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W・Aさん【2013年度レポート】

振り返りのレポート

■学ぶことに対する内面の変化

1(喜び・意欲)新しい知識を得ることが楽しい
   ↓
2(とまどい・焦り)分かった気になることと出来ることは別物だ
   ↓
3(落ち込み・厭世)自分には出来ない、もう何もかも投げ出したい
   ↓
4(許し・激励)完璧を求めなくていい、出来ることからやろう

半年の基礎講座の頃は、何もかもが新しく、その知識は今までの自分の価値観を飛び越えたものだったので、閉塞感を感じていた私は未来が開けたような明るい気持ちになりました。知識を持ったことで人生を生きやすくするためのパスポートを手に入れたかのような安易な安堵感を持ったのです。

しかし、グループレッスンで他者との関わりあいがテーマとして挙がってきた頃から、自分自身の欠点を目の当たりにして愕然としました。
「分かった気になっている自分」「うまく対処できない自分」とのギャップにとまどい、焦りばかりが増えていきました。

いよいよ重い腰を上げて取り組まざるを得ない状況になった時、まるで崖っぷちの、目の前に道がない場所に、追い詰められてしまったという絶望感に落ち込みました。変化を求める一方で変化への強い不安や恐怖を自覚しました。

道を間違えたのなら、また戻って違う道をやりなおせばいいのだと、こんな不完全な自分でも尊重してあげて、出来ることからやってみようと思えるようになったのは、アルマさんとのやりとりの中で、自分の狭い世界での思い込み(~でなければダメだ)を(本当にそうだろうか?)と別の角度からのアプローチを覚え、ひとつひとつ解きほぐしてこれたからだと思います。

2と3の状態になってしまうこともまだ多いけれど、
1の感覚を頼りに4の部分を意識して少しずつ増やしているのが現在です。

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■グループレッスンで学んだことと関連する自分の変化

他者との関わり合い方について
私はずいぶん無意識というか、無関心だったことに気づきました。いつも思い出すのはヤマアラシのジレンマ。他者と親密に関わり合いたいという欲求はあるのに拒絶を恐れて最初から近づかないという自分のパターンを当たり前のように受け入れていましたが、それは親密をあきらめ孤独を受け入れただけだとも気づきました。

そのジレンマを克服して適正な距離をつかめるようになりたい、ここで学ぶことでそれが実現できるのではないかという強い思いと希望が根底にあり、
意識的に他者に関心を持つ努力をするようになりました。

すんなりと適正な距離をつかめるわけではありません。
それでも、次に何をしたらいいのか、道が開けたことは大きいです。

もともと素質がないから無理だろうという諦めを脱し、繰り返される失敗をものともせず再び奮起させ努力を続けるためには、ありのままの自分を認め、信頼してあげるという、自分自身のサポートが必要だということにも痛感し始めました。

ジレンマと同時に、長らく他者に対しての甘えもありました。どこかで、誰かが気にかけてくれるだろう、配慮してくれるだろう、と、理想を相手に押し付け、してくれる人は心の広い人格者、してくれない人は相手の素質であり自分にはどうしようもない部分だという責任転嫁は傲慢なものでした。

相手も自分と同じように悩み日々自分の事で精一杯なので、他者の世話などするヒマはないかもしれないという、相手の立場を思いやる視点が持てなかった私は、ぽつんと玉座に座り、世話してくれる人を待ち続けていたのです。そこにいては孤独は増すばかりです。

自分を世話できるのは自分だけ、つまり自分を成長させ育むことができるのは自分だけなのだと気づき、努力すれば変化できると自分の可能性を信頼する領域が増えたことは、ふらふらと迷いながらも学び続ける活力にもなっています。

道に迷った時、自分の現在地を客観的に把握できる視点が必要です。
自分だけが持つ情報や視野での現在地情報は、ぼやけてしまい見誤ることも多々ありました。他者や現実は自分自身を映し出した鏡であるという目でとらえると、だんだんとつかめてこれるようになりました。
人の振り見て我が振り直せ、の実践です。

