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解離性同一性障害、複雑性PTSDを寛解した元風俗嬢が本気で社会復帰を試みるその1

わたしは現在46歳、26年振りの社会復帰を試みている。44歳で今もお付き合いしている彼と出会ったことをきっかけに何とか風俗業界を引退し、約3年かけて普通の生活をすることや、自分が抱えていた心身の問題と向き合って折り合いをつけてきた。解離性同一性障害であること、複雑性PTSDであること、1年前には難病を患っていたことまで判明した。こうして書いているとなかなかハードな人生設定をして生まれてきた自分はマゾヒストなんだろうかと笑ってしまう。

解離性同一性障害や、複雑性PTSDから寛解して目が覚めて現実と向き合う日々は筆舌に尽くし難い壮絶さであった。周りから見たら穏やかに見えただろうけれど、平気な顔をしていないとたちまちパニックに飲み込まれてしまうのでひたすら平穏を装っていた。

自分の恐怖心に飲み込まれることは、病気の自分に立ち返ることになるので必死で逃げ続けた。逃げることが最良の手段ではなかっただろうけれど、受容の段階に至る前は逃げるに限ると思われる。今はやや受容の段階になりつつあるので、向かい合えるほどに成長したのだろう。

わたしが何故社会復帰をしよう、したいと思ったのか、それは「シラフで初めて自分の人生を見てしまったため」だ。
3歳か4歳のときに叔父からの性的虐待を受けてから、別人格ができてしまったわたしは、危機的状況のたびに別人格を差し出して生きてきた。

その後もあらゆるトラウマが重なり、18歳頃から様々な精神疾患にかかり、精神科にかかり、処方された大量の薬で気を紛らし、苦しさや切なさを誤魔化しながら生きてきた。薬を飲んで生きていられるならどんな薬でも飲んでやると思っていた。大量の薬に頼るうちにわたしはまともな判断ができなくなる。まともに寝ること、食べること、色んなことが難しくなる。

正気でいたら生きていられないことばかりだったから、正気でいるのをやめた。そして30代から40代で死ぬ予定でいたので将来設計なるものを一切しなかった。貯金がなくても、年金を払わなくても、普通に働けなくても、死ぬからいいやと本気で思っていた。風俗業界で年齢関係なく稼げるだけのベースを築いていたので年齢によって稼げなくなる心配がなかった。今思えばこれがよくなかったかもしれない。

ひょんなことから風俗を引退し、徐々に普通の生活に慣れ、何故か寛解に至り、精神科の薬をやめ、健康的な生活をし、健やかな心身を取り戻し、いわゆる正気になったわたしは社会の仕組みにショックを受けることになる。

何故多くの人が必死に貯蓄するのか、年収にこだわるのか、正社員にこだわって働くのか、スキルにこだわるのか、老後資金について論議がなされるのか、恥ずかしながら全く知らなかった。知ってもわたしは一生社会参加をしないし、早死にするのだから関係ないと本気で思っていたし、周りはそういったことを諦めて生きている人種しかいなかった。

誰か教えてくれそうなものだけれど、わたしが仕事をするにあたって接するのはキャバクラやクラブや風俗店の幹部や会長、プライベートだと反社の方やブローカーやゲーム屋やカジノの社長、飲み屋の人達、ホスト、SMバーのママなどだ。年金や貯蓄や社会参加について教えてくれるひとがいないのは伝わるだろうか。
たまに興味半分のお節介なお客さんが「将来どうするの」なんて聞いてきたけれど、「死ぬからいいの」と答えては場の空気を一瞬で凍りつかせていた。そんな答えを「お前は面白い奴だ」と喜んでくれるのは反社の方くらいだろう。もちろんそういったお客さんがリピーターになることはなかった。

このように周りが皆刹那的に生きて、欲望という名のもとで自己表現をし、金を稼いで生きて行けば何とかなると思っていたのでわたしも同様の考えだった。この環境でも年金や貯蓄について考えることができていたらと思うけれど、そんなまともな精神があるならそもそもこういう業界に足を踏み入れることはなかっただろう。

このベースで生きてきたわたしがまともに生きることを始めてみたらやはり大変だった。
まずスキルがない。スキルがないなら介護やマッサージや飲食店で働けばよいのだが、難病のため体の一部が不自由なので体を使う仕事が無理なのだ。これがまた切なかった。介護やマッサージは経験があったけれど、デスクワークの経験はほぼないに等しかった。

