『天気の子』から見るアニメの虚構性

皆さん、年末年始は、ゆっくりと過ごせましたでしょうか。

私は、久々に実家でダラダラと放送されるテレビを見ながら、何もしないお正月を過ごしていました。日本中がコロナの影響によって、季節のイベントも大人数で集まることもできない時期が続いていますが、それはそれで楽しんでいます。

この記事では、そんな家で引きこもっていたお正月に、たまたまつけたテレビで放送されていた新海誠監督作品の『天気の子』について考察していきたいと思います。

私は、恥ずかしながら、今まで一度も『天気の子』を視聴したことがありませんでした。新海誠監督作品の『君の名は。』の方は、映画館で視聴いたしましたが、あまり刺さるところがなく、『天気の子』も、似たような作品だと考えているところがありました。しかし、テレビで本作品を見た後、『君の名は。』と『天気の子』は、全く違う作品であり、今後の新海誠アニメを捉えていく上でも重要な作品だと思うようになり、記事を投稿することにしました。

まずはじめに、『天気の子』というアニメは、どんなテーマを持って制作されたのかについて考えていきます。

『天気の子』では、家出して東京に出てきた主人公が、晴れ女のヒロインと協力することで、雨続きの東京に晴れをもたらすビジネスを始めます。しかし、ヒロインが天気を変える行為は、結果的に、東京の降水量を増やしてしまうことに繋がってしまいます。そして、最終的に東京は、歴史的豪雨に見舞われてしまいます。この雨を止めることができるヒロインは、自分の存在と引き換えに歴史的豪雨を止めようとします。一方、主人公は、ヒロインともう一度会いたい一心から、その行為を拒否し、ヒロインをもとの世界へ連れ戻すことに成功しますが、再び東京が豪雨に襲われていくことになりました。

ヒロインを取り戻した主人公は、一度実家へ帰り、高校を卒業したあと、ヒロインへ会うために3年ぶりに東京へ行くと、都内は、降り続いた雨によって広範囲が浸水しており、風景も大きく変わっていました。そんな中でも、人々は、環境の変化に適応し、日常を取り戻していました。

そして、3年ぶりにヒロインと主人公が出会うラストシーンでは、彼らが出会ったあと、あれだけ曇っていた空に、少しずつ日が差し、彼らの関係が明るく続いていくことを予見させるように終わっていきました。

『天気の子』では、主人公が歴史的豪雨という最悪の状況を選ぶのか、それともヒロインを選ぶのか、この選択によってストーリーが展開され、主人公は、最終的にヒロインを選択することになります。

しかし、ヒロインを選び雨が降り続いた世界でも人々は、日常を取り戻し、環境に適応しながら生活を営んでいる姿が映し出されます。

これが、『天気の子』で新海誠が伝えたかったテーマだと私は、考えています。

①大衆の正義に自分の意見を言う強さ

②選択した結果がどうであれ、人々は、日常を取り戻すことができる

正直、『天気の子』は、ラストシーンが爽快な絵で描きながら、結構自分勝手なセリフを言っているので、反感を覚えるのも納得です。それでも、新海誠監督にとって重要なテーマであるため、ラストシーンは、あの形で制作されたのだと思います。

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