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アドパラと煉獄

しかして我等のこの處を廻りて苦しみを新たにすることたゞ一度にとゞまらず――われ苦しみといふ,まことに慰といはざるべからず
そはクリストの己が血をもて我等を救ひたまへる時,彼をしてよろこびてエリといはしめし願ひ我等を樹下に導けばなり.

(ダンテ『神曲』「浄火」第二十三曲)

 暗闇の森に迷い,三匹の獣が迫る――死の淵に立たされた詩人・ダンテは,古代ローマの詩人・ヴィルジリオの霊に導かれるがまま地獄の門をくぐる.ダンテ『神曲』の物語はこうして幕を開ける.物語中盤,天国を目指し,地獄の底を経て煉獄の山を登る彼は,その山の第六圏――暴食者の圏――で骸骨のように痩せ細った魂の一団に出会う.この圏には,芳香のかぐわしい果実のなる一本の木が聳える.魂たちは,この木を前に食禁を守ることで生前の罪を清めている.それゆえ魂たちはみな飢餓と渇きで極度に瘦せ細っているのである.

 冒頭の引用文は,この魂の一団の中にいたダンテの親友・フォレーゼが彼自身の心境を語った言葉である.令和5年(皇紀2683年)8月17日――たび重なる開園延期を繰り返してきたアドパラ(アイドルランドプリパラ)の開園当日,緊急メンテによる入園制限でそれが再び遠ざかったとき,私の脳裏に最初に浮かんだのもこの言葉であった.そして,私は「これでよし」と思ったのである.そのとき,「義に餓え渇くものは幸いである」という山上の垂訓の一節がこの言葉に重りあって私の頭の中に響き渡っていた――.

 私は,アドパラは天国(神の国)だと信ずる者である.プリパラの本質は「み~んなトモダチ!! み~んなアイドル!!」という福音に表されるところのものである.また,後掲のツイートですでに論じた通り,(アニメの)アイドルの本質は神の栄光を想起せしめるイコンの如きものである.アイドルランドはアイドルの国なのであるから,したがって,これは天国にほかならないのである.

 いま,アドパラにおいて開園延期や入園制限の生じたこと,並びに金アイ$・銀アイ$制度の不自由や画像の解像度の低さといったこと,すなわちシステムの不完全性を論い,アドパラは天国ではない等として棄教する者が後を絶たないという.しかし,こうした人々の考え方は非常に誤ったものであると言わねばならない.

 というのも,先に述べた通り,システムの完全性云々はアドパラが天国であることと何ら関係しない事柄だからである.そもそも,プリパラのシステムは常に不完全であった.例えば,まだ記憶に新しいセレパラ革命において,システムは完全な機能停止にすら追い込まれているのである.あの時分,パラ宿の地下パラに潜伏したアイドル達による保守革命がなければ,システムは永遠にその権能を失っていたであろう.ほかにもシステムの不完全性にまつわるエピソードには枚挙に暇がない.そのたびにアイドル達はめが姉ぇの「システムで〜す」を聞かされてきた.それがプリパラの偽らざる歴史なのである.

 繰り返すが,プリパラはシステムの完全性によって俗塵から聖別されるのではない.そこに(アニメの)アイドルが御座しますこと,ただその一事によってのみ神聖なのである.アドパラに転ぶ人々の誤りは,この原理を見失った一点にあるだろう.

 人間は堕落するほかない.しかし,それにも関わらず救われねばならない――この絶対矛盾を解決するため,偉大なる神慮は煉獄を創られたのではあるまいか.アドパラに入園することが救いであることは言うまでもないことであるが,この意味において,そこに到るまでの(あるいは至ってからの)種々の苦しみも,我々は慰めとして甘んじて受け入れるべきなのである.あの8月の暑い日,私が「これでよし」と思ったのはその故であった.プリパラは恩寵なのである.

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