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ざっくり解説:アルフレッド・リード

こんにちは!ウインドオーケストラオリジンです!
今回は解説シリーズ第四弾、来る第5回定期演奏会にて演奏する曲全ての作曲家である、アルフレッド・リードについての内容をお届けいたします。

本投稿を読めば、第5回定期演奏会をもっと楽しんでいただけること間違いなし!

担当は原田さんです。
それでは本文をどうぞ!


※本稿は、アルフレッド・リード著、村上泰裕著訳『アルフレッド・リードの世界 その人と吹奏楽曲108曲全ガイド』(スタイルノート刊、2023)を参考にさせていただいています。村上氏の膨大な研究と緻密な記述は称賛されるべきものであり、ここに深い尊敬と感謝の意を表します。

アルフレッド・リードの生涯

1,出生、少年時代

アルフレッド・リード(出生名:アルフレッド・フリードマン)は、1921年1月25日にニューヨークで生まれました。

フリードマンという姓は「ソロモン」のドイツ語訳に由来するものらしく、ユダヤ系に多く見られる名前です。
両親ともにオーストリア生まれの移民であり、リードはオーストリア移民のユダヤ系の子ども…ということになります。

父親のカールは音楽好きであり、裕福ではないながらもクラシックのレコードが流れる家庭で育ちました。

中学校に入学した時にトランペットを習い始め、その後4人組バンドを結成、ニューヨーク市やその近郊で演奏活動を行ってギャラを稼いでいました。
15歳のときリードは、ピアノ、ヴァイオリン、アルトサックス、トランペット、ドラムの5人組バンドを組んで避暑地で演奏を行っていましたが、ホテルのオーナーから「アイルランド系の政治家がやってくるので、来週の演奏ではアイルランドの曲を入れてほしい」と言われてしまいます。
すぐに楽譜を調達することが難しい中、リードは持っていた歌集からアイルランド民謡を選んでメドレーを制作、これがうまくいったことでリードは作編曲の道に興味を持ち始めました。

作編曲を学ぶにあたっては、最初はジョン・サッコ(1905-1987)につきましたが、次いでポール・ヤーティン(1884-1944)に師事しました。
ヤーティンはハンガリー生まれの作曲家で、サン=サーンスに作曲を学んだ人物です。
ヤーティンはストラヴィンスキーなどの最新の作曲技法に目を向けさせず、伝統的な和声や旋律の作曲、美しくて見やすい記譜の方法について厳しい指導を行い、後年のリードに大きな影響を残しています。
この時期に多くのことを学んだリードはヤーティンのことを非常に尊敬していました。

1938年からリードはニューヨーク市青少年局のラジオ・ワークショップ音楽番組制作部に所属し、指揮者のレオポルド・ストコフスキーなどのアシスタントとしてリハーサルを行ったり、19歳で書いたオーケストラのための小品がラジオ放送されたりしました。
多くのミュージシャンと交流を持ち、また自作が音になるという経験はリードにとって学びとなりました。
この頃、後の師となるジャンニーニとも出会いました。

2,軍楽隊およびジュリアード音楽院時代

 1942年、21歳のリードは徴兵され、オーディションに合格して第29陸軍航空隊(のちに第529陸軍航空隊)バンドに配置されました。
ここでのリードの仕事は編曲や指揮、地元ラジオ局の音楽ディレクターが主となり、28人~38人程度の吹奏楽団のための楽譜制作作業に追われました。
書いた楽譜はすぐに音になるので、様々なオーケストレーションを試す機会に繋がり、リードは現場での活動を糧として効果的に楽器を鳴らす術を身に着けていくことになります。
この頃の編曲作品にはヘンデル『メサイア(抜粋)』、ブルックナー『交響曲第4番(抜粋)』、ドビュッシー『ピアノ曲「前奏曲集」(抜粋)』、ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』の他、1944年にはスコア400ページを超えるベートーヴェン『交響曲第9番』全曲版の編曲も行っています。

