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君がやってることは芸術じゃない


芸術の話とそうじゃない話をします。

というのもいま関わっている企画の小説「マチネの終わりに」を読んでいて「芸術の価値の定義が変わってきている」ってところが出てくるんですよ。もう少し掻い摘んでいうと、「芸術の価値というのはカントの定義以降〈美しい=beautiful〉か〈崇高=sublime〉だったものが、20世紀後半、特に現代ネット社会以降では〈カッコイイ=cool〉〈スゴイ=awesome〉になってきた」という事なんですね。

なるほどなー、って思います。昔の事はわからないけど、いま現在、自分を取り巻く環境ではその通りだし、それに輪をかけて〈ヤバい〉ってワードにまで言葉が変わってきています。

では、それの何処が悪いんだよ、ってとこにこの話をもっていこうと思います。


先日実際にあった話ですが、とある初対面の芸術家から「君がやってることは芸術じゃない」といった旨を言われたんですよ。お酒の席で紹介してもらった東京藝大出身の方だったんですが、その方とはどの作家が好きか、みたいな話をしていました。話が進んでその方が僕の好きな作家を否定しだしたので「(貴方ほど芸術ってことを考えてないので)僕がやってることは大きな絵を描く看板屋だ」と言ったところ、やはり先の言葉を頂戴したというわけです。


僕はその話を聞きながら心底、「何が芸術なのかなんて興味ないなー、マジでめんどくさいわー」と思う反面「やっぱ芸術家ってそういう感じなんだなー」って思っていました。音楽もアートも、小説も映画も、凡そ芸術と言われるものすべては、言ってしまえば人や時代によってその定義が違います。違って当然です。だから作家にとってその目的なんかは最早千差万別。考えるのも別におもしろくねーし、好きなようにやらせてくれ。気が合う人とは朝まで酒を。つまり自分は芸術家であろうという矜持はヨユーで持ってないし、芸術の為の芸術の話しかしない狭さに辟易したのでした。


これって、音楽に例えればわかりやすいと思うんですが、雅楽やってる人がJPOP(もっといえばHIPHOP)やってる人に「君がやってることは音楽じゃない」って言ってるようなもんだと思うんですよね。「伝統的に継承される新陳代謝自体が重厚で高尚なもの」と「今を捉えた軽薄で回転の早いビビッドなもの」とじゃ大事にしている物が1から10まで違うと思うんです。だからどちらかを否定するつもりじゃ無くて、単純にその舞台を仕切っているルールが違うんだから、あとは各々の好みだろって考えてしまいます。(それに今を捉えたビビッドな表現には普遍的なものを生み出すことが出来ない、なんてことはねーし!)


僕がこの話でよく例に出す歌で、日本のHIPHOPグループRHYMESTERの「ラストヴァース」って曲があります。この曲、歌詞の中で「もしこれが音楽じゃなくてただの騒音だとしても」ってラインがあるんですよ。これってすごくって、もう何10年とシーンのど真ん中に鎮座する超大御所が、日本でラップをすることのほのかな足許の不確かさ(ヨーチェケチェケみたいな)を自覚的に伝えてるんですよね。


さて、最初の話に戻ります。

芸術の価値の定義の変化、〈美しい=beautiful〉〈崇高=sublime〉→〈カッコイイ=cool〉〈スゴイ=awesome〉についてですが、小説の中では「それは順番の問題だ」と続きます。「最初に何を感じるか、その入り口の話」とし「<カッコイイ>も<スゴイ>もなければその先の<美しい>にも辿り着けない」と結びます。高尚で敷居の高いものは、その入り口を作ってあげることが現代では必要である、と伝えているのです。

僕の理解では、〈美しい〉の下位互換が〈カッコイイ〉というわけじゃなく、感動の発露としての言葉がどちらなのかの違いであり、しかしその差(深さ)をすくい上げないことには世界は閉塞していきます。要するに作品の強度を保ちながらも(=美しい)、門戸は広く誰にでも届けられる(=カッコイイ)を目指すべきではないかと思います。加えてその一歩手前、言葉としては一層直情的でバカっぽい〈ヤバい〉って言葉にこそ僕はシンパシーを覚えるし、今一番活気のあるこのカオスから何かが生まれるシーンに立ち会えている気がしています。


#マチネの終わりに


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