶の生きた時代はもちろん江戸時代です。
センス オブ ワンダー( 自然や生命の不思議に目を見はる心、心理的感覚)がまだまだ人びとの心にしっかりと根付いていた時代には、
いきなり色をつけて咲く花は不思議であり奇跡であり、目に見えない「裏世界」に潜在していたものなのだという認識があったといいます

アメリカインディアンが、自分たちと白人たちとの差異を外見的な風貌などではなく、白人たちが、<平気で花を折るという行為>を以て、<自分たちとは違う者たちという認識>をしていたというエピソード、これはレヴィ=ストロースの『野生の思考』からの引用を紹介しながら、世界を認識する窓が現代的なそれとは決定的に異なる世界観があることに言及しています。

そこから、一茶の句を解釈する場合には、「最愛の娘の死」というものに加え、花をむしり取る行為自体が社会全体としてタブーであった時代感覚が必要であること、一茶とともに生きた同時代の人びとには共通感覚としてスッと句のもつ余情が入ってくるのに対し、現代に生きる私たちには説明されてやっとなんだか腑に落ちる感覚です。
もちろん、このまま素直に読んでも、<可愛がっていた娘が赤い花を欲しがっていたのだなぁ>というところから、句の素晴らしさを認識することはできます。
しかし、前提としての世界観が、現代人の持つ感覚と決定的にズレていることは、非常に大きなクレバスがそこに横たわっているようなものです。
見えているけど、そこはもう渡れない世界。
もう一度、よんでみましょう。

手向けるやむしりたがりし赤い花 (一茶)

同様に、私たちがいまの感覚を総動員して作り上げる表現は、もしかしたら、ちょっと先の未来には理解が及ばないものになっているかもしれない。
そんなことは、世代間の会話をひとつとっても、たとえば今の20代と40代が話す会話であっても、すれ違いはきっとあって、実は若い人たちはその会話に出てくる言葉や例え、笑いの意味を実はあまり理解できていないことが多いのではないのでしょうか。
このような断絶は昔もあったのかもしれません。私が若い時分でもやはりあったのでしょうが、その差がどこまでのものか、なんとなくではありますが、上の世代の話すことが、今の若い世代が感じるほどには理解不能だとまでは思わなかった記憶があります。
しかし、今はどうでしょうか。少し自信がありません。

話は変わって、江戸の頃というのは、各地での方言がまだ色濃く残っていた時代、たとえば、日本の北と南の地域の者同士が互いに会話すれば、お互い外国語のように聴こえたといいます。
私も、父方の田舎は秋田なので祖父母と会話すれば時折、外国語を聴いているような感覚になったものでしたが、それよりもさらにもっと別の言語のように感じたのではないでしょうか。
そのようなお互いのコミュニケーションが困難な中で、広く日本全土で親しまれた謡曲などが媒介となって共通言語のような役割を果たしたといいます。想像すれば謡曲の節回しのような感じでお互い話し合っているのですから少し可笑しみさえ感じますが、それほど幕藩体制というものは地方の個性を遺したままの緩やかな封建的連立政権の体制だったということなのでしょう。

それでは現代はどうでしょうか。言葉自体は標準語があるのでコミュニケーションは問題なく日本人同士とることはできていますが、島宇宙化している、つまり個々のコミュニティが小さく小さく乱立していく中で、日常のコミュニケーションは表面上問題なくとれるものの、言葉ひとつひとつに感じるものの差異、言葉の奥にひろがる世界をどこまで共有できているのか、それは確かに共有できるものなのか、私自身、実のところそれはとても頼りないものなんじゃないかと折々に感じてしまうのです。

幕藩体制時代の謡曲のように、どの世代もどのコミュニティも串刺しにするような共通する何かがそこに新たに必要になってくる時代が到来しつつあるのかなと思ったりするのです。それはもしかしたら私だけが感じる杞憂なのかもしれませんが。
同じ時代に生きながらも、同じ世代に属していながらも、また、同じ地域にいながらも、同じものを見て、同じものを聴いて、同じものを読んでも、そこにあまりに違うものを感じる。同じステージに立ちながら、違う世界観の中をそれぞれに生きているということが起きてくるのかもしれない。
ひと昔前ではなく、いまこの時点において深いクレバスが横たわること。
それもまた杞憂なのでしょうか...。

以前に、テレビ番組で女子高生3人が会話するその内容をあとからそれぞれに検証して、同じ言葉を発していたにもかかわらず、実は三者三様で言葉に込めていた感情が違う結果だったというものがありました。
それは「ヤバい」(もう古い?)という言葉を同じ対象について使っているものでしたが、ひとりは「可愛い」という意味で、もうひとりは「怖い」という意味で、最後のひとりは「うっとおしい」という意味で使っていたことが後でわかりましたが、不思議な事に会話としてはなぜか成り立っているというものでした。
コミュニケーションは表面的に成り立つのですが、言葉の背景にもつ意味がまったく違うというこの差異にとても驚愕したものです。

