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おばあちゃん、ごめんなさい。ありがとう。

最近、特に何かきっかけがあるわけでもなく、たびたび数年前に亡くなったおばあちゃんのことを思い出すんです。なんでだろう…と思いながら、その気持ちをカタチにしておきたく唐突にnoteを書きます。

私はおばあちゃんのことを考えると、懐かしい気持ち・いとおしい気持ち・尊敬する気持ち・申し訳ない気持ちなど、言葉にできないことも含めて多彩な感情が押し寄せてきて、みぞおちが泡出つような感覚に陥ります。

一番思うのは、おばあちゃんに対して私は薄情だったのかな、ということです。

その年代の方の中では珍しく、おばあちゃんはお医者さんで、一家の大黒柱として家庭を支える存在でした。戦後間もない頃におばあちゃんのさらにおじいちゃんの遺言で医大の学費を出してもらえたんだそうです。そのお金を無駄にせずしっかり稼げる女性になったわけです。

そのうえ、母が離婚して、母子家庭となったときには、毎日のようにうちにきて、洗濯物を取り込んだり、部屋を片付けたり、私たちの様子を見に来てくれる頼もしい存在でした。母が安心して働けた理由の一つとして、おばあちゃんの存在は大きかったと思います。

私はおばあちゃんのことをとても誇らしく思っていました。そんなふうに私も大切な人を守れるようになりたいと思っていました。

でもそんなおばあちゃんも、足を悪くして外に出歩けなくなるうちに、認知症になり、私のこともぼんやりとしかわからなくなっていきました。
私のことを母と勘違いすることもありましたし、私がまだ学生だと思って「最近勉強はどう?」と尋ねられることもありました。

そのころから、近くに住んでいるのに、私はおばあちゃんに会うのが少し怖くなりました。どんなふうに接したらいいのかわからなくて。

80代後半になったおばあちゃんは10年以上前に亡くなったおじいちゃんのこともほとんど忘れてしまっていました。氷川きよしさんのことが大好きで、部屋にはたくさんポスターがはってありました。彼の音楽を聴いているときはいつもにこにこ楽しそうでした。
たくさんの責任を背負ってここまで生きてきたおばあちゃんも、ようやくそのプレッシャーから解放され、心が軽くなって少女の頃に戻っていったような印象でした。

本当は、そのありのままのおばあちゃんと、なんとなく同じ時間を過ごすだけでもよかったんだと思うんです。私の母や弟やいとこはそうしていました。

90歳を過ぎて、危篤になり、入院することになりました。
おばあちゃんは、脳に疾患を抱え、もう、話すこともできなくなりました。
おうちが大好きだったおばあちゃんは病院にいるのがつらそうなのが伝わってきました。

私は一回お見舞いにいってその様子を見て、さらに気丈にふるまいながら懸命におばあちゃんの面倒を見る母を見て、さらにどうしたらいいのかわからなくなりました。会いに行こうという行動を自発的に起こせなくなっていました。

「みんなお見舞いにきて、いろいろ世話をしてくれているのに、あんたは冷たい」
母に言われました。そのとおりだと思いました。思っているだけで行動に移せないのは結局、冷たいってことなんだろうなと。
遠くから、おばあちゃんごめんなさいって何度も思っていました。

おばあちゃんが最期の日々を過ごすための自宅療養に入ったとき。
食事からトイレのケアまで、母はヘルパーさんに学び、毎日のように通ってお世話していました。

私はやっぱりとても怖いと思っていました。あんなにたくましかったおばあちゃんの最期なんだと、その弱っている姿を想像しただけで胸がきりきりと痛みました。仕事の繁忙期にかこつけて、会いに行くことすらできませんでした。自分の臆病さを呪いたくなりました。

こんなに長い時を過ごしてきた人を喪うのは初めてのことでした。棺の中、おばあちゃんはそこにいるのに魂はそこにないような感じがとても不思議に感じたのを覚えています。

多分一番悲しみ泣く資格は私にはないだろうと思い、私は母にばれないように、弟にばれないように、会場が真っ暗になったときや、一人の時にだけ泣きました。

こうしたおばあちゃんと過ごした日々の感情の流れを私は時々、フラッシュバックするようにざーっと思い出すのです。最近、なぜかその頻度が増しています。

もしも時を戻してもう一度同じことが起こったとしても、また同じことを繰り返してしまうような気がしています。何もできなかった私の身勝手な気持ちを整理するにはまだもうちょっと時間がかかりそう、と思います。

おばあちゃんの孫であることを私は今でも誇りに思います。
ごめんなさいごめんなさい。ありがとうありがとう。

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