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アズーリの10年を振り返る #02

プランデッリ改革の始まり

南アフリカでの惨敗を受け、大国の復権を託されたのはチェーザレ・プランデッリだった。フィオレンティーナで若手の才能をチームの好成績に結び付けてきた智将はリッピの後を引き継ぐと、チームの改革に着手する。

プランデッリによる改革の特徴を列挙すると以下のようになるだろう。

・技術的なクオリティの重視
・ボール保持と攻撃の組み立て幅に優れた中盤の構築
・帰化選手の積極的起用
・ファンタジスタへの信頼
・ブッフォンとピルロをチームの柱に

特にピルロを軸とした中盤を攻撃の起点とすることが明確になっており、彼の能力が発揮される中盤の構築に取り組んでいく。

また守備陣ではカンナバーロやザンブロッタが代表を去り、ボヌッチとキエッリーニが軸になった。この2人にベテランのアンドレア・バルザーリを加えたいわゆるBBC(バルザーリ・ボヌッチ・キエッリーニ)はブッフォンとともに、アントニオ・コンテ政権のEURO2016まで、ユベントスとアズーリの堅牢な守備陣を形成することになる。

監督就任直後、プランデッリは休暇中のリッピのもとへ赴き、アズーリ指揮のレクチャーを受けたようだ。新監督は前任者の声を聞いてブッフォンとピルロをチームの柱に据えることを決めた。ブッフォン、BBC、ピルロ、マルキージオといった、プランデッリの古巣でもあるユベントスの選手を屋台骨として、前述の特徴あるチーム作りを始めたのである。

ピルロの才能を活かすための中盤

改めて説明するまでもなく、ピルロはパサーとしての圧倒的な能力を持つレジスタ(演出家)である。ボールキープ能力も高い。しかしその一方でフィジカルコンタクトが弱点であり、その才能をもってしてもトップ下のポジションで活躍できなかったのはそのためだ。厳しいマークを受けるポジションには不向きなのである。また同じ理由で、巧みなポジショニングができるにも関わらず、守備力が高い選手とは言えなかった。

それでもなお、希代のレジスタが攻撃のタクトを振るうことはアズーリの必須事項。そこでプランデッリはピルロの周囲にデロッシ、マルキージオ、そしてフィオレンティーナの愛弟子モントリーボといった選手を配置していく。

彼らがピルロの周囲に配置された理由は、豊富な運動量による中盤の守備力の安定と、厳しいマークに曝されたピルロからボールを預かり、安定したポゼッションを実現できる高い技術だろう。レジスタとして長く活躍すれば、ピルロは当然相手チームの厳しいマークを受ける。そうした中でピルロからボールを預かり、走り回ってパスの選択肢を増やし、パスワークで中盤を支配するために選ばれたのが彼らである。

W杯ドイツ大会やEURO2008でピルロの脇を固めていたのは、ガットゥーゾやアンブロジーニだ。彼らはピルロの守備力を補うには最高のパートナーである。しかし攻撃面での貢献度は守備ほど高くなかった。その分、攻撃の役割はフランチェスコ・トッティやデルピエロ、カモラネージに委ねられていたとも言える。

プランデッリ政権のアズーリには、少なくともスタートの時点ではトッティやデルピエロのようなタレントはいなかった。しかしプランデッリが起用したデロッシやマルキージオは攻守両面でピルロを支えられる現代的なミッドフィルダーであり、中盤の組織としては前任者の時代より進化したものであった。

帰化選手の起用とファンタジスタへの信頼

ビルドアップと前線への配球はピルロに託されたが、前線でのアタックを任されたのはアントニオ・カッサーノとマリオ・バロテッリである。悪童として知られるこのアタッカーコンビは、EURO2012でイタリアの復権に大きく貢献することになる。

バロテッリはガーナ移民の子としてパレルモで生まれ、バロテッリ家の養子となって育った。その出自ゆえに人種差別などに苦しんだ彼は、数々の問題行動を起こすなど悪童として名を馳せた。しかしテクニックとパワーに優れるこのアタッカーを代表のストライカーに据えたプランデッリは、悪童との巧みなコミュニケーションを通じ、その才能をチームに取り込んでいく。

バロテッリの他にも、ナイジェリアにルーツを持つアンジェロ・オグボンナやブラジル出身のチアゴ・モッタといった選手がプランデッリによって招集されている。どちらもアズーリで正ポジションを掴んだとは言えないが、プランデッリの改革を象徴する選手となった。

カッサーノは、地元バーリから10代で頭角を現した天才肌のアタッカーであり、悪童としてバロテッリの先輩と言えるような経歴を持つ。ドナドーニ政権下でEURO2008には出場したものの、規律を重んじるリッピが彼を招集しなかったのは当然だ。

しかし、プランデッリによって前線での攻撃における自由を与えられたカッサーノは輝きを取り戻し、ファンタジスタとしてEURO2012予選突破に大きく貢献する。2010年にカロリーナ夫人と結婚し、翌年に一児の父となって素行面も落ち着いた「元」悪童は、アフリカにルーツを持つ若き悪童とともに、アズーリの攻撃を牽引し始めたのである。

そしてEURO2012へ

こうしてチームを刷新したプランデッリ率いるイタリアは、エストニアやスロベニアと同居したグループで危なげなく予選を突破し、EURO2012に臨むことになる。この大会でのイタリアについては後述するが、大会を控えた2011年の秋に、思わぬ事態に見舞われる。カッサーノに心臓疾患が見つかったのだ。幸い、手術も術後の経過も良好で大会の2か月前にはトレーニングに復帰できたが、攻撃陣には不安を抱えたまま開幕を迎えることとなった。

さらに大会前のテストマッチでロシアに 0 - 3 で完敗。メジャー大会に挑むイタリアを不安視する声を大きくしてしまう。毎度おなじみという印象にもなってきた八百長問題も重なり、ドメニコ・クリシートがチームを離れることになってしまった。

しかし、伝統的なスロースターターであり、重要なところをしたたかに勝ち抜いていくイタリアにとって、本番前の悪いニュースは吉兆だ。このことは、グダニスクでの本大会初戦で証明される。

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