長谷川町蔵/ビッグマックの形をした、とびきり素敵なマクドナルド

 つくし野に家を買ったのは、今思えば失敗だった。
 結婚してしばらくは、実家から歩いてすぐの借り上げアパートに住んでいたけど、ダンナが東京本社に異動になったので、それから2年間は川崎の高津にある社宅で暮らしていた。生まれて初めての首都圏生活だ。でも周りに住んでいる人たちはダンナの会社絡みの人ばかりで、どこに行くのも監視されているみたいだった。東急のれん街の袋を下げて渋谷から帰って来たときなんか、中身を尋ねられたもの。
 だから妊娠が分かった時には、すぐにここから逃げ出さなきゃいけないって思った。赤の他人に子育てにあれこれ口出しされるなんてたまんないし。でもこっちには友だちが全然いないから不安だった。そこで、姉さんが住んでいる町田に住めば色々都合がいいと考えたのだ。
 社宅は安いとか、転勤の可能性があるとか、ダンナは色々理由を並べて渋っていたけど、あたしの勢いに負けて、つくし野に一戸建を買った。たしかに駅で言えば高津よりも都心から随分と遠ざかる。でもつくし野は川崎じゃなくて町田、つまり東京だ。何より「金曜日の妻たちへ」の舞台である。引っ越してしばらくの間は、子どもの頃夢見ていた場所に住む自分がセレブになった気持ちがしたものだ。
 でもそれは長続きしなかった。ノリの良さだけが取り柄だったダンナは、田園都市線の殺人的なラッシュに毎日揉まれたせいか、何をするのも億劫がる人になってしまった。ここ1年ばかりの日曜日は、スーパーへの買い出しだけ手伝ったと思ったら、俺の義務は果たしたとばかり部屋にこもってずっとネットをやっている。
 そしてマサキも、あたしが思い描いていたような子には育たなかった。庭のある一戸建で育ったら、普通はノビノビした子に育つはずだ。なのに、ちょっとしたことで癇癪を起こすし、すぐ泣く。一体誰に似たのだろう?
 マサキの小学校のクラスは、〝翔〟が名前についた子がやたらと多い。名前の通り、空を羽ばたくそんな子たちと比べて、マサキは地面でモゾモゾ這い回っているように見えた。成績がそんなに悪くないのがせめてもの救いだ。あの子が育つ場所は、つくし野よりもっと都心の方がふさわしいのかもしれない。
 だから一度、ダンナに提案したことがある。「ねえ、豊洲のタワーマンションってテレビでよく宣伝してるよね? あそこに家を買い替えたら、通勤も楽になるんじゃないかな?」
 でも呆れたような口調でやんわりと怒られた。「お前さあ、豊洲のタワマンの値段知ってんの? 安いやつでも5000万はするよ? つくし野ってさあ、人気が落ちてるから地価も滅茶苦茶下がってんの。今売ったら、買い替えどころかローンの残額すら返せないって」  
 つくし野に家を買ったのは、今思えば失敗だった。
 あの時、高津で耐え忍ぶ生活を選んでいたら、貯金も貯められただろうから今頃あたしは豊洲に住んでいただろう。何しろ豊洲は銀座に近い。ずっと渋谷で買い物する生活に憧れて育ったし、こちらに来てからも渋谷に直通で行けることだけは、住まい選びの条件として譲れないと思っていた。銀座なんか年寄りばかりの古ぼけた街に見えた。でも渋谷が年々汚くなっていくのと対照的に銀座がどんどん輝きを増していくように感じられてきた。大人になって銀座の魅力を理解出来るようになったのかもしれないけど。
 だから2013年3月28日の今日、あたしは銀座三越に来ている。学校が春休みだからマサキも一緒だ。マサキは生涯初銀座のはずだ。田園都市線は平日の昼間でもすごく混むので、マサキは鷺沼あたりからずっとグズっていて、ここまで来るのもひと苦労だった。でも今回の体験をきっかけに銀座が素敵な街であることを知るだろう。そうなれば、来たるべき対ダンナの〝豊洲住み替えバトル〟の第2ラウンドで大きな戦力になる。
 最初に向かったのは、みのる食堂だった。9階とは思えない豊かなグリーンに囲まれたテラス越しに有機野菜で作られたキッズメニューを食べる。銀座に親子で来たからこそ味わえるイベントだと思った。
 でもいざ行ってみると気が引けてしまった。店の中にいるのは、生成りやダンガリー色のシャツドレスに身を包んで、渡辺満里奈的なこざっぱり感を漂わせていた母親たちと、シンプルだけど上質そうな服を着た子どもたちばかり。きっとみんな豊洲に住んでいるのだろう。キャナリーゼとその子どもたち。入り口にズラっと停車したバガブーのベビーカーの大群が、あたしの豊洲上陸を阻むテトラポットのように見えた。それでもあたしはいつか豊洲に住む。今はまだその時じゃないけれど。
 そんなわけで方針転換してランチの場所に選んだのが、今こうして座っているディビット・マイヤーズカフェだったというわけだ。デイビット・マイヤーはロサンゼルスでも有名なセレブ・シェフでマドンナも常連らしい。でも正直言うと、店内に入っただけで軽く後悔した。ジーンズにスニーカーのあたしには場違いにオシャレな場所だったのだ。
 お店の中に座っているのは、ダンナと違って仕事が出来そうなビジネスマンや、なぜ午後1時をとっくに過ぎているのにここにいられるのかがさっぱり分からないOLファッションの若くて綺麗な女の子ばかり。しかもマサキが食べたいと指差したフェイマスデイビットバーガーは、1890円と笑ってしまうくらい高かった。でもこんなことで後悔していちゃダメなんだ。ファストフードじゃない本物のハンバーガーを食べれば、この子も都心志向になるかもしれないもの。それにしても出来上がるのが遅い。もう注文してから20分近く経っている。それが本物の証なことは重々承知だけど。
「フェイマスデイビットバーガーでございます」
 うやうやしい声と一緒にようやく料理がやって来た。ポテトが銀の食器に生け花のように植えられていてとても綺麗だ。でもこのハンバーガーはいつも食べているものとはちょっと違っていた。レタスの代わりにキャベツが、トマトじゃなくてオニオンが挟まっている。何より肉をあまり焼いてないのか赤いままだった。一口食べたらさすがに美味しかったけど、それはハンバーガーとは違う別の何かの美味しさだった。
 するとひそかに恐れていたことが起きた。マサキが癇癪を起こし始めたのだ。
「このハンバーガー、お肉が赤い!」
「赤いから美味しいのよ、食べよ」
「お肉が赤いとお腹コワすってママ言ったじゃん!」
「ここはちゃんとした赤いお肉だから大丈夫なの」
「何でずっと電車乗ってきて肉が赤いの!」
「しっ」
「こんなハンバーガー美味しくない!」
「ちょっと……」
「こんなハンバーガー、お腹コワす!」
 マサキは泣きだした。店内の視線が一斉にあたしに向けられた。