この頃、作曲家のロイ・ハリス(1898-1979)からクリスマス前の空軍バンドのコンサートに向けて、「ロシア風の曲を書いてほしい」と依頼されます。
その依頼がコンサート2週間前の出来事であり、リードは慌ててロシアの歌のメドレーを制作することを決めますが、最終的にはロシア聖歌風の曲を作曲することとし、11日間で初期の代表作『ロシアのクリスマス音楽』を完成させました。
この作品によって作曲家としてのリードの名前は知られていくこととなります。
リードは軍楽隊に3年3か月在籍し、150曲以上の編曲と、『ロシアのクリスマス音楽』を含む数曲を残しました。

 1946年、25歳のリードはジュリアード音楽院に入学し、ヴィットリオ・ジャンニーニ(1903-1966)に師事します。
ジャンニーニはイタリア系アメリカ人であり、ミラノ音楽院およびジュリアード音楽院で学んだ作曲家で、吹奏楽の重要なレパートリーである『交響曲第3番』を残したことでも知られています。
ジャンニーニが作曲したオーケストラ作品『旅の印象』を聴いたリードは、その卓越したオーケストレーションに魅せられ、いつかジャンニーニの下で学びたいと考えていました。
リードはヤーティンから和声法や対位法しか学んでいなかったので、様々な楽曲の音楽形式の作曲法を学びたいと考えていたのです。
ジャンニーニの作曲哲学は「長く愛好される音楽はイタリアのメロディとドイツの精巧なオーケストレーションしかない」というものであり、この考えはリードの作品に多大な影響を与えました。
ジャンニーニの下で2年半ほど勉強し、『ヴァイオリン・ソナタ』や『ピアノ組曲』などを作曲しました。ヤーティンの指導によって作曲の基礎技能を身につけ、ジャンニーニの指導によってリードの作曲スタイルが確立していったのです。

 ジュリアードの卒業が迫ったころ、フリーの音楽家であるモリス・マモースキー(1910-2003)がアシスタントを募集しました。
リードはこのアシスタントに採用されて仕事を始めることとなり、映画やラジオ、テレビなどの音楽を作曲します。
これによって多忙になってしまい、1948年にジュリアード音楽院は退学、リードはプロの作曲家としてキャリアをスタートすることとなりました。

3,商業音楽の作曲家として

 マモースキーのアシスタントとして活動していく中で、リードはNBCラジオ「苦悩の結婚」やコメディアンのラジオ番組「ヘンリー・モーガン・ショー」などの音楽を担当し、音楽業界内での信頼を築き上げていきました。
ただ、マモースキーとの契約はあくまで「ゴーストライター」的な扱いであり、リードの名前は出てこないので、やがてマモースキーとの契約を解消し、フリーの音楽家として自立することになりました。
レコード業界と関わり、ABC専属作曲家リチャード・モルトビー(1914-1991)と協力して『母の教え給えし歌(リード編曲)』をレコーディングするなどしています。

このモルトビーがABCを退職した後、リードが変わってABCの専属作曲家となりました。
ABCではテレビの世界に進出し「ミュージカル・プレイハウス」などの音楽を担当、同時に映画音楽界でも活躍し、リードが参加したドキュメンタリー映画「この手で」は第23回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされています。
舞台音楽にもかかわり、音楽を担当したミュージカル・コメディ『オール・アバウト・ラブ』はニューヨークのナイトクラブ史における最長ロングランとなりました。
このような実績が認められ、1953年にリードは「フォード・モーター社50周年アニバーサリーショー」というテレビ業界の一大プロジェクトに参加することとなり、2つのバレエ音楽を担当しました。

