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《寄稿》私と新卒「劣等感と、僕と、君たちと」


新卒採用責任者という立場で多くの学生に接していると、どうしても「新卒の時の話」を求められることが多い。

だが、高卒で草津温泉の旅館で働き、大学時代には友人と事業を創り、大卒で入った会社は半年で辞めている。
とてもじゃないが、まともに大卒新卒を迎えようとしている人たちに参考になるような話は出来ない。体系立って偉そうに「新卒で活躍するためには」などは書けないし、そんなものは他の人事や経営者のnoteでも漁ればいくらでもあるだろう。
ただ、自分自身が活躍したかどうかはともかく、それぞれの場所で学びを得ていることは確かだし、今、自分が新卒を採用するうえで血肉になっているものは確かにそこにあった。

下記はその学びを時系列とともに振り返るものだが、一部を脚色をしている。思い出話から高説垂れようなど、脱糞を喜んで見せて回るようなものだ。糞が臭いことを伝えるのに糞を鼻先まで持っていく必要などまるで無い。


第一節・働くことに希望を持つことなど、無い

そもそも、「一度働いてから大学に行った」と言うと「意思を持って大学に行っている」であったり「苦労人なのか?」といったような印象を与えることが多いのだが、ひとことで言って現実逃避に他ならない。
中高一貫校で落ちこぼれたため、エリート街道の真逆を取って、別の勝ち筋を見つけようと思ったからでしかなく、都心部から逃げるようにして、上裸のおじさんがはだしで歩き回る街へと潜んだ。

そこでは、仕事を覚えたというよりも、人生で交わることの無かった人たちと共に過ごせたことのほうが価値が高かった。

10年近く引きこもっていた人、刑務所帰りの人、バツ三のシングルマザーなど、少なくとも都内のベンチャーにいたらなかなかお目にかかれない人たちだ。彼らはおおよそ好き好んで草津温泉で働いてはいなかった。訳アリのために都内で働くことが難しく、流れついて草津温泉で働くという人のほうが多かった気がするし、彼らは当然のように仕事に希望など持ってはいなかった。働くことに希望を持つことなど愚かだと言わんばかりの文化の中で、僕は「仕事ってやりたくないな。どうにかして労働せず生きる方法はないかな」と考えるようになっていた。これが理由で大学進学を目指し、何ならそのまま大学院に進学して教育機関に骨をうずめようかと考えるほどだったのだが、唯一学んだことは「言われたことぐらいはやる」ということだ。
言われたことぐらいはやらないと、仕事がなくなり、生きていけなくなるということに対して切実な状況の人たちは「仕事が好き/嫌い」「出来る/出来ない」ではなく、言われたことをとにかくやる。
大卒で改めて社会に出て思ったのは「ベンチャーに来る人は言われたことよりも自分で考えて動きたいと言うが、そもそも言われたことすらやらない人もまた、多いな」ということだ。
生きるためには、まずは言われたことをやれるということを守るところからなんだな、というのは今でも学びになっている。


第二節・大学で浮いていた僕たちから起業家が生まれたワケ

前節でも書いたが、僕が大学に行こうと思った最大の理由は「働きたくなかったから」だ。
何をしたいとかは無く、大学院に行き、研究員になり、無理だったら古本屋の店員でもやって暮らしていけば良いかなと真面目に考えていた。
そんな狂った志で大学に入ったものだから、狂ったように本や論文を漁り、大学の授業に行かなくともシラバスだけ見て後は図書館で自習し、ディスカッションのある授業には狂ったように発言しに行くというどれほど甘い採点をしても友達が出来なさそうなバケモノになっていた。

ただ、大学というのは人口密度が高く、それゆえ見渡すとチラホラと明らかに浮いている人たちがいるもので、僕は迷わずそういった人たちと友達になった。
彼らの中の幾人かは、社会に迎合するために学生団体に入っていたが、漏れなく浮いていて、僕はなんせ友達がいなくて暇だったので、意識が高い人たちは苦手だったにもかかわらず、彼らに遅れるように学生団体に入った。
ぼっちが一人加勢したところで、形成が逆転するわけもなく、ぼっちはぼっちたちになるだけだった。