スクールで自分自身が指摘され気づくことはもちろん、他者が指摘されていることを自分にも必要な箴言であると、何度もハッとしてきました。お互いをありのまま認め許しあうことも必要だとは思いますが、それが愛なのか互いの甘えからくる堕落なのかが分かりにくいため、何でもかんでも受け入れることを良しとする傾向のものには、強い抵抗がありました。

叱ってくれる人、たしなめてくれる人、身を持って「これ失敗例です」と示してくれる人がいるグループでの学びは、自分が成長するためには厳しい道も必要という私のニーズに合致し、心の拠り所にもなっています。

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■今後の課題

自転車に乗る、泳ぐ、など理論ではなく経験でつかむのと同じで、ちょうどいい他者との距離、ちょうどいい客観性、ちょうどいい自己愛など、バランスをつかむためには何より経験を積むことが、自分にはもっと必要だと思います。

出来ないことを叱って震え上がらせる自分だけでなく、小さい歩みでも認めてあげて応援してあげる自分を増やしていくことも、自己嫌悪で動けなくなりがちな自分には必要だと思います。

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W・Aさん【2015年度レポート】

グループレッスンを通しての成長記録

注目したのは「他者との関係において」「自分との関係において」の成長です。

基礎講座から始まり巣鴨でのグループレッスンを経て現在に至るまでに、学びを投げ出した時期に触れずには成長を語れないと思い直しました。2012年4月頃(アルマさんが巣鴨から江戸川橋にお引越しされた頃)から1年3ヶ月程、新たなグループレッスンへの参加表明をしたにも関わらず、ほぼ出席しませんでした。

この時期は自分の問題点が次々と浮き彫りになり、内面だけでなく三次元に現れた色々な問題に取り組む姿勢を問われました。エゴイズムに囚われていることすら気づかずに、問題を直視することから逃げ、真摯に取り組まなかったツケは数えきれません。

アルマさんに何度もヒントを与えていただいていたのに、思考はまとまらず、何を優先すべきかをよく間違えました。

感情は麻痺し、些細なことで泣いたり怒ったり不安定でした。行動すべきことを後回しにして、その場しのぎの逃避を繰り返していました。

アルマさんとスクールの皆さんが
「私が問題に気づき必要な学びを進めることが出来るように」と祈ってくれていたことを知ったことをキッカケに意識が変わり、涙があふれて胸が熱くなりエゴイズム同然になっていた私自身の魂の声がやっと耳に届きました。

その成長したいという魂の声を信じ、もう一度、グループレッスンに取り組もうという一歩を踏み出す勇気がわき、2013年7月頃に復学できました。今にして振り返ると、復学当時に感じ取れていた愛はほんの一部に過ぎず、学びを進めるごとに過去に受け取っていたのにキャッチできなかった愛をひとつひとつ見つけては、感謝の想いを強めています。

本当に救われた思いがします。
それからの2014年と2015年は、この道はいつか来た道~と、歌いたくなるようなデジャブの学びも多々ありますが、似たような問題だからこそ再度取り組む時の心がゆったりとしていて「今度はこうしてみよう」という柔軟性が増しているようにも思います。

分岐点で選択を変えると結果も変わるということを、上(パーマネントパーソナリティ)から見て「へぇー」と学び直しているような感覚です。この問題はこういう解き方もあった、今度はこうしてみよう、という「自分の自由意志」を使うことが増え、自尊感情も強くなりました。

自分プロデュースという考え方もレッスンの中で学びました。それはすなわち自分をどのように魂の成長をするためにより良く育てていけるかということだと私は認識しています。

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端的に表すと、

自己否定→自己受容(自尊心の芽生え)
→自己育成(自分=エゴイズムからの脱却)

2014-2015年は、まさに自己受容から自己育成への過渡期で、
たまに自己否定に戻る時もありましたが
目標が高く見定められたのでリカバリーも早くなりました。


◆思考(智恵)・感情(愛)・行動(力)のバランス
グループレッスンで学ぶうちに、偏りを自覚できるようになりました。
・考えすぎて行動できずに終わる(もしくは)相手の感情を無視した変な行動に出る
・感情を受け止められず表現も出来ず停止したツケが思考に行くなど、私の場合は、特に思考が強く、感情が弱く、行動は日和見です。