 リードが音楽業界でめざましい活躍を遂げる中、軍楽隊時代に作曲した『ロシアのクリスマス音楽』の評価がますます高まっており、ハワード・ハンソンやウィリアム・レヴェリ、フレデリック・フェネルといった著名な音楽家たちによって興味を持たれていました。
イサカ大学のウォルター・ピーラーもそのうちの一人でしたが、彼はハンセン出版社にも勤めており、多忙のため会社を辞めるにあたり後任にリードを推薦しました。
音楽業界での仕事に疲れが見えてきていたリードは、ハンセン出版社の仕事を引き受けることにしました。
一方でベイラー大学バンドの指揮者ドナルド・ムーア(リードの『金管楽器と打楽器のための交響曲(リードの「第1交響曲」にあたる作品)』を初演した人物)がベイラー大学オーケストラの指導を勧めており、最終的にはハンセン出版社社員の身分でベイラー大学に出向するという形をとることになりました。
こうして、リードは放送音楽業界から音楽指導の立場に身を置くこととなりました。

4,ハンセン出版社時代

 ベイラー大学では1953年から2年間オーケストラの指導と音楽の基礎理論などを教えていました。
ここで後進の指導にあたりながら学士の学位を取得しています。

ハンセン出版社ではピーラーの要請で『ロシアのクリスマス音楽』を易しく改訂し、『スラブ民謡組曲』として出版しました。
これはリードの初めての出版曲となりました。
その後も多くのスクールバンドを訪れ、教育現場における吹奏楽を学びました。
また、ベイラー大学合唱団のために『バリトン独唱と混声合唱のための「預言」』を作曲しテキサス連邦音楽協会が主催する第40回作曲コンテストに入賞、初めての合唱曲の出版となりました。

そして、それ以上にリードは合唱作品を書く中で文学への興味が深まっていき、『オセロ』や『春の猟犬』など後の作品に影響を与えました。
そのほか、修士号習得を目指して『ヴィオラと管弦楽のためのラプソディ』の作曲をはじめ、1959年にはこの作品をインディアナ大学ルリア・コンテストに応募してただ一人入賞。
これは師のジャンニーニも入賞から外れてしまうほどレベルの高いものであったようです。
また、管楽器メーカー・ルブラン社より『バランスの良いクラリネット編成』という小冊子を出版。リードのオーケストレーションの礎の一つとなっています。

 1955年ベイラー大学での勤務が終わったリードは、ハンセン出版社で編集者として本格的に楽譜の出版や校正などに携わったり、編曲作業を行ったりしました。
1958年にヒットした『ジャンル別ヒット曲50』は短く編曲した50曲の楽譜を18のジャンルに分類して纏め売りするもので、リードは編曲及び編集を担当。
スクールバンドとの付き合いも継続しており、この頃代表作の一つである『音楽祭のプレリュード』も作曲されています。
1965年頃、『音楽理論辞典』の編集に携わる中でマイアミ大学学長のウィリアム・リー(1929-2011)に音楽産業学の講師として勧誘され、ハンセン出版社を退社しました。

5,マイアミ大学時代

 1966年からリードはマイアミ大学音楽学部准教授として、音楽産業学の他音楽教育学や理論作曲学の授業を担当しました。
リードはこの時点でマスメディア音楽業界から出版業界など様々な業界に携わっており、適任であったといえるでしょう。
スクールバンドと関わる機会もさらに増え、学生の選抜バンドの指揮者としてヨーロッパや南米ツアーを行ったりしています。
この功績によりペルーのリマ音楽院から名誉博士号を授与されています。
これにより、日本では「リード博士」と呼ばれることもありますが、リードは正確には修士号までしか持っていません。
また、音楽産業学の教官として楽譜出版業を提案し、実践しています。

 吹奏楽団と関わる機会が増え、また1968年には大学から5分のところに自宅を構えたことで、リードは吹奏楽作品の作曲の時間を多く取れることとなりました。
これまでは様々な仕事に時間をとられて作曲をあまり行えなかったリードも、今までに培ってきた経験生かして存分に作曲に力を入れることが出来、『アルメニアン・ダンス』や『第1組曲』、『ハムレット』、『オセロ』、『第2交響曲』など後世に残る傑作を次々と生み出します。
また、バッハの音楽を次々と編曲しシリーズ化していきました。

