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シャーマンの受難~スピリチュアル・エマージェンシーのこと(前半)

※こちら数年前に書いたものです

ここ一ヶ月、精神的にかなりしんどい状態が続いています。めちゃくちゃキツイというか、何というか…物理的にも心理的にもギリギリ極限まで追い詰められている感じで。

最初の頃は、過去(今生及び過去生)におけるトラウマやPTSDのフラッシュバック(追体験)が酷かったので、チャクラに対する解放ワーク…に取り組んでいることに対しての、浄化や解放(ヒーリング・クライシス)なのかなと軽く考えてました。

けれど、どうも違う。そのうち抜けるかと思いつつ、なかなか脱出できないし、状況はどんどん悪くなるばかり。

身体の毛穴という毛穴から、ひっきりなしに毒針が飛びだしてるような、
全身ハリネズミで棘だらけになったかのよう。身体は動かないし、何も出来ないし、他人と話したくもなく。ひたすら過去の出来事や抑圧してきた感情(怒り)、一度クリアして乗り越えたはずの出来事と対峙する日々。

まるでドラッグの禁断症状のようでもあり、狂犬病にかかった狂犬のように、のたうち苦しむか無気力に横たわるしかありませんでした。

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霊的な波動は明らかに下がっているから、憑依もサイキカルアサルト(アタック)も一瞬疑ってみたけれど、なんか違う。単なるヒステリーとも違う。
ネガティブ・エレメンタルにやられてるにしても、何処か違う。鬱?かなあ…と思うしかなく。さて、私は故あって、同業の友人はほとんど居ませんし、このブログに書いているような内容(いわゆるスピ系や電波)のことを話せる友人は生徒さんやクライアントさん以外、皆無に等しかったりします。(友人は普通の人たちばかりでして)

たまたま、先日その手の話が出来る唯一の友人に会ったのですが、彼女はシャーマニズムやトランスパーソナル心理学に詳しい人なので、私がいま直面している状況、私の状態を、「スピリチュアル・エマージェンシーでは?」と・・・

今さらながら、それで始めて
"スピリチュアル・エマージェンシー"という言葉を知りました。

話を聞いて、ああ…な~んだ。それって、ユタさんの神憑り(神ダーリィ)と同じだと。神ダーリィは巫病ともいい、よくある"シャーマンの受難"の一つ。この手の仕事をするものにとっての、"通過儀式"でもあり、ときに"魂の暗夜"とも呼ばれます。そして"傷ついたヒーラー"という状況を否応なく経験させられるのです。

ネイティブ・アメリカン(インディアン)のシャーマンは、こういうとき、ビジョン・クエストをするなど、とても苦しく、拷問と違うやろか、って…くらいの、激しく厳しい試練通過儀礼として受けることになります。

シベリアのシャーマンもそうです。生か死か…っていうギリギリのとこまで追い詰められて、極限状態に置かれて、「現在の人格」を崩壊させ、新しい自分に生まれ変わることを要求されるんですね。

そういう状態があるってことを、どんなものかってことを知っていると言えば知っているのだけれど、それが"スピリチュアル・エマージェンシー(霊性の危機)"という言葉で言い表されていることに関しては、知らなかったわけです(トホホ)。

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去年、はるさんにお会いしたときにも言われたのですけれども、これまでにお会いしたユタさんには必ずといっていいほど、「あなたは私たちと同じで仲間なんだから」と。(そして、何でもっとちゃんとこの仕事に取り組まないの?逃げてるの? ・・・とも怒られるのがお約束)

確かにシャーマンでミディアム体質だから、それはそうなんだけど、琉球の人たちを支配してきた薩摩藩士を先祖に持つ私が、そんな風に言ってもらえるのは、おもはゆいというか申し訳ない限りで。かなり抵抗があります。基本ユタさんはシャーマンはシャーマンでも、うちなんちゅールーツを持ってる人しか出来ないのです。本土の人と、沖縄やアイヌの人とは、信仰や宗教というよりは、神様背景が異なるので。

さて、この"シャーマンの受難" いちおう今回が始めてというものではなく、軽いのは数年に一回、定期的に訪れてくれますが。けれど、こんなにしんどく、日常生活のことを何も出来なくなるほど酷いのは、これで三回くらいでしょうか。

過去に経験しているのに、すっかり忘れていたし、
まさかそれとは疑ってもみませんでしたっっっ やれやれ・・・

本当に色んなことに直面させられています。次から次へと。身体は重く、動かなく、日常生活のことは間々ならないのに、頭だけは、考えだけは働いていて、色んなことと対峙させられてます。

少し前、あまりにも怒りが次から次へと湧き上がってきて、どうにも修まらず限りなくネガティブになり、さてどうしたもんかと思いつつも、どうにもならず、瞑想も出来ないし、セルフヒーリングも出来ないし、どうにもこうにも対処法が見つからないし、功を奏さず。

もう、仕方ないので、そのネガティブな感情の海にダイブするというか、いっそ堕ちるとこまで堕ちて、一度どっぷりと嵌ってみようと・・・その中に浸りきるだけ浸ってみました。

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さて、私はすぐ犯罪被害者に同調し、反応するという習性があります。

人の心を持った人ならば、誰もが悲惨で凄惨な事件の被害者に同情し、同じ痛みや苦しみ、哀しみを覚えることと思いますが。

世の中で起こっている、不条理かつ悲しい事件を目にする度、私の心も怒りで燃えたぎり、犯人に対する憤りと憎しみで、リベンジしたくなる気持ちを抑えきれなくなることもしばしばでした。

背中から火柱が立ち上り、犯人たちを八つ裂きにしてやりたくなる衝動を堪えきれず。ドラマでも映画でも小説でもコミックでも、いわゆる弱きもの側の「復讐もの」にカタルシスを感じ、まるで自分の身に起こったことのように感情移入をして、それがフィクションであるというのに、必ず号泣していました。

