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当たり前

大多数の人間が行う当たり前の行為だと分かっていても、活字に起こすと堪らなく気味が悪かったり、恐ろしかったりして、自己嫌悪を避けられない時がある。僕も、あなたも例外ではないと思う。

友人との別れ際、笑顔で手を振り踵を返した後、瞬く間に真顔に戻る自分。SNSで「笑」をつけようが、「😢」をつけようが、「!」をつけようが、目元も口元すらも微動だにしない自分。

「そうだね笑」「残念だよ😢」「またね!」

これらの文章が送られてきた時、あなたはどのような相手の顔を想像するだろうか。その予想と現実が全く乖離していたとしたらどうだろうか。顔に表れていなくとも、感情と文章は一致しているはず?本当に?もしも会話の相手が恋人や無二の親友であれば、きっとそうなのかもしれない。しかし、顔見知り程度、バイト先の先輩程度の、関係が希薄な他人とのやりとりならば?

僕やあなたが思うほど、他人は自分に興味がない。無関心を冷徹と言うならば、間違いなく僕たちは日常的に冷徹な感情を向けられている。そしてその冷徹さを容易く看過できるほどに、僕たちも冷徹である。

インスタに集合写真を載せて「最高のメンツ」だの「〇〇ちゃん可愛すぎる」だの煌びやかな言葉を貼り付けようが、LINEで絵文字を多用し感情を装おうが、実のところ僕もあなたも大半の他人に興味がない。2、3年後には顔も思い出せないくらい、他人は色褪せた存在になる。インスタに貼り付けられたそのガラクタは、自分の生活が充実していることを他人にアピールしたい人たちの、自己顕示欲の塊だ。LINEの絵文字は不快感を与えないための社交辞令だ。

観察者ぶってここまで述べたが、僕は僕でこの文章を綴り下卑た欲を満たしている。もしもこの文章を誰かが読んでくれて不快な気持ちにさせてしまったのなら、「お前もな」と僕を罵ってほしい。

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