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「私はいつも決められない」選択肢がある事を喜べる人、喜べない人の話。

皆様こんにちは PICOです。

私は沢山の選択肢の中から1つを選ぶと言う行為が昔から大の苦手で、コレには本当に、現在進行形で何十年も悩まされ続けており、最近まで「私には無理な事なのだ」と諦めて日々を過ごしていた。

例えば子供の頃…家族でスーパーへ買い物に行った時、お菓子売り場で母親に『お菓子を1つだけ買ってあげる』と言われ、弟はお菓子の棚から1つを手に取り『僕はコレ!』と言って嬉しそうにカゴに放り込んでいたのを横目に、私はずっとお菓子の棚の前から動けず、何も選べずにただ立ち尽くしていた事を今でもハッキリと覚えている。

スナック菓子、チョコレート、ガム、飴、玩具の付いたお菓子・・・沢山のお菓子がズラリと並んだこの棚の中から1つの物を選び、手に取ると言うのが昔からずっと怖かったのだ。 今回はそんな「決められない私」の事を記事にしてみました。 少しでも共感して頂けたり、何かを感じ取って貰えたり、他の誰かの何かになれれば幸いです。

◆「選ぶ」と言う事は「選ばない方」を選ぶ事。

昔からマイナス思考の私は「選択肢がある」と言う事を「好きな方を選べる」と言うプラスに捉えるのではなく、どうしても「選ばなかった方はどうだったのか・・・」と考える事が多かった。 例えば冒頭に書いたお菓子の話を例に挙げるとするなら、スナック菓子を選んで買ったとする・・・すると、もしあの時チョコレートを買っていたらどうなっていたか…と言う考えが、まず頭に浮かぶのだ。 スナック菓子よりもチョコレートの方が美味しかったかもしれない、ガムや飴の方が美味しかったかもしれない・・・と。

言ってしまえば自分の選択に自信が無いのである。

数ある中から1つを選んだと言う事は、選ばなかった他の物は得られないのだ。 自分が手にした物を改めて見つめながら『お前は本当にそれで良いのか?』と、いつも自問自答を繰り返すのだ。


多分誰しも知っているあろう、日本昔話【おむすびころりん】

あのお話で「小さなつづら」の中には沢山の小判(金銀財宝)が入っていた訳だが、さて・・・「大きなつづら」には何が入っていたのだろうか・・・私は昔からそれが気になっていた。

人生はいつでも選択で、数ある選択肢の中から1つだけを選んで進んでいく。 その道が正解か不正解かは進んでいく道中で少しずつ分かり、その解答、答え合わせは多分、自分が死ぬその時まで出来ないのだとは思う。

選ぶ事、選べること、選ばない事、選ばなかった事。 そんな事をいつも考えているので、私は未だにスーパーの棚の前で足が止まるのだ・・・。


◆「なんでもいい」から「選ばない」と言う選択。

私はずっとそうやって選べずに生きてきた、高校受験も、大学受験も、アルバイトも、就職も・・・そこに私の意志は一つも無かった。

私は昔から勉強が出来なかったので、受験勉強は特にしなかった。 クラスの皆は『第一志望は○○高校!』『○○大学へ入りたい!』などと自ら目標を定め、そのために努力をしていた。 しかし、私はどこの高校へ行きたいなどと思った事は一瞬たりともなく、何がしたいとも思った事が無かった。 何の目標も無い私は特に勉強をするでもなく、自分の成績で推薦入学で簡単に入れる場所を教師に薦められるままに受験し、何の苦労も無く入学した。

全く同じ感じで大学受験も自分の成績で簡単に入れる場所を教師が選び、何の迷いも無くそこを受験し、難なく合格。 大学入学後、すぐにアルバイトを始めたのだが、アルバイト先もたまたま祖母が見つけたアルバイト募集の広告を私に見せてきて『ここのお店良さそうじゃない?』と言ったので面接を受けたら受かり、そのまま3年間その店でアルバイトを続けた。

そんな具合で基本的に私には私の意志が特に無い。

自分の選択に自信が無いので、他人の選択をそのまま自分の選択にしてしまうのだ。 それにより失敗をしたとしても、別にそれに対してどうという事もなく「何も選べずにそこに立ち尽くすよりはマシだった」と考えてしまうのだ・・・そこまで本当に自分の意思が無いのだ。

そもそも、何故皆は高校受験や大学受験で数ある学校の中から1つを選べるのか未だに不思議で仕方が無い。 その高校、その大学に通っている訳でもなければ、特別その学校の情報を多く持っている訳でもない、入学すれば新入生と言う枠の中でランダムに割り振られた人達がクラスと言う箱の中にそれぞれ割り当てられ、その中でカーストを築き上げて日々を生活する事になる訳で、そんな先の見えない物を何故選べるのか、何故そのために努力出来るのかがずっと不思議で仕方なかった。

まぁ、おそらくは「偏差値」と言う数字が重要なのだとは思う。

ある程度のレベルの学校にはある程度のレベルの生徒が集まる。 言ってみれば、偏差値の高い学校には馬鹿は入学出来ない訳で、受験と言う人生の一大イベントは「知識のレベルによる選別」であり、自分は少しでも人より上に行きたい、馬鹿だとは思われたくないと言う思いから、今ある自分の実力(成績)と相談して、目指せる可能な限り上を目指し、そこを目標としているであろう事はなんとなく分かるのだが・・・私にはその理屈は理解出来たとしても、何と言うか・・・イマイチそこへ辿り着けなかったのだ。

