【ためになる?コラム】故事成語辞典:その26「鶏鳴狗盗」の巻
本日をもちましてナマハゲと同化したnaoでございます。別シリーズの記事でナマハゲを特集したのですが、すっかりその魅力に自分自身が虜になってしまい、今後は愛するナマハゲのために自分の人生を捧げることにしてしまいました。もう、ほかのことはどうでもいいです。一にナマハゲ、二にもナマハゲ。お友達ができようができまいが、僕にはナマハゲがいるから気になりません。まったく他に代替えの利かない存在……それが僕にとってのナマハゲです。いや、僕自身がナマハゲです。
そんなわけで名前まで変えてしまいましたので、よろしくお願いします。皆さんこれからは私のことを、夏の縁側で黒豆茶でもすすりながら「ああ、あのナマハゲ……」とか言って、思い起こしてくださるのがよいかと思います。
ところでナマハゲは子供を泣かすだけでなく、たまに故事成語についても語り出しますのでご注意ください。本物のナマハゲは、「泣く子いねえが、ウォー」とか言うだけですが、偽物のナマハゲはなんだかよくわからないウンチクを語りたがります。どちらも同じナマハゲであることに変わりはないのですが、後者が僕ですので勘違いしないでください。念のため言っておきますが、見た目はどちらも同じです。
それでは今回は「鶏鳴狗盗」という故事成語についてお話ししたいと思います。お話の内容に「ナマハゲ」はまったく関係ありませんのでご安心ください。
【鶏鳴狗盗(けいめい・くとう)】
意味:
取るに足らない、くだらない才能を持つ者を言い表すときのたとえ。鶏鳴とはニワトリの鳴きまね、狗盗とは犬のふりをして盗みを働くことである。
転じて、そんなくだらない才能でも、ときにはなにかの役に立つことを示す。
なんだか自分のことを言い表しているかのようで気になる。しかし以下に順を追ってその背景を解説していきたいと思う。
由来:
時代は戦国中期の斉国。正確には斉国の人である田文という男が、秦国を脱出しようとした際に生まれた逸話に、この言葉の由来がある。
解説:
【孟嘗君という人】
【田文=孟嘗君】ですが、これは【naoさん=なまはげ】とはまったく意味合いが異なります。「孟嘗君」とは、田文の死後に与えられた諡(おくりな)で、尊称です。斉の孟嘗君は魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君と並ぶ、いわゆる戦国四君のうちのひとりです。孟嘗君はその中でもっとも有名な人物、と言うことができましょう(PCでストレートに漢字変換できるのは孟嘗君だけです)。
孟嘗君という名は先述したとおり「諡」なので、彼の存命中の出来事を記すにあたっては本名の「田文」とするほうがわかりやすいかと思います。よって、以後は本名で記載させてください。
田文は田嬰(でんえい)という人物の息子です。田嬰は斉国の威王の息子で、宣王の弟です(母親は異なります)。よって田文は威王の孫、宣王の甥ということになりますね。よい家系であることは確かです。
しかし、田文は望まれて生まれた人物ではありませんでした。
【その生い立ち①】
田嬰は孫臏などと同時代に生きた人物で、馬陵で魏将龐涓を破った際にも将軍として戦闘に参加していました(『豎子』の項を参照)。名家でもある上、そのような権勢を振るった人物でしたので、彼には息子が40名いたそうです。田文はその40名のうちの一人でした。
しかし田文の母親の人物は、身分の低い妾に過ぎませんでした。これを受けて田嬰はその妾に「産んではいけない」と釘を刺していたのですが、妾は田嬰の目の届かないところで彼を産み、育て上げてしまいました。田文は5月5日に生まれた、とのことです。
ですが、そのようなことはいつまでも隠し通せるものではありません。やがて父子は実際に対面することとなり、そのとき田文の正体を知った田嬰は激怒して母親を問い詰めました。
「吾令若去此子,而敢生之,何也(わしはこの子を生かしておくな、とお前に言ったはずだ。それをあえて生かしておいたとは、なにゆえか)」
田文はこのとき、母親に代わって父親に問いました。
「君所以不舉五月子者,何故(父上が、五月生まれの子を生かしておくなと仰る理由は、なんでありましょう)」
田嬰は答えました。
「五月子者,長與戶齊,將不利其父母(五月生まれの子は、背丈が門より高くなって、父や母を困らすと言われておる)」
よくわからない理由ですが、昔の人が大事にしそうな話ですね。でもいわゆる「迷信」です。田文は、このとき父親を論破しました。
「人生受命於天乎。將受命於戶邪(人の運命は天から授かるものですか。それとも門の戸から授かるものですか)」
「必受命於天,君何憂焉。必受命於戶,則可高其戶耳,誰能至者(もし天から授かるものだとすれば、父上が困ることは何もありません。また、もし門の戸から授かるものだとすれば、門をできるだけ高く作ればよいだけの話です。誰も届かないくらいに!)」
田嬰は我が子の言うことにぐうの音も出ず、
「子休矣(お前はもう下がって休め)」
と言うことしかできませんでした。
【その生い立ち②】
あるとき、田文は父親に尋ねました。
「子之子為何(子供の子供はなんと呼びますか)」
田嬰は短く、これに答えます。
「為孫(孫だ)」
「孫之孫為何(孫の孫はなんと呼びますか)」
「為玄孫(やしゃごだ)」
「玄孫之孫為何(やしゃごの孫はなんと?)」
「不能知也(そんなの知るもんか)」