 ろくに食べられないまま、勘定を済ませてディビット・マイヤーズカフェを出たあたしたちは10分後、松屋の裏のマクドナルドに飛び込んだ。今度のハンバーガーは、注文すると1分もせずに出て来た。蛍光灯が眩しいお店の中にいるのは、ジーンズにスニーカーの母親たちと原色のフリースを着させられた子どもたちばかり。みんなテーブルの下にユニクロやビックカメラの袋を幾つも置いて、それぞれの食事を慌ただしく取っていた。一体この人たちは何しに銀座に来たんだろう? 
 マサキはというと、食べ慣れたランチにご満悦だった。
「ママ、やっぱりマクドナルドが一番だよね」
「そお?」
「中でも町田のマクドナルドが一番素敵だけどね」
「マクドナルドはどこも同じよ?」
「だってあそこ、ビッグマックの形だもん」
 あたしは、町田駅からすぐのところにある、円筒形をしたマクドナルドを思い出した。あそこのことをこの子は言ってるんだ。最初にあたしとマサキが行ったのはもう3年近く前のことになる。そこで姉さんと姪の菜穂ちゃんと会ったのだった。菜穂ちゃんは姉に似て背が小さいせいか、歳のわりに幼く見える不格好な子だった。でもマサキは彼女のことが大好きらしく、その夜2人がシェイクを飲む姿を絵で描いたほどだった。
「ママ、あそこに行けばまた菜穂ちゃんと会えるかな」
 マサキが彼女に会って何か話す可能性なんかあるわけが無いので、あたしは質問に答えずに下を向いた。するとシャツに不注意でケチャップがついていることに気がついた。マサキの関心がポテトに移り、無言でポテトにむしゃぶりつきはじめたので、慌てて洗面所へと向かった。
 ドアを開けたら、ヒドく疲れた顔をしたオバさんが、胸から血を流しながら向かいのドアから同じタイミングで入って来た。
 よく見たら、それは鏡に映ったあたしの姿だった。

【初出:2013年4月/ウィッチンケア第4号掲載】

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