置かれた場所で咲きなさい?

(※以下は私が大学院の講義で書いたコメントシートからそのまま抜粋した書きものである。)

これは人それぞれが自分の力を発揮するための環境を作る「場のデザイン」に対して、与えられた環境の中で自分を磨くことも重要ではないのか、という問いかけから生まれた議論である。まず、大前提としてこの議題における二元論的枠組みを乗り越えたい。つまりはどちらが良いのかという帰結ではなく、それぞれの主張を吟味する事を目的とする。

どんな環境であっても自分の力を発揮できる人は優れていると言えるだろう。与えられた環境に適応し最大のパフォーマンスを発揮できる人は、また別の環境に身を置いてもその環境に適応し自分の能力を発揮できる力を持っているかもしれない。そして人や環境を変えるという労力と時間のかかる行為を、自分が変わることで短い時間で解決に向かうことができる。支援がなくても自ら発展し、人のせいにも環境のせいにもしない姿勢は「場づくり」に対して重要な批判である感じた。しかし、ここで1つ考えたい。その与えられた環境で自分の力を発揮できない人は無能なのだろうか。その環境で輝けない人はどの環境でも輝けないのだろうか。「環境づくり」は人を見るものさし(視点)を増やすことであると私は感じる。人には得意・不得意があるように、輝ける環境と輝きづらい環境があると思う。不得意を伸ばすことに重きを置くことも重要だが、同様に得意を伸ばすことも重要ではないのだろうか。今ある環境が自分にとって輝きやすいのか輝きづらいのかは、多様な環境に身を置かなくては気付くことができない。目の前の与えられた環境が全てではなく、視点を変えればその人は輝くかもしれない。どんな環境でも適応できる人は当然優れているが、どんな環境でも複数のものさしを使って物事を捉えられる(環境を生み出せる)人もまた優れていると私は思う。なくてはならない違いを守るためには複数のものさしが必要になってくる。なぜなら1つのものさしでしか人を測れないとき、その評価は絶対的なものになるからだ。

いづれにせよ、この議題の中で見られた2つの主張は「自分の力を発揮できることが重要である」という点において共通であり、あくまでその手段が異なっているにすぎない。自分の力を発揮したいという気持ちに対してその変化する対象を「自分」に向けるのか「環境」に向けるかの違いである。与えられた環境で輝くことも1つの輝き方であり、自分を発揮できる環境を作りそこで輝くこともまた1つの輝き方ではないだろうか。ただ、与えられた環境で輝くことのできた人がその環境では輝きづらかった人に対して”無能”という総合的評価を下してしまうことには挑戦したい。



Wataru

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