言葉は多層化する。
「鳥肌が立つ」といえば恐怖を表現するものでしたが最近は感動の表現にも使うようです。このように時代に伴い意味が増える言葉もあります。これは極端な例かもしれませんが、このようなスレ違いが言葉による表現世界ではどんどん起きてくるとおもえば、どの世代、どの時代でも通用しそうな普遍的な感情を孕む普遍的な言葉を探し選んで使ってゆくべきなのか、それとも現代の流れてゆく言葉を掴んで、それをもって紡いでいくことが時代を切り取るということなのか、とても考えてしまいます。
あらためて、今使っている表現が果たして、どこまでの人々に届き、どこまで共鳴しているのか、不安で堪らなくなります。

最後にもう一度、しつこいようですが一茶の句と、見田宗介さんの著書から一茶の句の解釈とおもわれる箇所を引用します。

手向けるやむしりたがりし赤い花 (一茶)

花はこの世にいっぱいに咲き乱れている「ヒエロファニー※」、感動と畏れに充ちたものたちのひとつだった。日本でも江戸時代まではたとえ幼い子供であっても、花をむしることは止められていた。死んで「あの世」の存在になったときに初めて、花は手向けてもらえるものだった。あんなにもむしりたがっていた花だよ。今やっとお前に手向けてあげることができるよ。と、一茶は最愛の娘に話しかけている。

※聖なるものの顕現

一茶の時代に生きた者がこの句をよめば、「赤い花」と同じセンス オブ ワンダーの「見えない世界(裏世界)」に行ってしまったんだ。だからもう手向けられるんだといった、裏世界の不思議の発露である「赤い花」と、早逝した最愛の子が実はリンクしてくるような感覚となっていたのではないかと、これも結局はその時代人にしかわからないのでなんともいえませんが、そのようなことが言葉そのものの中に広がっていた、世界観として在ったのではないかと考えた次第です。

話はいったんまた戻りますが、今、意識するようになった口語表現と文語表現について考えれば、それは、
現代語(口語)でつくるのは今を生きる人に届く言葉であるから。
古語(文語)を使うのは伝統的な言葉の美しさを再発見するため。
と乱暴に自分自身のなかで整理をしました。
もちろん、もっと細かい話をしていけば、いろんな意見が百出するので、専門的な話はいったん脇に置いての個人的な素人実感というところの話だということにしておきます。

現代的仮名遣いと歴史的仮名遣いの組合せ表現が今のところ違和感を感じるため、一般的にも気を付けて組み合わせていく方が良いといわれています。
わたしも確かにそのようだと思います。できているのかどうかは自分のことは棚に上げておきますが…。
しかし、なかにはときどきマッチするような組合せも出て来るので言葉の世界は不思議です。なるほど、現代的仮名遣いと歴史的仮名遣いも時代変遷とともに、変化していくものであろうから、その変化にあわせて、今は違和感を覚える組合せもいつかは違和感なく感じるときも来るのでしょうか。

新しい(そういえば、「あたらしい」も元は「あらたしい」であったそうですね)言葉はその時代性を。
古い、古くなりゆく言葉には温故知新のような感覚表現の発見が。
古い言葉も現代のなかで頻回に使用されればそれはもう現代語という領域にはいっていくのでしょうか。
口語も文語それぞれに長所があるので、表現の世界ではうまく使い分けてゆけばよいと個人的には思っています。
そして、いろいろな表現方法を模索していく挑戦者たちが現れて言語表現の開拓をどんどんとおこなっている。それもネットという新しい媒介を通じて急激に伝播していく。俳句・短歌や詩の世界にとって、今まさにとてもエポックメイキングな時期なのかもしれません。
この情報の海のなかで今まで想像もしていなかった言葉の総量やり取りがおこなわれている。そこでは、新しい言葉を生み出すことも、古い言葉を表現においてリライトすることもおこなわれゆき、そうしてまた、これまでのように残るべき言葉が残ってゆくのでしょう。

一方で、言葉それぞれに帯びる共通感覚には微妙な差異があって、それはいっとき文字通りのマスを対象としたメディアが台頭したときに、みんな同じ言葉或いは文脈に同じ世界観を共有できているという錯覚を与えてきましたが、つまり、表面の地層がなんとなくだいたい同じ地層を形成していて、それで同じだと納得していたけれども、実のところ、人それぞれに千差万別な彩りがあるというところ、つまり表面地層のさらに下の地層はまったく違ったそれぞれにバラバラなものであったのがそもそもの実態であったものそれが、「個の時代」、「島宇宙」といった小コミュニティ乱立の時代到来によって、いよいよ露出しただけのことかもしれません。