この頃、日本でもリードの知名度が高まり、1981年には東京佼成ウインドオーケストラの招きで初来日公演を行いました。
新宿文化センターで行われた第28回定期演奏会は立見席まで埋まる伝説的なコンサートとなり、日本の吹奏楽界に大きな影響を与えました。
大きな歓声に包まれたリードは翌年にも来日し、これを機に日本でも活動の機会が増えていきました。

 1987年、リードはマイアミ大学音楽メディア・産業学科の学科長に就任しました。
日本でも1988年から洗足学園大学の客員教授に就任、1989年から毎年「A.リード 音の輪コンサート」を実施しています(リードはその指揮者として、死去する2005年まで指揮を振りました)。
オーストラリアやヨーロッパにも出かけ、1991年にはオランダで行われる世界音楽コンテストの課題曲を委嘱されています(『第4交響曲』)。

この頃、学科長として職務にあたりながら指揮者としても活動する中で、リードは多忙になっており作曲の時間は以前よりとれなくなっていたようです。

6,晩年

 1993年にリードはマイアミ大学を退官し、自由に活動できるようになりました。
オランダの他、スペインでのバレンシア国際吹奏楽コンクールの審査員を務め、ノルウェーやオーストリア、イタリア、スイス、台湾、香港にも足を運んでいます。
1997年には洗足学園大学シンフォニックウインドオーケストラの指揮者としてヨーロッパツアーを敢行、1998年にはオーストリアで行われた第1回中央ヨーロッパ吹奏楽会議(ミッド・ヨーロッパ)に参加し、2004年まで携わりました。

 このように世界各地を飛び回るリードでしたが、2001年に80歳を迎えて徐々に体力が衰えていっており、2005年5月にドイツで演奏された『EBOシグネーション』が生前最後の初演曲となりました。
8月には「ミュージック・キャンプ in 多摩2005」が開催され、体調を崩していたリードは車いす姿で舞台に登場し、『春の猟犬』や『エル・カミーノ・レアル』などを指揮しましたが、これが最後の公演となりました。

帰国した後、マイアミのドクターズ病院に入院、2005年9月17日に多臓器不全のため84歳で亡くなりました。

リード作品の魅力、聴きどころ

 リードは日本においては「吹奏楽の神様」とも称され、特別視されることが多い作曲家です。
死後も、様々なマスメディアがリード作品を取り上げ、アマチュアのみならずプロフェッショナルな吹奏楽団でも積極的にリード作品を取り上げる試みが行われています(直近では東京佼成ウインドオーケストラが正指揮者・大井剛史氏の下で足掛け9年をかけてリード作品の全5作の交響曲を演奏しています)。
勿論、海外やアメリカ本国においても実力ある作曲家として認められていますが、日本ほどではありません。
リード作品が日本の吹奏楽界においてどうして特別視されるのでしょうか。

リードはジュリアード時代にジャンニーニに学びましたが、前述の通り彼の哲学は「長く愛好される音楽はイタリアのメロディとドイツの精巧なオーケストレーションしかない」というものでした。
リードはその考え方に共感しており、多大な影響を受けています。
ここでは、リードのメロディとオーケストレーションに注目し、リード作品の魅力を改めて見つめなおします。

1,メロディの美しさ、それを支えるハーモニー

 リードのメロディはロマン派のような美しさを持ち、近・現代的な複雑なものになることは少なく、音列による作曲技法を用いた『第2交響曲』においても歌心溢れるものとなっています。

