芹沢あさひ、その少女が纏うものについて。

個人的に芹沢あさひという少女の存在はとっても儚いのではないのか、と、ふと疑念を抱いた。儚さの根源についてだけれど、彼女は明確に「今」を楽しみ、心待ちにする少女だ。そうであるが故、烏合の少女という肩書きを脱ぎ捨て、偶像崇拝の対象になる、などと非凡ではない選択をいとも簡単に選んだ。その理由はきっと「今」にあるのだろうと思う。生きてきた時間を経て、自分の手中にあるものを捨てるのは惜しい。でも彼女はそれさえも厭わなかった。これから先、崇拝の対象でなくなる、もしくはその選択を迫られたとしても、彼女は嬉々として別の道を選び一人っきりでも歩いていくのだろう。現在青春の渦中に居るに芹沢あさひ。それらをかなぐり捨てるのは容易ではない。芹沢あさひの存在意義はきっと、そういった「非凡が故のカリスマ性」なのだろう。誰も通ったところが無い、道になってすら居ない道を、歩いて行く。そしてその後ろには様々な人間が着いてくる。儚さは時として虚ろにもなる。でも彼女の纏う儚さは直ぐに消え去る脆いものなのでは到底無く、むしろもっと強かに、確実に存在する、確認出来るほどの儚さなのだ。逡巡の余地など無い。そうこう言い聞かされるような彼女の言動に私は惹かれた。彼女が少女を脱ぎ捨て、一人の女性になる時まで。だから、芹沢あさひという「今」の儚さに、目と心、耳さえも奪われたのだろう。

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