感情(愛)の部分を豊かにするために実践してみたことは
・素直な自分の感情を認めてみる(まずは自己受容)
・相手に率直に伝えてみる
・相手の立場で相手の感情に意識を向けてみる
・行動する前に、これは何が原動力なのか(愛が入っているか)を考えてみる
・映画など、物語を通して人の感情の機微を読み取ろうとしてみる

徐々にですが自分の中に色々な感情があることに気づいていきました。
そして相手も「自分と同じように色々な感情を持った人間」ということが実感できるようになってきました。

変な話、頭では分かっていたのですが、自己否定が酷くて、相手を上目遣いに見上げて接する心持ち(逆差別)でいたので、この実感を得られたことで対人関係の緊張感や恐怖感が薄れていきました。

今まで悩んだ末に言えなかった気軽な一言(例えば、お昼を一緒に食べようとか)が以前よりもスムーズに言えるようになり、相手の答えがYESでもNOでも意外と大丈夫なんだという経験も積むことが出来ています。グループレッスンだからこそ失敗を糧にする勇気が出て、積極的に実践練習を積ませて頂いています。

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◆夫との関係において
そもそも私は結婚に至るまでに夫に対して「面倒をみてもらっている」という意識が強く、見返りとして、夫の求めることには出来るだけ応えなくてはいけないと思っていました。そして私は良く頑張っていると思っていました。

ところが、グループレッスンで色々な勉強をするうちに、私が一方的に「やらされている」という被害者意識を持っていたこと、それにより相手を加害者に貶めていたこと、そしてそもそも期待に応えているつもりだったけど
実際は応えていたとは言い難いことに気づきました。

頑張っているといっても消極的な我慢や忍耐などは得意で、自ら積極的に働きかけて相手のためになることを考え、何が必要なのか工夫して行動してみる努力は怠ってきました。そして実は夫もまた、私に対して、
「いろいろやっているはずなのに感謝されない」
「良かれと思って愛を与えているのに愛してくれない」

という被害者意識を持っていたことがここ数年で分かってきました。

結局、似た者同士で、自分勝手に自分が良かれと思うものを相手に与え、その見返りとして自分が求めるもの(安定とか愛とか)を貰おうとし、うまく貰えない時は相手のせいにしてきたのかもしれないという構造が段々明らかになっていきました。まず私自身が、

・自分の考えや感情を率直に、かつ反発されない方法で相手に伝える努力をする
・相手の期待のうち自分に出来ることの線引きをしたうえで提供する
・自分の写し鏡としての相手を育てるつもりで自分から自立心を持って行動する

このようなことを意識して取り組んでみたところ、今まで夫の顔色を窺って遠慮していたことがチャレンジしていなかっただけで「実は出来る」ことに次々と気づいていきました。

すごく「やったー!」と実感したのは、初めて一人で旅行に行けた2014年10月です。私がその経験を全身で喜び、活き活きとしている姿を見せたことで、夫は私以上に喜び、私に対する理解の幅が広がったと後に言いました。

その後も味を占めて2015年にも一人旅行が出来ましたが初回ほどの感動がなかったことで気づいたのは「旅行」がしたかったのではなく「一人で計画し実行できた」行為そのものが私にとって必要なことだったのだと気づきました。それでも私自身が喜びをもって人生を楽しむことが私だけではなく夫にも喜びとなることになろうとは以前の私には思えなかったことです。

アルマさんからもたびたび指摘がありましたが、3歳児を育てているような気持ちで接する(例えば一緒に遊んであげるとか誉めてあげるとか関心を持ってあげるとか)と嘘かと思う位にうまくいき驚きました。私も「やってみた!」「出来た!」が喜びになるのですから、同時に私の中の3歳児も一緒に育てているような気持ちです。

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◆実母との関係において
期待に応えなければ捨てられるという刷り込みの恐怖がありました。認めて欲しい、愛して欲しいから精神的に依存していました。完全に母から見て私は「よいこ」(都合のよい)でした。

この母との関係において「自分が自分らしくあること」に取り組まずにいた問題が保留のままさらに夫との関係においてバージョンアップして追加問題が来たような印象です。追加問題から先に取り組みましたが、結果、母との関係も私の中では成長できていることを実感しています。

