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Dくんが大人だった話

大学4年の秋学期がおわり
残すは卒業となった今年2月半ばのおはなし。

自分は大学院に進学することが決まり
改めてゲーム作りに本腰を入れていたころ

敬語がつくる関係性で遊ぶゲーム

を開発していた。

当時ゼミ活動を一緒にやってきた
DくんとKさん。

彼らはインプロという
即興演劇を教育に取り入れる活動を続けていて
ぼくはそれをゲームにできないかと考えていた

なぜならぼくは
そのプロジェクトの1ファンであり
その活動をゼミに残したいと考えたからだ。

まぁそんなこんなで作っていたころ



ゼミを振り返る話になった。



「ぼくはゼミみんなで何か1つのことをやる。」という意思のもと、ゼミに関わってきた。

20名前後のメンバーで
何か企画を打ち出し
大学生、小中学生、高校生、大人
参加対象は「この社会に生きる人」と
広くゼミの活動を社会に届けてみたかった。

しかしそんな望みは結局
望みのまま終わってしまうこととなった。

コロナで余儀なくオンラインに切り替わり
そもそもゼミ生同士の対面での関わりが
薄まりぼくはそれに伴って存在感を失っていった。

自分がやりたかったことはなんだろう。

結局それぞれ異なる個性を
「力」に変えることが出来ずにゼミを終えた。


こんな一連の思いを当時
DくんとKさんと話していた。

そんなぼくの一方的な望みを聞いた
Dくんがそのとき、大人な対応をした。
もう、すごい大人だった。
どのくらい大人かっていうと
小学1年生から見た中学2年生くらい大人。


そのとき彼が言ったことは



「それはでも、Wataruの考えだよね」



ぼくはもはやちょっと度肝を抜かれた。
やられた。

彼はぼくの考えを批判もせず
彼自身の考えを話すこともせず
それについて質問することもせず
賛同することもせず
無視することもせず

「君の考えだよね」という


賛同でも否定でも議論でもない
「理解」を示したのだった。

まぁ本当にぼくの考えが
全部伝わっていたのかわからない実際。

話長いからこの辺で終わりにしようという
意図だったのかもしれない。

でも「君の意見だよね」という
その一言でぼくは完全に丸く落ちた。



大学院に入ってからというもの
議論の回数が圧倒的に多い。

自我が強い人が多い影響か
自分の主張と他者の主張を
二項対立するものと捉え
いかに自分の考えを伝えるかという環境に
なってきている。


でもその度にDくんのその一言を思い出す。

「それは君の考えだよね」

そう。そうなんだよ。

僕らの考えは二項対立ではない。
世の中にたくさんある意見のうちの1つ。

自分の考え方or相手の考えではなくて

自分の考え and 相手の考えという
本来交わる可能性のあるものなんだ。

どちらかが正しいとか
どちらかが合理的とかじゃない。

ある意味、どっちもその人自身の真理。

お互いに相手の良さを見つけ
組み合わせる作業が必要。


そんなことをいつも思い出させる。





「それは君の考えだよね」





Wataru


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