『羅生門』という観客

2019年8月16日、私は黒澤明監督の『羅生門』を見た。

『羅生門』は、1950年に公開され、大映が製作、配給を担当した作品で、芥川龍之介の短編小説である『藪の中』『羅生門』を脚色して作られた作品である。

話の内容は、羅生門で雨宿りをしていた3人の男が会話を始めるところから始まる。彼らは、一人の男が殺された事件について語り出す。男が殺された経緯を、当事者と目撃者、そして殺された男の目線から語られ、ストーリーが展開していく。各々の視点で事件の経緯を語っていくが、彼らの証言は全員とも全く違うものとなっていった。この視点のズレにより、一つの事件に別々のストーリーが付加されていき、真実を求めていくうちに人間のエゴイズムが露呈されていくのである。

初めてこの作品を見て、今まで見てきた多くのモノクロ映画の中でも、画面内で表現される被写体の迫力が圧倒的であった。

今回は、『羅生門』の作品内で生み出された映画的ダイナミズムと、作品のストーリーの関係について語っていきたい。

『羅生門』内で撮影される際に、特徴的だったのが、

1.低アングルからの見上げ

2.画角の遠近の多様 

3.自然光の使用 

4.強烈な雨 

5.森林の中での撮影

この5つである。

1つ目の「底アングルからの見上げ」だが、これは画角を下から上方向へ設定することで、被写体に煽りをつけ、迫力を出す手法である。これは、意外にも羅生門で対話するシーンで多様されていた。これは、話している人々の深刻さなど内面を表現するために底アングルから撮影する手法が用いられている。逆に、森林の中での撮影は、俯瞰や人の動きとあえて無関係のカメラワークとすることで、客観性を演出していた。

2つ目の「画角の遠近の多様」は、森林の中での撮影で多用される。これは、被写体と関係のない画角の遠近の移動により、被写体を同一ショットで多角的に見せる効果がある。これによって、客観性が生まれるのである。

3つ目の「自然光の使用」だが、黒澤監督は森林での撮影の際に、より自然な環境を作るために、自然光を用いた撮影を行なっていたと考えられる。これもより自然な状況を森林内に作り出すための方法の一つである。

4つ目の「強烈な雨」は、羅生門で男どもが語っているシーンで終始降り続いた雨の表現のことである。この雨が、人々の心理的表現となるとともに、場面の切り替えの効果的なBGMとして利用されている。だからこそ、羅生門のシーンが強くイメージづけられるのだ。

最後の「森林の中での撮影」だが、これは当時のモノクロ映画でここまで森林に入り込んで行われた撮影は見られなかった。この森林という舞台を生かす撮影技法や演者の動きが作られ、ダイナミックさを表していたのである。

特徴的な5つの手法を用いることで、黒澤監督は場面の切り替えとストーリーを進行を演出していたのである。

それでは、この手法がどのようにストーリーと関係したのかについて語っていきたい。まず、ストーリーでは、主に2つの場面が出てくる。先ほどから何度も出てきている、羅生門と森林の2つだ。

羅生門では、男どもが語りを通してストーリーと展開し、森林では、男が殺される場面が話のイメージとして何度も繰り返される。

この二つのシーンの違いだが、あくまで現実は羅生門での語りの部分であり、イメージの中の世界として森林が現れる。

そこで、黒澤監督は、羅生門でのシーンで底アングルの撮影を何度も繰り返す。このように、現実の部分では、観客がまるでその場で一緒にいるかのような迫力を与えるのである。これは、雨の演出も同様の効果を狙って扱われている。

逆に、森林のシーンでは、あくまでイメージとして俯瞰しているような高い位置からの画角が多い。さらに、森林という場所で客観性を出すために、遠近の多用によって演者を様々な角度から撮影し、一つのオブジェクトとして見せているのである。また、自然光を使用するのもこの客観性を表現するためである。

このように、実際は迫力のない語りの部分に底アングルと雨により迫力を作り、森林で客観的な撮影を行うという常識とは真逆の撮影方法を行なっている。

これにより、戦いという実際はアクション性の強い場面を抑え、語りという動きの少ない場面に観客を入り込ませ、語りの当事者として、思考することを促す。そして、語りが進むごとに人のエゴイズムが露呈された時、観客の脳内へ強烈にそれらを印象付けるのである。

そして、最後の羅生門のシーンで男どもが捨てられた子供を見つけ、その子にかけられた衣服を剥ぎ取った時、今まで人間のエゴイズムについて語っていた彼らにも同じ問題が突きつけられる。

その後、今まで雨によって切り離されていた羅生門から、雨が上がり外とつながることで、語っていた男どもの世界は、観客と地続きとなる。そうやって、彼らが語っていた人間のエゴイズムは、画面内から観客の方へ返ってくるのだ。

最後に、捨てられた子供を抱いた男の視線は、子供ではなく遠くを見ていた。あの男はどこを見ていたのだろう。

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