作曲家の後藤洋氏は
「…注意深くリードの作品を聴き、楽譜を見ると、日本人にこそとりわけ「わかりやすい」と感じられる音楽的な傾向がそこにあることが分かる。リードの旋律も、和声も、きわめて全音階的なのだ。…(中略)…『オセロ』の冒頭や『アルメニアン・ダンス』パートⅡの前半部分のように、意図的に半音の動きを多用することで強い緊張感を表現している場合を除き、リードは半音階をなるべく目立たせぬように旋律を組み立て、和声的にもドミナント→トニックの進行による緊張→解放の設計を、大きなフレーズの転換点以外では、あまり強調しないように努めている。」(1)
と論じています。
過剰な緊張感を用いず、自然と心に染み入るようなメロディは、和声や構成を重視してきた土台のあるヨーロッパの人々より、日本人にとって、よりすんなりと受け入れられるものになったではないでしょうか。

またメロディを支えるハーモニーについて、指揮者の大井剛史氏は、リード作品を演奏する中で、
「リードの作品の和声はときになかなかに複雑になることもあるが、それが難解になるぎりぎり手前くらいにとどまっているのは、彼が本来持っているロマン派音楽への指向か、あるいはどこまでなら聴衆に受け入れられるかを本能的に嗅ぎ取るバランス感覚ゆえか。…(中略)…際どい和声までいっても無調まではいかず、セブンスの和音で聴き手の心を溶かすのを忘れない。」(2)
と述べています。
これはリードがヤーティンから学んだ伝統的な和声や旋律の作曲法と、クラシック音楽のみならずマスメディア音楽業界や出版社に勤めながら培った聴衆に対する理解が影響している可能性がありそうです。

 もう一つ、リードのメロディには大きなポイントがあり、それはリードが移民の子であり、また様々な文化が集うニューヨークで育ったことにより、様々な国の民謡に対して理解がある、という点です。
リードは「私はニューヨークで生まれ育ちました。この都市は世界中の人種や文化があふれているところです。音楽もまたしかり。異国の民族音楽は私にとって特別なものではないのです。」(3)と述べており、
多種多様な国々の音楽に分け隔てなく接し、自分のものとして吸収することが出来たと考えられます。
初期の傑作『ロシアのクリスマス音楽』から代表作『アルメニアン・ダンス』など、様々な国々の民謡を安易に楽曲に用いることなく、自分なりに咀嚼して再構築してオリジナリティある作品に仕上げることができるのは、そうしたリードの出自にもかかわっているのかもしれません。

2,現場で培い、師に洗練されたオーケストレーション

 リード作品のもう一つの魅力はオーケストレーションです。
オーケストラに比べ、吹奏楽は管楽器主体で、かつ人数やバランスもその時々によって変わりやすいため、音が濁りがちです。
作曲家たちは、この特性を解消するべく、人数固定の理想的な編成を設定してその編成のための作品をつくる(ウインドアンサンブル)、音の濁りも魅力の一つととらえそれを最大限生かした作品をつくるなどの工夫を凝らしてきましたが、リード作品は楽器同士の音色がぶつからないように努めつつ、効果的にバンドが鳴るようにオーケストレーションが為されています。

リードは前述のように、様々な楽器の効果的な重ね方に定評のあるジャンニーニからアカデミックなオーケストレーションを学んでいますが、それ以前に軍楽隊にいたこともリードのオーケストレーションに大きく影響していると考えられます。
軍楽隊時代、リードは自分の楽譜がすぐに演奏される立場におかれていました。
それゆえ、自分の書いた音を直に聴きながら、効果的な楽器の組み合わせや重ね方について検討することが出来たのではないでしょうか。
また、商業音楽の世界に身を置いたことで、吹奏楽における豪華で迫力のある響きを生み出す術を実践的に学ぶことが出来たのも大きな利点だったのかもしれません。

 その研究の成果の一つが、リードが著した『バランスの良いクラリネット編成』という小冊子であると考えられます。
これは、高音域から低音域までバランスよく編成したクラリネット群の重要性を説くもので、リードはE♭クラリネット1人、B♭クラリネット12人(3パートに4人ずつ)、アルトクラリネット2人、バスクラリネット2人、コントラバスクラリネット1人を理想として挙げています。
勿論、楽器メーカーの販売促進も目的の一つとしてあったのかもしれませんが、実際のところこのクラリネット群は弦楽器のように管楽器の音色の穴を埋め、安定した響きをもたらすことに成功しており、リードの豊かなサウンドの特徴の一つであると考えられます。