一番顕著なのは「母の期待」に応えようとするのを止めたことです。子供を産み育てるという期待は年齢のリミットも助けになりましたが、以前だったら期待に応えないことを責める言葉に過敏に反応して自分を自分で責めすぎていただろうと思います。(スクールを休む直前の初妊娠・流産の時はそうでした)2014年に私が「もう無理だから、諦めてね」と心から言えた時に、すっと肩の荷が下りたような解放感がありました。

嫌味も案の定言われましたが、不思議と全然へこまなかったのが自分で嬉しく、これからは母という一人の人間として労わってあげたいという思いが強いです。

トータル俯瞰で見てみると、同じような問題で行ったり来たりしていますが、もしかしたらお気に入りの問題集なのかもしれません。ちょっとゾッとしました。

飽きもせずこの問題集を繰り返すのか、新しい問題集に取り組めるかは私次第です。自分が自分らしくあることで何が提供できるのかに今後は意識を向けていきたいと思います。

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◆他者との関係において◆
グループレッスンでは互いの長所短所を直接的に話し合う機会もあったし、間接的に知ることも出来ました。自分の視野で見えていた自分の長所短所が
他者の目で見た時に全く別のものとして捉えられることも多々ありました。

隠したところでスクールのメンバーにはバレてしまうし隠すだけ無駄よね、
という諦めが始まりでしたが、だんだんと「この人達には弱みを見せても大丈夫」という信頼感に変わっていきました。

そうやって他者に自分をさらけ出すという経験をレッスンの一環としてでも出来たことは大きな自信になりました。「自分をさらけ出したら(正体がバレてしまったら)拒絶される」=「怖い」という思い込みの呪縛が、その怖いと思い込んでいることをすることで解けていくなんて思いもしなかったです。

そうやって出来ない自分をもさらけ出して受け入れていくと、とても気が楽になって、それでようやく他者に目を向ける余裕が出てきました。他者を知ろうとすることで、そこから自分の新しい一面に出会えたりもしました。
自分だけを見ていた時とは全く違う世界の見え方です。そうすると短所のある自分も仕方ないけどまあいいか、と思えるようになりました。

<状態の流れ>
・あなたはOK、私はNGの思考、拒絶される恐怖
・他者への恐怖は【自分で作り出していた幻影】だということが分かった
・他者がそれほど怖くなくなってきた
・他者に興味が出てきた
・自分が好きになってきた(駄目な自分も含め)
・あなたも私もOKの境地

◆自分との関係において◆
今までは、起きている出来事(主に嫌なこと)に対して反射的に感情で反応をしてしまいがちでしたが、「それってどういうことだと思う?」とスクールの中でケーススタディとして自分の事や他者の事を考えたり、リーディングしたりするなかで色々な気付きを得ました。

目の前に現れているものだけが正解ではないということ、今生だけの視点ではなく、それぞれの輪廻転生の大きなその魂の成長の過程という視点を持つことで、起きていることの意味をつかもうという前向きな取り組みが出来るようになっていきました。

そして本来の自分が今生で何を学びに来ているのかという視点を持つことで、本来の自分に近づく感覚があり、他者の期待に応える(自分を殺す)ことをやめる勇気が湧き、今もトライ中です。

<状態の流れ>
・嫌な出来事が起きた
・なぜ起きたのかを考えるようになった
・取り組むべきことが分かり、やってみた
・意外と早く解決した
・魂の成長という視点でその出来事から学べた
・本来の自分の意思を尊重する勇気が湧いた

トータルすると、生きるのがしんどくなくなってきました(自分の事が嫌いっていうのはしんどい)。自分を取り戻せてきました。まだそこか、と思いますが、自分の事を信じられなければ自分のことも助けられないし、ましてや人のことなど助けられないと思えば、ようやくスタートラインに立ったような気もします。この与えられた今の自分で出来ることをしていくために、
必要な成長だったと思います。

成長をあたたかく厳しく見守ってくださったアルマさん、そして一緒に学んでくださった皆さんに心から感謝を申し上げます。これからもどうぞよろしくお願いします。

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