“バリアアリー”でいい。だからこそ、つながれるのだから。

アレルギーEXPOの帰り。一緒に出展させていただいたママさんは、お子さんを連れてきていた。終始ご機嫌でマスコットになってくれた彼は、はしゃぎ疲れたのか、ベビーカーでぐっすり眠っていた。

歩道に上がる瞬間、車の滑りが悪くなり、危うくベビーカーから子どもが落ちるのではないかとヒヤッとする場面があった。ママさんは慣れたもので顔色一つ変えなかったが、車いすやベビーカーの小さなタイヤには、まだまだ不便な凸凹が街には多いのだとハッとする瞬間だった。

それも、タイヤが引っかかったのは、整備されていないための凸凹ではない。

点字ブロックの「止まれ」ブロックだった。

バリアフリーを推進するための点字ブロックが、逆に車いすやベビーカー、足を上げにくくてつまずきやすいお年寄りにとっては、小さな障害となってしまっているのかもしれない。

「そうなの、点字ブロックとかもね、結構タイヤはまったりガタガタしたりするんだよねー。でも、どっちの方が命に直結しますかって話で、このぐらい仕方ないことだと思うけど。気を付けていれば大したことないし。」

ママさんは慣れた様子でサラッと話した。

車いすやベビーカーを優先して凸凹を完全になくせば、今度は目の不自由な方が気付かず車道に出たり、ホームから転落したりするかもしれない。その危険性を考えれば、やはり点字ブロックが優先だ。

誰かにとってのバリアフリーは、誰かにとっての障害であり、誰かにとっての障害は、誰かにとっての配慮かもしれない。

バリアフリーとは聞こえがいいけれど、誰しもにとってのバリアフリーは、きっとない。

この社会は、“バリアアリー”だ。

だけど、“バリアアリー”だからこそ助け合ったり想像し合ったりするのではないだろうか。“バリアアリー”だからこそ、関わりあって、依存し合えるのではないか。

もし、本当に完璧なバリアフリー社会となり、誰しもが自分のことを一人でできるようになったら……

周囲の人は必要とされなくなるかもしれない。

こちらから人を気にかけて声をかけることもなくなるかもしれない。

「荷物がいっぱいで大変そうだし重そうだから、片方持ってあげるよ」なんて微笑ましい光景もなくなってしまう。

私たちは、“バリアアリー”だからこそ人に助けを求められ、人のことを気にかけるのだ。それが、社会との関わりであり、つながりなのだ。

物理的には“バリアアリー”でいいのだ。それを、人と人との関わり合いの中で“バリアフリー”に変換していく。それが、本当の意味での“バリアフリー”なのだと思う。

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廣瀬 翼(つー)

▶︎インプロ・トリノス所属(即興芝居) ▶︎ライター / 編集者 / PR ▶︎写真/日本語教師/ダンス/美術館/アイセック/立教/大阪/茶華道/休学/ベトナム ▶趣味| 写真とTwitter

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