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【プロ野球 名場面第22回】一瞬の煌めきを放った与田剛(1990年)

1990年のルーキーについては、前記事※で紹介させて頂いた通り、錚々たる顔ぶれだ。最も早く結果を出したのは、パ・リーグは野茂英雄であり、セ・リーグでは与田剛だった。
https://note.com/wildcard_koto/n/ne1b2fcc72e05

与田剛は木更津中央高から亜細亜大、NTT東京を経て25歳になるシーズンに中日ドラゴンズでプロ野球生活をスタートしている。故障等もあり、満足に投げることができなかった大学までは無名の存在であり、プロに注目されたのは、NTT東京のとき。150キロを超える速球が注目され、日本代表にも選出されている。(惜しくもソウル五輪時には代表に入れなかった)

与田のデビューは鮮烈だった。横浜大洋ホエールズとの開幕戦で延長11回同点の場面で、無死一、三塁の大ピンチの場面でプロ初登板を経験すると、2三振を奪うなど、無失点で凌ぐ好救援を見せた。この時、クロスプレーで捕手の中村武に激しくぶつかった大洋の選手に食ってかかり、乱闘騒ぎを起こす派手なデビュー戦だった。
幸先の良いスタートを切ると、当時の星野仙一監督は与田を重用し、抑えに抜擢。連日150キロ台を連発する与田の速球はニュースになり、知名度が上がっていった。そして、与田は7月のオールスターにもファン投票で選出。第2戦の先発に起用されるのだ。そして対するパ・リーグも野茂英雄を先発に立て、奇しくも史上初のルーキー同士の先発が実現した。与田は、初回は無難に無失点に抑え、2回先頭の4番清原を迎える。清原は、2つ年上の「後輩」に「プロってこういうもんですよ」と言わんばかりの特大の一発を放ち、与田は苦笑いを浮かべた。また当時与田の同僚だった落合は与田の敵を討たんとばかりに、野茂から一発を放ち、こちらもプロの強烈な洗礼を浴びせることに成功した。この頃の時代は、現代のように交流戦もなく、特に巨人以外の選手はテレビに映る絶好の機会という考えもあったのか、「お祭り」の中にも「全力勝負」の気迫が漲っていた。過去を懐古してばかりではダメだが、昨今のオールスターは遊びに見えてしまい、全く見る気を無くしてしまった。
https://www.youtube.com/watch?v=pXrSQs7ZM24

少し脱線した。手痛い洗礼を浴びた与田だが、ペナントレース終盤まで抑えとして起用され、全50登板、4勝31セーブを獲得し、新人王と最優秀救援を獲得。フル回転してチームを支えた。筆者は、まだ若かった与田が今後、歴史に残るような救援投手となり、清原を始めとしたスラッガーと数々の名勝負を繰り広げるものと思っていた。然し、与田にとってはこのときが全盛期だった。登板過多や肘が飛んでいきそうなフォームが祟ったのか、肩・肘を痛め、4年目からは満足に投げれなくなってしまった。その後ロッテ、日本ハム、阪神と移籍し、活路を見出したが、最後まで速球は戻ることなく、2000年秋に静かにユニフォームを脱いだ。
私は星野が与田を酷使したために、彼のプロ野球選手生活は短命に終わったと思っている。多少の恨みはあるのかと思ったが、多分与田は星野のことが好きなのだろう。こんなエピソードがある。ドラフト会議後、家族のこともあり在京球団を希望していた与田。思わぬ中日からの指名を受けたものの、指名した星野仙一からの挨拶はない。だが、与田は自身の著書で、星野からこんなメッセージに聞こえたと述懐している。プロ入りを決断したのは星野監督がいたからだという。
 「いいか、与田。オレはお前が欲しいんだ。欲しいから指名する。来るか来ないか、プロでやるという夢を叶えるかどうかは、おまえの考え方ひとつだ。好きにせい」

星野仙一が2018年1月にこの世を去り、その1年後与田剛が中日ドラゴンズの監督に就任した。短命だったが、星野イズムをしっかりと担い、ドラゴンズを指揮している。歴史は交錯する。だから、プロ野球は面白い。

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