もはや、同じ基底を成していたようにおもえた表面地層は新しい風に吹き削られてしまい、今や千姿万態な価値観の地層が露わになった世界。
そこに橋を架けられる表現を考えるとき、それは文語や口語の使用に際しての意識がけはもちろんですが、言葉そのものの持つ意味・背景・奥行きが時代とともに変わる意味を考えていくことも念頭に置いて記述することも必要かもしれません。
この内容はたった今生きている者、さらに特定の層にしか通じないがそれでもいい、そこで強烈に訴えたいものなのだというものもあれば、
いや、やはり後世に残る普遍的なものであって欲しいと願うのか、実はそんなものはないかもしれませんが、それでもそこを念頭に置き、作品を紡いでいくのか…。悩ましいところです。
一体全体、どう対応してゆくべきかとなれば、やはり豊かな表現をもつ言葉を掬い出し拾い集め、どんどんと世に出してゆく、結局これに尽きるのではないでしょうか。豊かな表現であれば、幾世代を経てもやはりその持つ豊かさは再評価され、生き返り、輝きを放つのではないでしょうか。

「ミーム」という文化的な遺伝子概念があります。観念の世界の遺伝子ともいわれているものですが、人の脳のなかにこびりつくように幾世代にも渡って生き残っていく概念、特に伝達手段の多く過密な地域・国家で「ミーム」は進化するといいます。
今朝、ラジオでベートーベン(LvB)はロックンローラーだと言っていました。なるほど、『Roll Over Beethoven』という曲も昔ありましたね。
そんなLvBの交響曲の通称「運命」などもこびりついた強い「ミーム」だと言われます。芭蕉の有名句もやはり日本限定で強く残った「ミーム」でしょう。芭蕉が現在の日本人の価値観や言葉に残した影響は計り知れないものがあります。また、行為としておこなわれてきたものでも、その本来意味を失って観念だけが残っているものも、たとえば各地の祭りや儀式・風習などもやはり「ミーム」といえるのでしょう。
いきなり、「ミーム」なんていう観念的遺伝子の話が出てきましたが、言葉と時代感覚というものも、「ミーム」というものに置き換えて考えれば、その時代の本来意味は失われても、観念としては生き残るということがわかります。
生物遺伝子があたかも生物をコントロールするが如くみえるように、文化的な遺伝子である言葉もまた、それ自体が生き物のごとく私たちの脳にこびりつきながらその生存をはかっているかのようです。
まるで、私たちが言葉そのものを操っているのか、言葉そのものが私たちを操っているのか。

こんなことを書いていれば時折、頭がおかしくなりそうです。

これだけ一気呵成に書きなぐっておきながら、

結局、何がいいたいのか訳が分からなくなりました…。

また、思考が拡散する悪い癖がでました。

とりあえず、「ミーム」のせいにしておきます。

それから、現代語俳句と自由気儘にやっている短歌は
とりあえず頑張ります。

失礼いたしました。








この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

ありがとうございます(*´▽`*)
39

West side Nod

読書やコラム、記事、見聞したものに対して徒然に書いてきたいです🙂。omnivore(雑食動物、乱読、広く興味を持つ)なるままに。現代詩好き。茨木のり子、吉野弘、石垣りん、高橋順子、馬場あき子、河野裕子等。歌は洋楽AOR系が好き、青春はMTV、渡辺美里、大江千里。

単にエッセイ

エッセイをはみ出しませんでした… いやエッセイなのかそれすら怪しい… なんか歌まであるぞ… もやもやしてるけどこれはエッセイなのである。えいっ!
1つ のマガジンに含まれています

コメント10件

しかし口語や現代語というものはまさに噴火で新たに生成されつつある新島のようなもので、グツグツと煮えたぎった時代を最も顕わしやすい魅力をもった表現ともいえますよね。不完全だけどそこにもまた新しい豊かな言葉の若い芽があると思えば現代語で新たに表現方法を確立していくという試みも昔がきっと新旧言葉が現れ消えまた混じり合い変性するといったダイナミズムがあって今の古語もあるのだと思えば、現代語で詠むこともまたそんなダイナミズムの一環とも思えるのです。私もその辺りのサビ分けが今ひとつしっくりこないところはありつつも挑戦しがいある面白い試みだとも感じています。
また、お互いなどと言っていただき嬉しいです❤️。翠さまの詩や短歌、俳句は、一通りくぐってこられた上での遊びや年輪を感じるので私が同列に語れる様な立場ではありませんが、noteという場を通じ勉強させていただく意味でちょっとでも翠さまに近づけるよう頑張っていきたいと思います。ただやはりこんな事書いておきながらも季語などあって俳句苦手なんですよね〜。kusabueさんとの表六句なんかみればまるでラグビーワールドカップの決勝トーナメント観ているようでした...。特に俳句は自分なりにコツコツと頑張っていきまーす😓。
おはようございます😃
実は今、草笛さんと18句の連句、半歌仙に挑んでるんですよ。
数日かかると思います笑
もしよかったら覗いてください笑笑
ここのコメント欄です😬

https://note.mu/kusabue/n/na45353c2907c
おおおお〜💦十八句!すごいですね。また結果たのしみですー。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。