どんな会話なのかよくわからないことでしょう。かいつまんで説明すると、田文の言いたいことは次のようなことでした。
この息子の言葉に感銘を受けた田嬰は、客分たちの接待を息子に命じました。その後田文のもとには厚い接待を求める客分たちが多く集まり、その名声は諸外国にも響き渡った、と言います。この後田嬰は亡くなり、望まれずに生まれた田文が、その跡継ぎとなりました。彼は薛(せつ)の地を領地とし、そのため以後は「薛文」とも呼ばれるようになります。
【田文、秦に捕わる】
田文の名声は、先述したとおり諸外国に響き渡っていました。彼のもとには上は諸侯の賓客から、下は犯罪者に至るまで、さまざまな人たちが集まってきています。噂を重視した秦の昭襄王は彼を宰相に取り立てることを約束し、自国へと招きました(昭襄王については『完璧』の項を参照)。
しかし昭襄王という人は、記録を見てもあまり定見を持たない人だと言えましょう。このときも臣下の言葉を受けて、宰相に任じた田文を監禁してしまいます。もともと斉の人間なのだから、油断できない、と……だったら最初から呼ぶな、という話なんですけどね。
そこで困り果てた田文は、昭襄王の寵姫と接触を図りました。彼女に「とりなし」を頼もうというのです。その寵姫は請け負ってくれましたが、そのかわり条件をひとつ出しました。
「妾願得君狐白裘(あなたの持っていた白いキツネの毛皮がほしい)」
確かに田文はそれを持っていました。しかしそれは秦に入国した際に昭襄王に献上してしまっていたのです。とても高価な品で、天下にふたつとない代物でした。困った田文でしたが、このとき彼の客分の一人が「私にお任せ下さい」と言ったのです。
その客分は夜の闇に紛れて宮中の蔵に忍び込みました。そのとき物音を立ててしまい、衛兵に誰何されると「わんわん」と犬の鳴き声を真似てごまかし、見事狐の毛皮を盗み去ったのです(これが『狗盗』)。これを受け取った寵姫は、昭襄王をうまく説得し、その結果として田文は釈放されたのでした。
やっぱり昭襄王という人には、定見がありません。寵姫の言うことにほだされて政敵となろう人物を釈放してしまうなんて……。さらに彼は一度釈放を決めた自分の判断を後悔し、また田文を捕らえようとします。もう、最初から招かなければよかったのに……。
【田文、秦を脱出する】
その後田文一行は逃げて函谷関まで辿り着きました。しかし時間はまだ夜明け前です。当時の決まり事として、関所というものは夜明けとともに開門し、旅行者を通さねばならないのですが、何をもって夜明けとするかは、一番鶏が鳴くことを合図としていたのです。
追っ手が迫っており、田文は焦っていました。しかしこのとき客分の中にたまたま「ニワトリの鳴き真似がうまい男」がいたのです。
その男は、「私にお任せ下さい」と言いました。
彼は夜明け前の暗闇の中、「コケコッコ」と叫びました。すると周囲にいた本物のニワトリたちが、つられて「コケコッコー」と鳴き出したのです。
かくして関所の門は開きました。
田文はすんでのところで追っ手から逃れ、秦国を脱出することに成功したのでした(これが『鶏鳴』)。
もともと犬の真似をした男や、ニワトリの鳴き真似をした男は、客分たちの中でも「能なし」として蔑まれていた存在だったそうです。しかしこのことがきっかけで彼らは名を上げました。そして、それを見抜いて客としていた田文の眼力を、当時の人々は褒め称えたというのです。
いかがでしたでしょうか。今回は割とおとなしめな話でしたね。でもまるで作り話であるかのような、よくできた話だと思います。
ともあれ、人というものは何かしらの能力を持つのだ、それがどれほどくだらないものだったとしても、いつかそれが役立つときが来る、というお話でした。
僕自身に当てはめてみると……何があるのでしょう。ここでこんな話をながながとお披露目する、これを能力と言っていいのでしょうか。いつか役立つときがあればいいですけど(笑)。
残酷な話を好むナマハゲにしては、珍しく死人が出なかった回でしたが、逆に物足りなく感じた人もいるかもしれませんね。
まあ「ユートピアの新聞ほどつまらないものはない」と、かのアーサー・C・クラーク博士もその著書の中で言っていることですし、人は事件を第三者の立場で見聞きすることが大好きな生き物です。残酷な話が多くなるかもしれませんが、今後も細々と続けていければ、とは思っています。
最後に興味深い話をひとつだけお届けします。
この孟嘗君が生きた時代のおよそ200年後、司馬遷はかつての彼の領地であった「薛(せつ)」を訪れました。司馬遷は、そのときの印象を「乱暴な若者が街に多かった」と記録しています。薛は、孟子が育った鄒(すう)・孔子が生まれた魯(ろ)とは明らかに異なる、と……。
そのわけを尋ねたところ、かつて孟嘗君はこの地に賢者を招き入れたのと同時に、愚にもつかない犯罪者やならず者たちも集めてしまい、彼らが住む家は六万軒以上あった、というのです。司馬遷が実際に接した乱暴な若者たちは、その血を受け継いだ子孫だった、というわけですね。
環境や血筋で、いつの世も人の性格は左右されると言うべき事例ではないでしょうか。現代でも似たような話は、探せばありそうですね。ナマハゲの僕としては、早く人間に進化してもらいたいと思うばかりです。
過去記事をまとめたマガジンです。こちらもぜひお楽しみ下さい。
それでは次回もお楽しみに!
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