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震災遺構 荒浜小学校に訪問 - 「追体験」に可能性を感じたことを書き留める

どうも。フラミンゴの金村です。前回の投稿から2ヶ月が経過しましたが、お変わりありませんか。おかげさまで僕は元気です。

震災遺構 荒浜小学校に訪問したので、備忘録として短いnoteを書いてみる。個人的にすごく価値のある体験だったと思っているので、これを読んでみて共感したら、ぜひ荒浜小学校に行ってみてほしい。

5日間の休みをとった

この前、5日間のお休みをもらった。創業してからはじめての長期休暇。ゆっくり休んで視野をひろげようというものだ。恥ずかしいことに、6年前にフラミンゴを創業してから、毎日不安でずっと休めずにいた。どこに行くにもノートパソコンは常備していたし、スマホの電池が切れると取り乱しまくっていた。

とはいえ、前のnoteにも書いたけど、僕はまだまだ視野が狭い。これは大きな課題だし、もっとたくさん本を読んだり旅をしたりしたいと思っていた。新しいことを知らないといけない。

「休みたくないという気持ち」と「旅がしたいという気持ち」の間で小さな葛藤を抱えていたし、ちょっと苦しかった。ただ、メンバーのおかげでこの葛藤を越えることができた。休むかどうか迷いまくっているめんどくさい僕に、「休みなよ。任せてくれよ」と何度も念押ししてくれたおかげだ。ありがたい。

行き先を第二候補の東北にした

そんなわけで、お休みをもらった。ノートパソコンも渋谷のオフィスに置き去りにした。休むほかない状況を整えて、どこに旅をするのかを考えはじめた。

はじめは、帰省も兼ねて実家のある京都に寄ってから、四国を巡ってみようと考えた。うどんとかカツオのたたきとか食べたかったし、行ったことがない場所に行くのが好きなので有力な候補地になった。

だけど、コロナのあれこれで断念しなくてはならなくなった。実は家族に医療従事者がいて、実家に滞在することを避けないといけなかった。

次に考えたのが東北だった。東北も行ったことがなかったし、牛タンも食べたかった。社内にいる旅好きのメンバーに相談しながら行き方やホテルなんかも予算内でなんとかなりそうだなとわかり、東北に行くことを決めた。

東北に行くなら被災地へ

東北に行くからには、被災地を確認したかった。譲れなかった。ちょけて牛タンの話をしたけど、こっちが本題だ。

昔話になるのだけれど、震災当時、僕は家族旅行で韓国に行っていて、揺れを実際に体験することができていない。ホテルのテレビに映る真っ赤な日本地図を見て、「何のドラマを見てるんだろう?」と父親に聞いたりするほど震災から距離があり、日本に帰ってからも周囲の雰囲気にどことなく馴染めないでいた。

いつか被災地に行ってみようと思っていた。体験できなかったことを知りたいと思っていた。ただ、その知りたいという気持ちを表現することが億劫だったし、好奇心だけで訪ねていいものなのかと悩んでいるままに、10年も経ってしまった。メンバーみんながくれた休みを使って、この10年越しの旅に出ることにした。

震災遺構 荒浜小学校に訪問した

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というわけで、被災地を訪問した。常磐線という東北の太平洋沿いを進む電車に揺られ、Jビレッジ、双葉、浪江などを経由したうえで、宮城県の荒川にたどり着いた。

余談だけれど、『北海道&東日本パス』というJRが出している一週間乗り放題のチケットが便利だった。JRは特定のエリアをまたいだSuicaの利用ができなかったりするので、このチケットが便利だった。途中下車を予定している方にはオススメ。

荒川の駅からタクシーやバスで10~15分ほど海岸方面に向かったところに震災遺構 荒浜小学校があった。上の写真がそれだ。

着いてすぐに、「何もないところに小学校だけ遺っているんだな。こんなに海から近いところにあるんだ」というように思った。ほとんど人は住んでいなかったし、建物もほとんどない更地が広がっていた。

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↑ 小学校の屋上から撮影した写真

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小学校のあった地域の住宅街が一掃された様子

小学校の中に入るために、脇にある裏口(?)のようなところに回りこんだ。そこで目にしたのが建物の3階にある鉄格子が無残にも捻じ曲がっている様子だった。面を食らった。海から近いとはいっても2kmは離れている。そんなところまで強烈な津波が来るなんて…。

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以下の河北新報の写真に映っているのが荒浜小学校だ。写真の右端がこの捻じ曲がった鉄柵があるところだ。

中に入ると、無残な状態になった教室がそのままの状態で保管されていた。ここに大量の瓦礫が流れ込んできていたそうだ。何も言葉にできないし、ただただ、悲惨だと感じるばかりだった。

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感情移入をして勝手にしんどい気持ちになっているまま2階に進んだ。2階には、ヘリコプターによる救助を待っている間の避難生活の様子が保管されていた。教室の床にダンボールを敷いてかけ集めた毛布で暖をとっていたようだ。電気は通っていたのだろうか。春先の海沿いの東北だ。すごく寒かっただろうし、とても心細かったはずだ。

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このようなしんどい景色を見て、鬱々とした気持ちになっていた僕を驚かせたのは、小学校に通っていた子どもたちの寄せ書きがされた黒板だった。驚くとともに、言語化するのが難しい感情になった。謎の感情。

黒板以外にも、荒川地区を盛り上げるためのボランティア活動に勤しむ子どもたちの写真もたくさん展示されていた。

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はじめて震災を知った

この日、はじめて震災を知ったんだと思う。「震災を忘れるな」というメッセージを投げかけられることがあるけれど、僕はまだ知ってすらいなかった。知らないものについてぼんやりと知った気分になっていた。

行ってみて、どう感じたのかと聞かれても正直困る。「少し知ることができた」としか言いようがない。その悲惨さと震災を経験した人たちのリアクションを知ることができた。何を感じたのかは、もう少し詳しく知らないとわからない気がするので、もっと知る努力をしようと思った。(なので、「更に知りたい」と感じたというのが、どう感じたのかに対する答えなのかもしれない)

追体験は積極的にすると決めた

僕は追体験できることは積極的にすると決めた。

今回の訪問が実現できたのはたくさんのボランティアの方のおかげだ。ありがたい。追体験することができていなければ、ぼくはずっと知らないままだったし、追体験ができるというのはとても恵まれたことだ。

誰かの「遺すぞ」という意志と行動があってこそのものだ。その誰かをリスペクトしながら、少しでも興味を持ったものについては積極的に追体験をしていきたいし、共感してくれた人がいたらうれしい。

以上です。ではでは。

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