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昔、ある所に、地獄と極楽の見学に出掛けた男がいました。
最初に、地獄へ行ってみると、そこはちょうど昼食の時間でした。食卓の両側には、罪人たちが、ずらりと並んでいます。
「地獄のことだから、きっと粗末な食事に違いない」と思ってテーブルの上を見ると、なんと、豪華な料理が山盛りにならんでいます。 それなのに、罪人たちは、皆、ガリガリにやせこけている。
「おかしいぞ」と思って、よく見ると、彼らの手には非常に長い箸が握られていました。恐らく1メートル以上もある長い箸でした。

罪人たちは、その長い箸を必死に動かして、ご馳走を自分の口へ入れようとするが、とても入りません。イライラして、怒りだす者もいる。
それどころか、隣の人が箸でつまんだ料理を奪おうとして、醜い争いが始まったのです。

次に、男は、極楽へ向かいました。夕食の時間らしく、極楽に往生した人たちが、食卓に仲良く座っていた。もちろん、料理は山海の珍味です。
「極楽の人は、さすがに皆、ふくよかで、肌もつややかだな」と思いながら、ふと箸に目をやると。それは地獄と同じように1メートル以上もあるのです。
「いったい、地獄と極楽は、どこが違うのだろうか?」と疑問に思いながら、夕食が始まるのをじっと見ていると、その謎が解けました。
極楽の住人は、長い箸でご馳走をはさむと、 「どうぞ」と言って、自分の向こう側の人に食べさせ始めたのです。にっこりほほ笑む相手は、「ありがとうございました。今度は、お返ししますよ。あなたは、何がお好きですか」と、自分にも食べさせてくれました。

男は、 「なるほど、極楽へ行っている人は心掛けが違うわい」と言って感心したという話です。同じ食事を前にしながら、一方は、俺が俺がと先を争い傷つけあっています。もう片方は、相手を思いやり、相手から思いやられ、感謝しながら、互いに食事を楽しんでいます。 どちらが幸せかということは明らかなことです。

自分さえよければでは、幸せになれません。一人ぼっちになってしまいます。幸せの花は、相手(他)と自分との間に咲くからです

寓話/三尺三寸箸・地獄と極楽の話

前回「蜘蛛の糸」を引き合いに出したので、今回も仏法的な説話「三尺三寸箸」をば引用してみたりして。※蜘蛛の糸は芥川龍之介の創作ですが

霊的知識の話になりますけれど、ざっくりさらりと短めに。
上級者向けの話と言ってもいいかも知れない、「幸せ」についての話。

自分だけが得しようと思って行動すると
自分以外の人の不幸も背負うことになる
他人に得をさせようと思って行動すると
他人の幸福や運のお裾分けがやってくる
自分も得をして他人にも得をさせようと思って行動すると
自分も他人も社会全体もすべての人に幸福が広がっていく

by私

多くの人が「幸せ」になりたいと思っていたりしますが、実のところ、自分にとっての「幸せ」が何であるのかを理解していません。なおかつ「幸せ」になりたいと幸福を求めつつ追いかけつつ、真の幸福がなんたるかを知らず気づこうとせず、自分を幸せにする方法について模索する時間を、ほとんどの人がもちません。
たぶん、「幸せ」を希求する多くの人は現在の不満足解消されて、いま所有している「願望」が叶えられることこそが幸福と信じて疑ってないでしょう。そして、その「幸せ」は周囲や自分以外の誰か、もしくは天や運命からもたらされるもので、与えられるもの、自分の外にあるものと思い込んでいたりします。

けれど、本当の幸せは自分の中にあります。自分の外に幸せはありません。

しあわせの青い鳥のように…実体はないものであり
外を探しても見つからないものなのです

楽園」とは今自分がいる場所で、これから行くべき場所だったりします。場所というのは空間的概念では無く、今ここに在りて在りし場所、つまりは自分の心の状態のこと、インナースペース(インナーピース)のことですね。

さて、実際のところ…
私たちは今の段階では、「幸福」を感じること、それを堪能し、味わうことは出来ません。三次元の世に、幸福・至福・充足感は無いのです。

この現実と言う三次元の世界(物質的世界)、物質的身体(三次元の身体)で、肉体で…体感し、味わうことが出来るのは満足感だけです。

現実社会で私たちが体験出来るのは、幸福に到る道への途中とも言うべき段階で、一種(幸福)の疑似体験である満足と言う状態に過ぎません。つまりは生存本能や肉体的欲求を満たし、心を満足させる方法を私たちは日々追いかけて、それを実践しているというわけです。