また、リードが元々トランぺッターであったことも見逃せません。
リードのオーケストレーションでは、トランペット(ブリリアント・ブラス群)とコルネット(メロウ・ブラス群)に分かれていることが多く、それぞれの役割も動きも異なります。
少年期にトランペットを(ギャラを稼ぐ腕前で)演奏し、その特性や魅力をリードは体感的につかんでいたのかもしれません。
迫力のある響きを生み出すブリリアント・ブラス群とは別に、木管楽器ではない、金管楽器特有の温かみのあるサウンドや、それによって奏でられるなめらかなメロディは、リードのサウンドの厚みや多彩な音色を引き出しており、吹奏楽ならではの響きの面白さをもたらします。

 楽譜に対する指示の細かさもまた、リード作品のポイントの一つであり、人気の秘密と考えられます。
前述の通り、吹奏楽はオーケストラと比べて人数が安定しないのですが、リードは音量や音色のバランス面を常に考慮しており、「solo(一人で主役)」「soli(複数人で主役)」などの指示もこまやかです。
低音パートの人数に気を配って指示を出すなど指揮者として活躍していた経験も活きており、細かく記載されたキューは、多くのスクールバンドと交流する中でリードが学んだバンドの実情(特定の楽器の奏者がいなかったり、逆に同じパートを多くの奏者が担当したりするなど)を考慮したうえで、どのように楽器を重ねればより良い響きが生まれるかということを常に考えていた結果だと捉えられます。
アマチュアが主体となって発展してきた日本の吹奏楽界において、作曲者がこのような点を考慮して、充実した響きを生み出すための工夫を提示してくれたということは大変ありがたく、多くのバンドに受け入れられていった理由の一つと考えられるでしょう。

 このようにリードはアカデミックな作曲法を学び楽式論やオーケストレーションを習得しながらも、多くの現場での実践や知見を盛り込んでいった作曲家であると考えられます。
「ウインドオーケストラ・オリジン」のプログラムではそんなリードの魅力のエッセンスを、大いに味わうことができるでしょう。


出典
(1) 後藤洋:「日本人がアルフレッド・リードを愛する理由 ―リードの音楽は「演歌」か?」,『バンド・ジャーナル』2021年5月号
(2) 大井剛史:「なぜリードの作品は我々の心を掴むのか」,『バンド・ジャーナル』2021年5月号
(3)『ザ・シンフォニックバンドVol.2』,『バンド・ジャーナル』1989年11月別冊


以上、アルフレッド・リードについての解説でした!


★次回演奏会情報★

<ウインドオーケストラオリジン 第5回定期演奏会>

日程:2024年2月10日(土) 13:15開場 14:00開演

場所:江戸川区総合文化センター大ホール


【オールリードプログラム】

曲目:アルフレッド・リード作曲/

アルメニアン・ダンス パート1
アルメニアン・ダンス パート2
オセロ
第2交響曲

指揮:高野義博
入場無料(未就学児入場不可)

当団の記念すべき第5回定期演奏会では、名曲プログラムとして吹奏楽界の巨匠、アルフレッド・リードの作品を取り上げます!

曲目は、日本で最も有名なリード氏の作品と言っても過言ではない「アルメニアン・ダンス」、シェイクスピアを題材にした作品群でも人気の高い「オセロ」、リード氏の初の吹奏楽編成の交響曲である「第2交響曲」を演奏します。いずれも1970年代に作曲、初演された作品です。

挑戦的なプログラムではありますが、当団の記念すべき第5回演奏会に是非ご期待ください。

団員一同、皆様のご来場を心よりお待ちしております。


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