居場所を求めて彷徨うぼっちーズと化した我々に、偶然大学構内のカフェの店長にそのカフェの集客をお願いされ、ここぞとばかりに居座った。ともあれ、居場所を見つけた我々は、大学構内を彷徨うぼっちを見つけては引き入れ、ぼっちーズの勢力は拡大した。
そのカフェは、知的障碍者の作業所としての機能もあり、自然な流れで彼らと交流することとなった僕たちは、その有り余る時間を武器に、彼らがさらに活躍できる可能性を模索することとなった。
この辺は割愛するが、その活動は次第に大きくなり、気づいた時には障害のある若者や、引きこもりの若者が社会で活躍するための学校を創ることになり、活躍フィールドとして幾人かで靴磨きの会社を創ることになった。
誰一人として起業家精神も持ち合わせていない中で、運命に転がされてコトが大きくなっていき、僕はというと、ぼっちを集め、ぼっちに仕事を割り当てながら、合間合間で支援学校や行政に赴いた。
今もその会社はあるが、ここで学んだことは「それぞれが出来ることをそれぞれが最大限にやれば、誰もが想像出来ないところにまで行けることがある」ということと「周りが何であれ、誠実に生きていればそのうち花が咲く」ということだった。
僕たちは華やかな大学生ではなく、薔薇色とはほど遠い、もっと鈍い赤色の生活を送っていたが、自分たちをお互いに諦めなかった。多分それだけだった。

ただ、一方でそこに人を集めておいた身ながら、僕は何者かになった気でいた。
愚かかな、僕は一度背を向けた社会でもう一度勝負しようと、就職活動をした。


第三節:なんで社会不適合者だって忘れてたんだろ

大学時代の実績(自分で作った成果ではないが)と、奇妙な経歴に面接のたびに用意した笑いのネタが功を奏して、内定をたくさん貰った僕は、もしかして無敵なんじゃないかと思った。その結果として、人材メガベンチャーという、自分のキャラと全く正反対の性質の人の集合体に内定承諾をした。この一連の流れは「血迷った」と辞書で引いたら例文として出てくるので確認してみて欲しい。
さて、内定者となった僕は、勢いそのままに人材メガベンチャーの内定者の輪の中でどんどん真ん中のほうに入っていった。結果として、彼らの中には僕と同じように「血迷った」事例集が一定数おり、必然的にそういった連中でつるむことが多くなった。
僕らは、成果を出すことを正とし、一方で抑圧に対して強烈な反発意識を持つ若者だった。
それゆえ、同期の中で競わされる研修などでは順当に上位になるわけだが、それは会社としては期待に変わり、それぞれが別の部署に配属されることとなる。

僕の部署は特別抑圧的で、配属後2秒で「あ、これは合わねーわ」と察した。
適合しようという工夫はしたものの半年後にはあえなく退職。なんで社会不適合者だって忘れていたんだろう。と首をひねった。
ただ、この会社で出会った同期を考えると、半年で辞めたものの価値があったなと思う。
企業という単位で見たとき、どんな人間が成果を残すのか。それは、同じスタートから天と地が分かれるような環境だからこそ見ることが出来た。彼らはみな共通して「自分のスタイルで、自分の武器で、高い最低基準」を持っている。

早々に辞めたものの、中途採用で人事部の立ち上げをして1年後にMVPを獲得出来た自分も、ある種彼らを見習ったから出来たことだ。いや、彼らだけでなく、草津温泉で出会った人たちの「言われたことはやる」こと、大学時代に学んだ「出来ることを最大限やって、誠実に向き合う」ことこれらをただ毎日やっただけで、それこそ最低限の結果を出すことは出来た。


終節・脚色だらけのメッセージ

僕は、今でも上手く社会に馴染めないし、まあそれでいいかと思っている。

そんな自分が新卒採用の責任者をやっていて、教育をしていて、伝えられることは「とりあえず、僕をマネしないこと」だと思う。僕をマネしても遠回りだから。
僕の生き方やあり方を真似せず、こんな僕でも仕事がなんとかなっている要素のみを上手く掬い取って吸収して欲しい。
少なくとも「まず言われたことをやった」うえで、「自分の出来ることを最大限やって」、「高い基準で自分の成果を厳しく評価し」、「誠実にやれれば」企業人としてはなんとかなる。


だからまず、これから社会に出る多くの新卒に向けて言うならば、「ちゃんとした大人」になろうということ。
仕事をこなす大人になろうと思えば、そんなに難しくない。僕みたいな社会不適合者でも、最低限のことだけ抑えていればそれぐらいは何とかなる。
だけど、「ちゃんとした大人」は少ない。
本当に、びびるほど少ない。
嘘をつかないとか、ずるいことをしないとか、嫌がらせをしないとか、威圧しないとか、そういうことを全部出来る大人は、仕事をこなせる大人よりもよっぽど少ない。

これを読んだのも何かのご縁だと思うから、僕と一緒に少しずつちゃんとした大人になってくれると嬉しい。

そして、フーモアに入るこれからの新卒たちに伝えたいのは、ちゃんとした大人になれなくても良いから、幸せな大人になって欲しいということ。
お金を稼ぐだけなら社会は意外となんとかなるし、馴染もうと思うと、意外と厳しい。
だから、せめて幸せにだけなって、自分の周りの小規模な世界だけ幸せにすれば良い。
そのために、失敗しても、逃げても、苦しんでも、壁にぶつかっても、弱音を吐いても、大丈夫だから。


以上、大きな脚色をしたお話でした。めでたしめでたし。

文責:採用担当 西尾

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