幸福・至福・充足を感じ、味わうことが出来るのは、私たちの6次元の身体であるサイコ・ノエティカル体(神体/霊=魂)だけ。
つまり、幸福・至福・充足のある世界と言うのは、6次元以上の次元世界にしか存在しないのです。

予備知識として…6次元の世界は分離の世界では無く、ワンネスの世界でもありますが、個を所有したままでワンネスに帰属することの出来る世界です。私たちはそこでとしての経験(輪廻転生した様々な人生の記憶)を残したまま、ワンネスに帰属することになります。7次元以上になると「個」の概念(観念)は存在しません(消滅します)。

ですので、「幸せ」と言うのは個としての「満足」にあらず

6次元での「幸福感」は…
他者を幸せにし、満足させることによって生まれ、味わうことの出来るものです。自分だけを満足させても、そこに幸福感は微塵もありません。
他人を幸せにすることが出来てこそ、初めて味わうことの出来るもので、他人と分かち合うことの中にあるものであり、誰かを幸せにする喜びの中に至福があります。そして多くの人に与える喜びが充足です。

3次元、4次元、5次元に「真の幸福」が存在しない…と言うのは、そうした意味です。

ですが、まず「幸福」を知るためには「満足」を知らないといけません。自分を満たすこと・ものを知らずに、他人まして多くの人を満たすことは出来ませんから、自分にとっての「満足」が何であるかを良く知って、自分を満たす方法を色々試し、他人を満たすものが何であるかを知るということは、とても意味のある貴重な経験学びです。

しかし、真の幸福感の在りか‥たる
~他人を幸せにすることの中に幸福感を見出すこと~とは真逆の行為…が自分をもっとも「不幸」にし、自分に「不満足」を与え、心や精神を飢餓状態にする行為であるという、そのことについて、私たちはよく知っておかないといけません。

それは自分の欲求(エゴイズム)を満たすために、他人から「奪う」行為のことですね。他人の信頼や人権、尊厳を踏みにじる行為もそうですし…命や持ち物を奪う行為もそうです。
これらの行為は、他人を不幸せにする行為ではありますが、誰よりも自分自身を不幸にする行為であります。自らを「真の幸福」からもっとも遠ざける行為といいますか…幸福の在りか、幸福を味わえる場所にいつまでも近づけないばかりか辿り着けず、どんどん遠くなっていくばかりです。

話は少し戻って…
確かに私たちはこの世(現実という三次元)では、幸せを感じることは出来ませんが‥それでも、その感覚に近いもの…「満足」と言う一時的な甘い感覚を通して、「幸せ」を疑似体験することが出来ます。
これは本当に一瞬の泡沫・見た瞬間から散ってしまう花火のようなもので、いつまでも浸っていることは出来ず、欲望が満たされた後には直にまた新たな渇き不満足感が襲ってきてしまいます。ですので、一つ何かの欲望が満たされたとしても私たちはそこで「満足することを覚えることなく、私たちはすでに手に入れてしまった以外の欲しいもの、自分を満たしてくれる何かを求めて、その飢餓感を満たすための行動へと次々に駆り立てられてしまうのです。
ここには永遠の充足はありません。真の幸福とは満足を超えるものです。

何よりも、先に述べたように、自己を満足させるだけ…では、私たちは「幸福感」を味わうことが出来ないからです。自分にのみ与える体験、自分の感情や感覚を満足させようと自分にだけ与える行為の中には、幸せは存在しないからです。だから、心は一時的に満足することが出来ても、それは一時的なものでしかなく、継続的な満足感を保持することが出来ないのです。
時にそれは、さらなる「空虚」と「欠乏」と言った、魂の不完全燃焼を生むことにも繋がります。それはいつまで経っても、何をしても、何を得ても、どれだけのことをしても満足することが出来ないという状態です。

真の幸福は物質に非ず…というような単純な図式、状態ではありません。

サイコーノエティカル体を成長させること、解脱を目指すということは、真の幸福を求めることと同意語になります。私たちはサイコーノエティカル体(サイコーノエティカル界たる6次元)でしか、幸福を味わい、甘受することが出来ないからです。

人類-個々の人々の求める幸福・幸福感は、6次元であるサイコーノエティカル界に行かないと得られません
天国(楽園・天界)とは、まさにこの場所のことを指し示しているのです。

なので、「幸福感」を味わえるかどうか…と言うのは、サイコーノエティカル体の成長如何に関わっています。霊的な成長をしているか否か。
そして、他人を幸せにしたり、他人のために働くこと、与えること、分かち合う喜びの中に自らの悦びと幸福を見出す生き方を選択すること…
それが自らを「真の幸福」へといざなう、唯一無二の方法です。