今回のスピリチュアル・エマージェンシーでは、最初のうち、今生の出来事に対する怒り。父親とか父親の親族や母、現状に対する怒りなど、そうしたものが湧き上がってきて、爆発していたのですけれど、段々、それが過去(生)の出来事へと向かっていったのですね。

あまりにも大きな怒りで身体が動かなくなってしまったとき、そこから目を逸らすのをやめて、その怒りの海の中に自ら飛び込んで、一度沈むことにしました。徹底的にその中に入り込むしかない・・・というか、それしかもう出来ないというか、道はないように思ったのです。

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私は子供の頃から無意識的に事件史というものに関心が強く、その手のドキュメンタリーはもちろん、コリン・ウィルソンの著書やマーダーケースブックだの、犯罪捜査官のプロファイリングものなど、犯罪自体や加害者、被害者の状況に対して、調べるクセがありました。

それは私自身の中に、何よりも犯罪を憎む気持ちがあるからです。

運命学や宿命論、占いやオカルトなどに興味を持つ方向性とは別に、そのような事とまったく切り離して、まるで信条のように・・・自分の中に湧き上がってくる、正義感のような熱い想いと激情が、どうしてもその方向性に吸引されてしまうのです。

そういう気持ちの前には、カルマの法則も因果応報も真理も、「クソ食らえ!」です。宇宙のルールだとか霊的真理の法則を知ってさえいても、そんなこと、割り切れないし、納得なんか出来ません。

「何故、自分は、
 あんな残酷な殺され方をしなければならなかったのだろう?」
「どうして私の大事な家族、人たちは、
 あのような惨い死に方をしなければならなかったのだろう?」
「私を殺した犯人は・・・そして私の愛する人たちを殺した犯人は、
 何故あのような残酷なことが出来たのだろう?
 どうして、あそこまで人間性の欠片も無い人間になったのだろう?」

怒り・・・憎しみや憤りもさることながら、
恨みだけでは消化できない強い疑問と感情がそうさせていたのでしょう。

自分が被害者である場合は、恐怖が強いのですが、
大事な人を殺された場合は、激しい憎悪と復讐心、恨みが残ります。

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さて、スピリチュアル・アレルギーがあるというか、電波系の話が嫌いで、
未だ自分のサイキカルな部分にかなり抵抗のある私ですが、それでもこうした能力を極められるならば、その道に進みたいと思っている分野があったりします。

サイコメトラー・・・超能力捜査官ともいいますね。

子供の頃に、隣の市で起きた殺人事件が透視能力者の人が来日したことでの遺体発見に繋がり、新聞の一面をにぎわせた事件が、当時の私に強くインパクトを与え、その影響を受けたというのもありますが。

犯罪を憎む気持ち、犯人を赦さないという気持ち、不幸にも被害に遭われた人々の無念を晴らしたい、愛する人の元に帰り着けない遺体を見つけてあげたい。命は帰らなくても、せめて真実を明らかにして、遺族の無念、疑問を少しでも楽にしてあげたい。

そんな想いと目的だけが、唯一自分が他人と異なっている個性を受け入れる術と言えばそうでしょうか。

とはいうものの、

相手をぶっ殺してやりたいほどの、「憎しみ」「怒り」「恨み」 それらを抱えたままでは、人を「赦し」「愛すること」の実践を妨げるばかり。スピリチュアルな仕事をするには大きな問題であり、スピリチュアルな成長の障害でもあり、霊性を磨くには邪魔なものでしかなく…

だからこその、それを手放すための、今回の再誕生としてのスピリチュアル・エマージェンシー。インディアンでいうところの"シャーマンの死"が求められているわけです。すごく解っているんだけど、キツイ。

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ちなみに私の生物学上の父親・・・今生の父は、過去生で海賊や盗賊の頭として、たくさんの人を殺し、盗みや姦淫を犯し、町を燃やし、暴虐の限りを尽くした人生を持つ人です。今の人生では、外面の良い小市民として生きていますので、誰も彼のそうした残虐性を垣間見れる人はいないでしょう。

私はこの父とは、過去生での出会いはなく、関係性を持つのは始めてです。
※母は過去生ではこの父の被害者でありますが。

彼にとって「私」という娘に対して父親の役目を果たし、保護者として生活費を出してお金を使っていくことは、贖罪であり、善行を施すことに繋がります。私がこのような仕事をしているからこそ、余計に。

けれど、彼はまったく進歩していません。残念ながら、人として成長していないのです。今回の人生で犯罪こそ起こさず、まっとうかつしごく普通に生きてはいますが。(父が、殺人を犯した同級生に名前を使われるという犯罪被害にあったこと、それは因果でした)

そして、いかに、彼にとって私を養育するお金を使うことが贖罪として必要なことと、それを理解していても、犯罪被害者を経験している私が、このような人物を父に持つこと、その人物のお金で生活していたこと。屈辱以外のナニモノでもなく、納得出来ることでは無いというか、ありがたく受け入れられることではありません。

ここも乗り越えないといけないことですが。家族の過去生(とくに罪)が判ってしまうというのは、そんな風に正直しんどいものです。敢えて視ないようにはしてますし、無関心を装っていますけれど。なかなかどうして、そうも行きません。

身内のカルマに対して、どのように対処するべきか…どういうスタンスであるべきか…ということに関しては、私としてあるしかない、としか言いようがありません。娘であるならば、娘として正直かつ率直にあるしか。自分の彼らに対する感情を素直に表していく他は無いのです。

ここは赦すとか赦さないとか、家族だからとか、そう言ったことでもなく。

で、長くなってしまったので前半後半で分割します。

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