職を探してみると、当然だがとにかくパソコン必須。タイピングができること、Word、Excelができなければ事務職は絶望的。できなくて何とかなる職場もあるのだろうけれど、入社してみないとどこまで必要なのかわからない。かなりのメンタルがないと「パソコン何となくできます」と偽って入社するのは難しいと思われる。

それにどんな会社の面接でも事前にタイピングテストがある。並にタイピングができないと事前の選考で落ちてしまったり、万が一面接に受かってもタイピンの点数が悪ければ落ちてしまうことがある。
WordやExcelができなくても、タイピングができたら何かしら潜り込める職場があるので、タイピング能力が自分を救うかもしれないと、タイピングの猛特訓をした。タッチタイピングができるよう、手元にタオルを被せて来る日も来る日も特訓した。

タイピングができたらかなりの自信になる。普通に生きてきた人からするとわたしが一生懸命になっていることが滑稽かもしれない。でも何も身につけず生きてきたわたしがタイピングを習得すること、様々な努力をして正社員の仕事に就くことは人生が大逆転することに等しい。地球が逆さまになることに等しい。普通に生きられることがこの上ない幸福に等しい。

わたしは幸い父の職業柄、幼い頃からパソコンが家庭にあったので、何となく何でもできた。育った環境や躾に関しては感謝しているとは言い難いものがあるが、パソコンがいじれるよう育ててもらったことには心から感謝している。
端末はいじくりまわしても壊れない、ということを身を持って知っていたのと、ソフトを立ち上げていじくり回せばある程度のことはできることを知っていたのは本当に強かった。履歴書などを作成するためや、オンライン面接のために何十年ぶりかにパソコンをさわっても、何とかなったのは父のおかげ以外の何物でもない。

彼や、寛解してから和解した母や、見守ってくれていた父や、色々な人達に支えられてわたしは立ち直ることができた。
健康になってくると周りへの感謝の思いを持てるようになった。この思いが自分を救ったとい言っても過言ではないだろう。自分が頑張っていると、その頑張れる力がひとりでに沸き出てくるものではないと感じる。凄まじい人生だったけれど、何もなかったわけではなく、既に何でも持っていたことに気付く。この思いが人生を支えていくのかなと46年も生きてから気が付いた。

来る日も来る日もタイピング特訓をし、何度も嘘の履歴書を作っては罪悪感にかられ、その気持ちと闘いながら応募をして、どこに何のメールを送って何をする予定か、次の面接はいつなのかわけがわからなくなり、常に頭がオーバーヒートの状態でよく眠れず、内定をもらうまで終わりがない毎日を1か月ほど送った。
嘘をついて職を探す罪悪感に耐えらない日もあったけれど、受かったら会社の役に立てるよう頑張ればいい、職に就いて平穏な暮らしを手に入れたなら周りにも平穏をもたらすことができるはず、だから今を乗り越える価値は絶対にあると思って内心歯を食いしばっていた。

父や母には何も話さなかった。彼にも報告程度、たまに相談したけれど自分の中の混沌の全てををぶちまけることはしなかった。それをしたらたちまち崩れてしまうから。海に潜ってじっと息をしないでいるのと似ている。息ができるようになったら思い切り息をしよう、ちょっと大変だったとそのときに話せばいい、そう思って頑張った。

約1ヶ月就職活動をして、平均より給料がよい会社で内定をもらった。派遣や契約社員でも探していたが、何と正社員になれた。必死に探す中で、ふと受けてみようと悩まず応募した会社だった。泣くほど嬉しく、実際に一人で泣いた。
就業してからの悩みもあるのかもしれない。周りは心配して、嫌だったら辞めたらいいと言ってくれる。

引退前は当たり前だけど毎日全裸で働いてきた。どんな男の人の言うことでも聞いて、機嫌を取って、死ぬほど嫌なことを毎日何人にもされて、お店や会社の売り上げのために必死で集客して働いた。すぐ脱ぐのに着るものにお金をかけて、嫌な人に触られる髪や体や顔をお金をかけて手入れをした。自分を殺すことが仕事だったので、それを一切せずとも、毎月22日間出社をして与えられた仕事をこなせば決まった給料が貰える仕事ができることが奇跡で有り難く、有り得ないので、わたしは楽しんで頑張れる気がする。もしだめでも、必死で就職活動をして身についた知識があるから大丈夫だと思える。

誰かの社会復帰に役立てるよう、また書きたいと思う。

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