※その方法は一人ひとりの魂のカラー、ミッションによって異なる

とは言うものの、
世俗的欲求や願望を持ってはいけないとか、自分自身を満足させることを後回しにして疎かにして良いとか、他人のために犠牲になる生き方をしろとか、決してそんなことを言っているのではありません。

まずは自分を満足させる方法、自分についてのトリセツをしっかりと把握することが大切です。人から神に戻るという帰還の旅路において…私たちは「人-人間」としての、自分自身(人生)をしっかりと生きなくてはなりません。

まずは自分のために生きることを覚えること。すべてはそこからです。

他人の要求を満たすために、自分を犠牲にする必要は無いし、そのような生き方を選択してはなりません。「犠牲になっている」と心が不満を抱えている状態にあっては、まだ自分自身を幸せにする生き方を実践出来ていない状態・段階だからです。

しごくナチュラルに、誰かのために生きたい、誰かを幸せにしてあげたい…そんな気持ちが育つまでは自分のために生きればいいのです。ですが、自分のために誰かを犠牲にしてはいけません。

汝の欲するところを成せ! 但し、決して他者を害してはならない

「魔女の書」より

光のある方角(正しい道・生き方・自分が行くべき場所)を知りつつ、そこを道しるべとし、目標としつつも、その生き方を実践出来ない自分を蔑み、卑下・差別する必要は無いのです。今いる場所を楽しみ、精一杯いまの自分を楽しんで生きればいいのです。
少しずつ、そちら側、光の方に行けるようになれれば…いつか辿りつくことが出来ると信じて、近づく努力だけすればいいのです。
昨日よりも今日、今日よりも明日、明日よりも未来…1年後、2年後、5年後、10年後には確実にそちら側に少しでも近づくことが出来るように、ちょっとずつでいいんです。

いつかはその境地に達することの出来る自分自身を信じてあげて下さい。
来るべき未来の、あなたが成るべきあなたに成っていくことを…

感謝されたとき、「ありがとう」とお礼を言われたとき、誰かのためになることや、他人に喜ばれることをしたとき、気分が良いのには理由があります。それも「幸福」の一部だからです。自分を幸せにする行為そのものだからです。ここには余韻があります。欲望を満たしたとき、目標を完遂した時の、一時的な満足感や達成感とは全く異なる、いつまでも消えない余韻が。

他人のためになる仕事をして、そこに悦びを見出せたなら、それはまさに自分を幸せにする仕事です。悦びを感じているのは、サイコーノエティカル体であり、が幸せをあなたに「幸せ」の在りかを教えてくれているのです。
自分が楽しくて悦びを感じられることで、他人に悦びを与え、幸せに出来たなら…これはすべての人を「幸せ」にするです。

他人の幸福を願ったり、祈ったりする心の中に神(仏)がいて、他人の悲しみや苦しみを我が身のことと嘆き悲しむ慈悲慈愛の中に、幸福への片道切符が存在しています。

では「満足」は感じられても、「幸福感」を味わうことは出来ません。
心は4次元の身体だからです。「幸福感」は6次元の身体で体感するものです。この6次元の身体は、自らが滋養を与えて成長させないことには、使えるようにはなりません。
でも「心」を「満足」させることは自分自身を満足させること。まずは自分と言うところがスタートラインですから、心を満たすことをマスター出来てこそ…と考えないと行けません。ですので、自らの「心」と対話して、心の欲求を知り、心が満足する方法を色々と試して、自らの心の望み、心を満たすことが何かを知ることです。
それが出来ないことには、6次元の身体を成長させる工程も踏めませんし、他人の望みや幸せが何であるか、他人を満足させる方法も理解することが出来ませんから。

なので、焦らず…が肝心です。
嫌いな人、好きになれない人、憎い人、恨んでいる人、不幸を願ってしまう相手がいる…などがいる自分を責める必要はありません。他人の幸せを心から喜べない自分を戒めたり、罰したり、罪悪感を抱いて、自分はダメだと自己否定することは止めましょう。
他人の幸福を願ったり、祈ったり出来ないから自分は幸せにはなれないのだと…嗜虐的になる必要もないです。そういう人は自分で自分を幸せにする正しい選択が出来ていないだけです。そこから始めればいいんです。自分を幸せにすることから試して、自分を慈しむ時間を十分に持てばいいんです。但し、他人の力や手を借りても、丸投げしたり、任せっきりにするなどの依存だけはいけませんけど。

そんな感じで、幸せは自分の外では無くて、中にあるもの、それを探して、見つけて、構築していくものなんですよってな話なのでした。
※なんだかんだ、長くなったー


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