昔から物事に特に興味が無い私は何も選べず、何も決められない。

その結果、私はとうとう何者にもなれなかった。


◆空っぽで薄っぺらい人間。

将来の夢も無く、目標も無く、努力も無く…けれど、何となく何とかなってしまい、人生は案外「なんとかはなる」ものだと思った。

なんとかはなったが、その代わりに私は何者にもなれず、ただ空っぽで薄っぺらい人間になっていた。

「選ぶ」と言う事は選択肢があり、選択肢があるからこそ自分の意思で悩み、考えて結論を出し、1つを選択する事が出来るのだが・・・この年になってやっと気付いた事がある。

年を重ねるごとに選択肢は狭まっていくのだ。

この記事を読んでいる人の中でアルバイト情報誌を手にした事がある人がどの程度居るか分からないが、募集要項の欄に「年齢制限30歳まで」「経験者のみ募集」「資格を持っている人のみ募集」などという文字を見た事は無いだろうか・・・。

学生時代ではあまり気にならなかった言葉かもしれないが、大人になるにつれてそれらの言葉の意味や重みが少しずつ、でもハッキリ明確に選択肢を狭めてゆき、そして気付いた頃には選択肢は無くなり、選べなくなるのだ。

『なんでもいい』『選ばなくてもいい』『言われた事をやれば、取り敢えずは良い』そうやってずっと何となく生きてきた私は、それに気が付いた時、思わずハッとしたのだ。

『選択肢がある事を喜べる人、喜べない人』と言うのは、単純に「自分で選べて決められる人が羨ましい。」と言ったそれだけの話ではなく、ある程度の時間を得て、尚選択肢があると言う「選べる状況」に自分が今ある事を喜べる人が居て、喜べない人が居ると言うのが今回の記事の内容なのである。

ずっと昔はなりたかったモノがあった。

あの頃、好きだった事があった。

好きなお菓子もあったし、好きな玩具も、ゲームもあった。

好きな女の子が居て、一緒に居る時間が楽しかった。

そんな沢山の本当は充実していて楽しかったはずの時間を、何だかよく分からない曖昧な目線で『興味が無い』と言う言葉で片付け『面倒』だと蓋をして、努力もせず諦めて、何も選ばず、他人の決めたレールを嬉々として進んだ。 それはとても楽で、失敗すれば他人のせいに出来た。

そうやって逃げてきた結果はコレである。

人はそうならないために、どこかで決めて、どこかで選び、どこかで必ず自分の意思で立ち上がり、歩き出さねばならないんだと思うのだ。

多分、人生に手遅れは無い。 無いと思いたい。

何者にもなれなかった私が、何者かになれる様に。 そのために、何から始めればいいのか・・・どうすればいいのか、私には答えは分からない、その答えをゆっくりと今、探している。


◆最後に・・・。

私の大切な人は何でも一生懸命で『かけっこをするなら1番になりたい!』『ゲームをするなら1番になりたい!』『資格の取得をしたいから勉強を頑張る!』『買い換えるなら、今より良い家具が欲しい!』『引っ越すなら、今より良い家に引っ越したい!』そう言う真っ直ぐで前向きな人で、いつも笑顔で笑っている。

私は今までの人生で『1番になりたい』などと思った事は過去一度も無かったし、考えた事も無かった。 けれど、そう言って笑うその人はいつも素敵に見えて、私が多分なりたかったのはこういう人だったんだろうな・・・と思ったのだ。

人を笑顔にする事が出来て、人に考えを少しずつ改めさせる事が出来る、真っ直ぐで、元気な人。それは多分、とても素敵な事で、難しい事。

私はそう言う「誰かを笑顔に出来る人」になりたかったんだと思う。


何かしたいと思いながら、何をすれば良いのか決められず。 そうこうしているうちに時間が無くなり、仕方が無いと諦めていた日々。

それを「そんなものだ」と諦めていた私だが、ずっと腐っていた私だが・・・こうして今、こんな記事を書いて、少しでも前へ進まなければと、考えを改められるようになったのは、前回の記事に書いた内容と被るが、性格の似ていない人だったからこそ、私を引っ張り上げてくれたんだと思う。

この記事を読んでくれた誰かで、もし『決めるのが苦手な人』が居たなら、どうかそれを『面倒』だとか『どうでもいい』と放り投げないで欲しい。

選択肢があるうちに、沢山悩んで欲しい。

決められずとも、ずっと考えて、悩んで欲しい。


子供の頃、お菓子の棚の前から動けなかった私は、親に『欲しい物無いの? 何も要らないの?』と問われ『 要らない・・・ 』と言って、結局、何もカゴには入れなかった。

カゴには弟の選んだお菓子が1つだけ入っていた。

そんなカゴと、両親と、弟の背中を後ろからただ見ていた私。

きっと諦めてしまうと、人生でそう言う景色を何度も目にする事になる。

決められなくても良い、ずっと棚の前で悩み続けていていい。

『 もう少しだけ待って!決めるから! 』そう言って、何か1つ、何でもいいから手にとって、カゴに入れて欲しいと私は思う。

『 要らない・・・ 』と言ったあの日、私が見た買い物カゴと、家族の後姿は今でも忘れられないで居る。

何かを選んでいたら、あの買い物カゴの中には『私の選んだ何かがあった』はずなのだ。

その何かを。 私はこれから探せたらいいなと思う。


それでは・・・また次回の記事でお会いしましょう。

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