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表現とは

InnerActressCampに、9月17日から19日まで参加していました。

InnerActressCampとは「誰かの心を動かすためのリアルな表現力を磨く演劇ワーク」を行うものでした。

Inspiritワークの生みの親である中村麻美さん、脚本家さんが演劇の指導をしてくださり、女優さんが相手役になってくださるという夢のようなものでした。

参加を決めたのは、表現とはどのようなものなのか、私にもできるのだろうか。という興味からでした。

申込が始まってから、行きたい! と申込ボタンを押しかけ、でも、素人が参加してもいいのだろうか。表現ていっても、起業しているわけでもないし、表現することが何かに繋がるのだろうか。などと、参加したいと思いつつ、でも、と尻込みする日々でした。

参加申込をして会場に行く間までも、うだうだしていました。

会場に着いて、始まるのは演劇です。自分が役を演じるのです。

緊張が勝っていても、台本通りに台詞を読むことはできるだろうと思っていましたが、甘すぎました。

緊張して声は震えるし台詞は飛ぶ。しかも、相手を見られない。

見ているようで、視界に捉えているようでも、台詞を追うのにいっぱいいっぱいで相手が入ってこない。

自分の台詞を言うことだけを考えている、というのは、自分のことしか見ていないのと同じでした。

相手があるからこそ出てくる台詞であり、相手との関係性で生まれる台詞であり、相手との間にあった出来事から生まれた感情からくる台詞です。

それら、相手を介して生まれた台詞なのに、相手を見ず、相手を捉えずに言ったところで届かない。届くわけがなかったのです。

それは日常でも同じでした。

私は、相手を見ているようで見ていなかったし、相手の言葉に対しての反応、自分が言うべき言葉を探していたのかもしれません。

相手の言葉を本当に聞かず、何が言いたいのかを見ることもせずにいました。

相手に向き合わず、知ろうともせずに紡いだ言葉が、相手に届いていたのだろうかと思いました。

届いていたことが全くなかったとは思いません。少なからず届いていたであろう表現は、どう映っていたのだろう。あの人には、この言葉がどう届いていたのだろうかと考えました。

相手に届く表現。それは、相手がどうあるかなどではなく、私の側の話でした。

表現とは、誰かに向けて行うもの。

相手がいてこそ、そのものに興味を持って初めて生まれるもの。

InnerActressCampでは、自分が演じて、そして、参加されている方達が演じるのを見る。演技に対しての講評を聞く。の繰り返しでした。

自分が演じる時は主観的に、他の方達が演じている時は客観的に観ることで、そこにある表現がどのように伝わっているのかがわかりました。

自分が好意を伝えているつもりでも、相手に届かなければ意味がない。

声や態度だけでは表せられないもの。それが表現でした。


自分が何を伝えたいのか。何を思って、声や想いを届けたいのか。

どうして、これまで自分の思いが届きにくかったのか。

文字で伝えるとするなら、ありきたりになってしまいますが、

「言葉で説明できないから体験してほしい。体験すればわかるから。」

麻美さんが伝えたかったことに繋がりました。

頭でわかっていても、言葉にするのは難しいから、体感としてみてほしいのだということ。

そして、表現とは、表舞台に立つような限られた人が行うものではなく、人が日常に行なっていることで、難しく捉えられもするけれど、本来は簡単にやっていたことなのだと思いました。

常識や自分のキャラを作り上げてきたからこそ、できなくなっているのかもしれない。できるわけがないと、自分でがんじがらめになっている。

そして、自分の作り上げたものは、あくまでも作り上げたものであり、変えることもできるのだということ。

合宿当初は私には壁があったようですが(自覚なしでした。むしろ周りに対して好意的だとすら思っていました)、最終日には壁もなくなり、自然な表現ができていたようです。

相手に伝わる表現、相手に対しての自分の思いが伝わるのが表現です。

合宿だけで当たり前にできるものではないので、これからも思い返しながら表現していきます。

相手に伝わっているのは、自分が伝えたどの部分なのか。自分が伝えたいものは何なのかをです。


合宿に参加された皆様、麻美さんや講師の皆様、スタッフの皆様。

関わった皆様の表現で出来上がった合宿は、夜の座談会も含め、私にとってはとても得難いものでした。

台本から生まれるそれぞれの思い。表現される感情の形。一方向ではなく多方面から物事を観る、作り上げる姿勢。

表現とは、いつでも、どんな場面でも生まれるもので、自分を伝える最良の方法で。

時には恥に思えて出せなかったりもするけれど、出さずに引きずるよりも恥をかいてでも出したほうがいい自分であり。物事をなす可能性を一番諦めているのは、誰より何より自分だとわかった痛い時でもありました。

色々なことをひっくるめて、私の表現が見えた気がします。

次にお会いする時には、また違った表現が見えるようになっているといいなと思います。

ありがとうございました。

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